歌の路

雨宮テウ

第1話

ずっと昔、

博士の懐中時計がまだ動いていた頃、

夜空のように深く青い翼を持った鳥が

私にこっそり教えてくれた。

 遠い昔、自分の若さと力を過信して、

一度だけ空路をそれたことがあるんだ。

制止する優しい声も無視して、思うように飛んでみたいと思ったから。

 広い空は私のものだと言わんばかりに、風をつかみ空気を切って、縦横無尽に飛び回っていたらね、

空の怒りに触れてしまって、深い海に撃ち落とされてしまったのだよ。

 海の水が傷に染みて、もがいても沈んでゆくばかり。息が足りず力尽きて、

それでも空へ還ろうと

光指すほうへ首を擡げて。

 でも血の匂いを嗅ぎ付けた私の知らない海の生き物に私の体は食べられてしまったのだよ。

 意識だけが深い深い海の底へと沈んでゆき、深海を漂流していった。

莫迦な自分を悔やんでも、

もう翼は戻らない。

誰かに見せられるはずもない涙を流しながら、

ひたすら海流に身を任せ、漂っていた。

時間という概念を失ってしまうほどの膨大な時をそうやって過ごしていたある日、

流れ着いた深海で葉桜に出会ったんだ。

 その場所は光が届くはずもない誰も足を踏み入れたことのないような深い場所だというのに、

月の光が差していて、セノーテのように澄んでいた。

 葉桜は私に気づいたのに何も言わず、繊細に移り変わってゆく優しい声で密やかに歌っているばかりだった。

葉桜の傍らで私は久しぶりに眠った。


『鳥がこんなところにいるなんて珍しいね。』

葉桜は突然私に話しかけた。

『私が鳥だとわかるのですか。翼も囀るクチバシもないこんな姿なのに。』

私はもはや、悲しみの塊にしか過ぎない形をしていた。でも葉桜は言った。


『わかりますよ。空と風のにおいが、海に染まってしまったその青に染みついているから。』

その言葉がうれしくて、私は葉桜に色々語りかけたのだけれど、

その後葉桜が言葉を返してくれることはなく、聴こえるのは柔らかな旋律だけだった。

 それからまた海流に乗って漂うと、歌も海流に乗っていることに気が付いた。

歌の聴こえない流れに乗ることがなんだか怖くて、

私は歌の海流から外れないよう海路を漂うようになった。

 その歌は深海の海月に歌われ、プランクトンに歌われ、それを食べた魚に歌われ、

聴きつけたイルカがクジラに歌い、クジラが海を揺らすように歌っていった。

 歌の海流で出会った大きなクジラに噴き上げられた私は、やっと空へ還ることが出来たのだよ。

 君にも聴こえるだろうか。

海は空へ、陸へ、歌っているんだよ。

今日も歌は確実に大きな力で海を震わせているんだよ。

 けれど、耳を傾けて鼓膜を預けなくては、地上でその優しい振動に触れることは出来ないんだ。

 そう、遠い目で青い鳥は私に語った。

 鳥は話が終わると、私の肩から飛び立ってしまった。

 きっと鳥は歌を歌い、歌の空路を創って空を振動させるのだろう。

 それにしても、あの鳥の話を聞いたからだろうか。

 今日も目を瞑ると優しい振動が脳の中を旋回する。

 今夜の夜桜が一際美しく儚いことに気付いたのは私だけかもしれない。

 そう思うと、私を通して映るこの世界を

 ひどく、いとおしく思った。

​おしまい

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歌の路 雨宮テウ @teurain

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