マルのついた君へ
かで苅
第1章 / 【そこにあるもの】
プロローグ / 【 ◯と0】
「あのクソババァ〜!!」
罵倒とともに、ジョッキが勢いよく置かれる音が店内に響く。
「『顔が良いだけでは模範となる先生にはなれないのよ』ですって? こっちだって真面目にやってるでしょうが」
「あの、松下先生……」
「だいたいプリント忘れたから職員室に取りに行くことなんて誰でもあるじゃない。小さなミスでグチグチグチグチ……あぁもう、すみません生おかわり!」
彼女はジョッキを高く上げながら店員を呼ぶ。
僕と彼女――
「松下先生、さすがに飲み過ぎじゃないですか?」
この言葉を口にしたのは何度目になるだろう。
ちなみに、僕は松下先生を尊敬している。大学を卒業し母校に戻り、教師としても社会人としても何もわからない僕に手取り足取り教えてくれたのは彼女だ。
とてもお
「なに言ってるの?私が飲みすぎてるんじゃなくて、
こんな崩れた先輩を見るまでは。
「だって、僕が止めないと大変なことになっちゃうじゃないですか」
「もう〜、そんなつまんないことばっか言ってるとモテないよ。これは先輩じゃなく女性としてのアドバイス!」
長い髪を耳にかけながら彼女は笑った。
「いい? お酒の席での最高の
「分かりたくないです。そんな淀んだ現実」
マジかよ、大人ってこんな苦しい世界で生きてたの?
お願いだから嘘だと言ってくれ……
「西元くんから私がどう見えてるかは大体予想がつくけど、大人って大概そんなもんよ。キレイな花ほど毒があるの」
たしかに、どんなに取り繕っても人はひとだ。僕だってストレスが溜まらないといえば嘘になる。
「でもなぁ」
先輩の、ましてや意中の相手の崩れた姿を見ると驚きを隠せない。これじゃバラというより毒を持ったフグだ。絶妙な可愛さが残ってるぶんそれはそれで質が悪い。
「西元くんは優しすぎる。あの人にガミガミ言われてもすっごく普通じゃない。この前も理不尽な事で怒られてたのにずーっと謝っててさ、優しいっていうのは利点たけど、それは度を越すとただ甘い人間になって不自由なことばかりだよ」
あの人というのは学級主任の
「でも、もしかしたら僕が知らない間違いを起こしたんじゃないかって思うじゃないですか。あっちは大先輩だし……」
「そこ!そこが甘いんだよ!」
グッと先輩の顔が近づく。毎度説教のつもりなんだろうけど、アルコールが回り火照った頬は昼間には見せない妖艶さがあり、その無防備な距離感が僕の鼓動を早くする。
「もしかしたらとか先輩だからとかそんなの関係ない。自分が少しでも疑問に思ったなら言わなきゃ――スッキリしないでしょ? 大人なんだから言いたいことは言って、間違いに気づいたときに誠意を込めて謝ればそれでいいんだよ」
「さ、さいですか」
「うん。だから次あのババ――滝原先生に分からないことで怒られたらちゃんと言うんだよ?間違ってないと分かったら、私もしっかりフォローするから」
「それはそれで第二の問題が起こりそうな気が……」
絶対バチバチにやりあうでしょ。
――と、僕が不安そうな顔をすると先輩は目を細める。
「いいじゃん。そうなるとまた二人で飲めるんだから。それとも、私と飲むのはイヤかな」
「……」
この人はホント、天然の人たらしだ。
これじゃあ断りようがないじゃないか。
「程々にお願いします。介護する身にもなってください」
「あれ、私のこと嫌いになっちゃった?」
「……そ、そんなことありません」
よかった――そう呟くと彼女は追加されたビールに口をつける。
「じゃあ、まだまだ私に付き合ってね」
「……分かりました」
あぁ、クソ。
結局、いつまでも掌の上じゃねぇか。
※ ※ ※
結局、あのあとも長く飲み会は続いた。
「いつもごめんね、こんな遅くまで」
駅に向かう道中、先輩はそう言った。ベロベロになってるもんだからそれが本音かは知るよしもないが。
「本気で思ってるならもう少し抑えてください。店員さんも引いてましたよ」
「大丈夫だよ、あそこよく行くから私がああなってるのは慣れっこだって」
それは胸はって言うことじゃないと思うけど……
「とにかく、迎え来るまでこれ食べて酔いを覚ましてください」
僕はそう言ってコンビニ袋からアイスを取り出し彼女に渡す。飲んだあとはいつも甘いものが食べたいと駄々をこねるもんだから、自然とこういう気配りもできるようになっていた。
「おっ気が利くね〜」
「いつもの事ですから。それに僕も丁度欲しくなってましたし」
「じゃあ、あそこのベンチで食べようよ。歩き疲れちゃったし」
先輩はそういうと一足先に近くのベンチへと向かう。
そこは公園と言うにはあまりにも小さいが、ちゃんと近くに街灯が設置されているため休むには丁度いい場所だった。
「電車は大丈夫なんですか?」
