第37話 ラッセとセルジュ

 両手で短剣を構えて突進してくるシャルロットを、アンジェリクは身体を横に向けることで瞬時に躱した。

 父に習わされた護身術が初めて役に立つのが、従姉妹の襲撃を躱すためだなんて。


「シャルロット……」


 城と離れの間には新婚夫婦のプライバシーを守るために目隠しの木が植えられている。

 西の空がオレンジ色に染まり始め、明かりを灯す前の中庭はいつも以上に見通しが悪かった。


 晩餐を前に使用人たちは忙しく走り回っている。

 アンジェリクは誰かに助けてもらうことを諦めた。


 素早くドレスの襞に隠した短剣を取り出し、右手で構えながら、まだ膨らんでいないお腹に左手を当てた。


(セルジュ……)


 唇を噛んで、心の中で夫の名を呼んだ時、頭上を大きな影が横切った。

 それは、ギャオーと巨大な悲鳴に似た声を上げ、赤く染まる空を旋回し、中庭の少し広くなった場所を目指して降りてきた。


「ラッセ……! セルジュ……」


 早い……。

 急使と同じ速さでブールまで行ってくれたの?


「な、なに……?」


 恐怖に引きつった顔でシャルロットが後ずさる。

 もう一度、ラッセがギャオーと鳴くと、腰を抜かして石の床に倒れ込んだ。


 ザッと音を立ててラッセの爪が床を掴んだ。

 尻もちをついたまま後ろに下がっていくシャルロットを、ラッセは鼻からフンと息を吐いて一瞥する。


 夕陽を浴びてきらめく背からセルジュが飛び降り、アンジェリクに駆け寄ってきた。


「アンジェリク……!」

「セルジュ」

「これは……」


 いったいどういうことだと、アンジェリクを抱き寄せながら眉をひそめた。


 赤く染まった夕暮れの中庭で、短剣を手にして向かい合う二人の婦人を交互に見る。

 アンジェリクをそっと離すと、尻もちをついている見知らぬ女の前にセルジュは立った。


 長身の若い男を見上げたシャルロットは、状況も忘れてしばしその美貌に見惚れている。 

 セルジュが冷ややかに見下ろした。


「アンジェリク、人を呼んでおいで」


 セルジュの言い方は優しかった。だが、その美しい顔は氷のように冷たく、青く光る目の奥には怒りの炎が揺らめいている。

 媚びるように上目遣いをするシャルロットを横目に見ながら、アンジェリクは城に向かった。


(この期に及んで、人の夫に秋波を送るか……)


 はらわたが煮えくり返る。


 アンジェリクに呼ばれ、慌てて中庭に駆けてきた従僕と侍女たちは、そこで一斉に悲鳴を上げた。


「な、な、何かいる!」

「何?」


 驚いて逃げようとする彼らを、ラッセが不本意そうに薄目で見ていた。


「大丈夫よ、みんな!」

「それより、手を貸してくれ」


 セルジュに命じられて、ドラゴンにびくびくしながらも従僕たちがシャルロットを捕らえた。

 その横で、もう行くよ、というふうにラッセは床を蹴り、短くグルルと喉を鳴らしている。

 ドラゴンは夜目が利く。ブールに戻りたいのだ。


「サリと卵が待ってるものね。ラッセ、ありがとう」


 手を伸ばして軽く腹を撫でてやると、ラッセは翼を広げ、あっという間に茜色の空に消えてしまった。

 中庭に集まった従僕と侍女は、呆気に取られたように、暮れてゆく空をただ見上げていた。


「アンジェリク様……!」


 少し遅れてフレデリクが走ってきた。

 セルジュが短く状況を説明すると、フレデリクは顔をしかめた。


「そのようなことが……」

「あの時、誰かに見られていると思ったのは気のせいじゃなかったみたい」

「クリムの近くで馬車に乗る時のことですか?」


 きっと、あの時、シャルロットはアンジェリクを見ていたのだ。

 アンジェリクがバルトの家に行くのを見ていたのか、それとも、シャルロット自身がバルトの家に用があったのか……。


(マリーとバルト夫人に何かしようとしたの……?)


 そこまでは確信が持てない。

 どちらにしても、バルトのことをアンジェリクに知られたと、シャルロットは気づいた。


 セルジュがアンジェリクを抱き寄せる。

 氷のように冷たい顔を、シャルロットが連れていかれた通路に向けていた。



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