「ヘーキヘーキ。今日は妹に迎えに来てもらうから――って、これバニラじゃん!西元くん分かってる〜!」
「先輩、いっつもバニラですもんね」
「そういうキミはチョコばっかりだよね」
はむ――と小さく呟きながら先輩はアイスを
「あぁ、仕事行きたくないよぉ〜不労所得が欲しいよぉ〜」
「またそんなこと言って……先輩が休んだら色々な人が困るんですよ?軽音部の子とか、クラスの子たちも」
「あはは、そうだよね。ていうかこの会話、どっちが先輩か分からなくなっちゃうね」
大きく背伸びをし、彼女は再び口を開く。
「逆だったらどうなってたんだろうね。西元くんが先輩で私が後輩。自分で言うのもなんだけど、きっとかわいい後輩になれてたと思う」
「でも、僕が上になるときっとストレス溜まりますよ。ほら、先輩ってクソ真面目は嫌いじゃないですか」
「その言い方には語弊があるな〜。私が嫌いなのは何も考えずにレールの上だけを走るひと。昔からこうだからとか、皆がそうだからとか――アンドロイドじゃないんだから少しは脳みそ動かしてって思う」
「でもそれはこの国の風潮みたいな所がありますし……」
「そう、だから出る杭がとことん叩かれ続ける。それを悪意ではなく善意でやってるところがより嫌い――って、また愚痴になっちゃったね」
「まぁ、その点には僕も反抗的ではないのでなにも言いませんよ」
「あはは、やっぱり西元くんが先輩でも仲良くしてたと思う。そういうとこ大好きだから」
先輩はニッコリと笑うが、僕はすぐに目を逸らした。これは彼女のクセなのかもしれないが『好き』ではなく『大好き』を多用するところがある。今は慣れて少しはマシになったが(別に順応できているわけではない)、最初はひどく心を揺さぶられたもんだ。
「……僕も仲良くしてたと思います。そして今みたいに尊敬もできます」
「あはは、嬉しいなぁ。キミも大好きでいてくれて」
「――早く食べてください、溶けますよ」
「はっ、やばっ!!」
彼女は若干溶け始めているアイスを再び口に入れる。今度から棒じゃなくて吸うタイプのものにしよう。それなら舐める仕草も気にならないし。
「というか、先輩って妹いたんですね」
「あれ、まだ話してなかったっけ」
「家族の話は初めて聞きました。ずっと一人っ子だと思ってましたし」
「あはは、よく言われる。でもれっきとしたお姉ちゃんなんだよね」
「先輩に似てるんですか?」
「顔は似てるけど性格は真逆かな〜。落ち着いてるし性格も悪くない」
「それはなんというか――大人っぽいんですね」
「うん。そういうところがすごく大好きだけど、逆にすごくつまんない」
「え?」
「あっ、多分来た」
どこからともなくバイクのエンジン音が聞こえる。田舎だとはいえ多少の交通量がある道だが、その音は衰えずどんどんこちらに近づいてくる。
そして、しばらくしこんな片田舎では珍しい少し大きめのバイクが近くに停車し、一人の女性がこちらに向かって歩いてきた。
「……お姉ちゃん、いい加減タクシーみたいに使うのやめて」
ヘルメットを外し見えた顔は、たしかに先輩と似ていたが、予想以上に幼い顔立ちをしていた。
「そういうわりには呼んだらちゃんと迎えに来てくれるよね」
「お母さんがうるさいからね……って、その人は彼氏?」
「あ、僕はお姉さんの後輩の西元遥輝です」
「西元先生――あぁ、お名前は何度か伺っております。
「い、いえ。仕事ではいつも助けてもらってるので……」
「ねぇ若葉、西本先生いい人でしょ?私の大好きな後輩なんだよ〜」
「そうやってすぐ大好きっていうクセ、いい加減やめないと大変なことになるよ」
うん、よく言ってくれた。もっと言ってやってくださいマジで困ってます!
「それじゃあ先輩、僕はもう行きます」
「うん、ありがとう。また飲もうね」
「こんな時間までありがとうございます。それと、送れなくてすみません」
「いや、いいですよ。お二人ともお気をつけて」
僕は二人に背を向けて駅の方へと歩き出した。
すると――
「先生、一ついいですか?」
妹さんに呼び止められ、僕は振り返る。
「先生はお姉ちゃんのこと、異性として好きなんですか」
「……え?」
唐突な問いにいっきに酔いがさめる。
「ど、どうしたのかな急に」
「――ごめんなさい、やっぱりなんでもないです」
妹さんはそういうと再びヘルメットを被り、姉を乗せて走り去っていった。遠くなっていくエンジン音を立ち尽くしたまま聞き、完全に元の静けさに戻ってから歩き出した。
あの質問の意味はなんだ? 僕はそればかり考えていたが、一向に答えが出なかった。
※ ※ ※
そしてあれから
「お久しぶりですね、西元先生」
なんと赴任先の学校、しかも受け持つことになったクラスに松下若葉の姿があった。
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