「レイの喉に異常が見つかった。残念ながら、今日の舞台には立てないだろう」

　急報を伝えたジェームズと楽屋に入ったベラは、ビルの口からそう聞かされたとき、どこか他人事のような気分でいた。レイの状態はもちろん心配だし、今夜の舞台についてもどうなるのだろうと不安になった。それ以上のことを考える余裕はなかった。

「そこで今日の前座は中止として、君を主役に抜擢したいと思っている」

「えっ……？」

　ビルの表情は真剣そのものだった。冗談を言っている様子ではない。

「私が、主役に……？」

「そうだ。レイの代わりを務められるのは、君しかいない」

　皮肉な状況だった。自分が主役と信じてこのホテルにやって来たベラは、一度は期待を裏切られ、今になって大役を任されようとしている。ベラが混乱するのも無理はなかった。

「でも、私……」

「ベラ、これはチャンスだ」

　ジェームズの言葉は軽率だった。ベラはレイのことを慮っていたし、主役を務められるかという不安もあった。そこへジェームズがかけた言葉は悪い方向へ作用した。

「少し考える時間は、あるかしら」

「残念ながら……あまりない。いや、君が頷かないのであれば、今夜の公演は中止にするしかないだろう」

　ビルが現実的に答えたその言葉も、ベラの心理に良い影響をもたらさなかった。見えざる重圧がベラの肩に手をかけている。

「一時間だけ私に下さい。それから、答えを出すわ」

　ベラが深刻な顔で部屋に戻っていくのを、さすがに二人は追いかけることはできなかった。とはいえ、ベラを一人きりにしておくのも得策とは思えない。突然の出来事に、誰もが混乱していた。

　ちょうど一時間経った頃、ビルがベラの部屋を訪れた。部屋の中からはラジオの音楽が聞こえてくる。

「もし良ければ、少し話しておきたいことがある。入っても構わないか？」

　ビルの見たところ、ドアを開けたときのベラの表情には、ある感情が鮮やかに浮かんでいた。それでも人の心というのはどこへ流れていくか分からないものだから、ソファに座ったビルはある話をベラに伝えておこうと思った。

「私には、双子の兄弟がいた。ジョンという名前だ。ジョンと私はよく競争し合いながら育ったが、同時にお互いを尊敬し合ってもいた。勉強もスポーツもガールフレンドも、身の回りの全てが競争の対象だった。双子の兄弟と言っても容姿はあまり似ていなかったし、得意なことと苦手なことは全く違っていた。そんな兄弟だったんだ」

　ベラは口をつぐんだまま、ビルが始めた昔話に聞き入っている。

「そんな私たちが初めて見つけた共通の得意分野、それが音楽だった。私がドラム、彼がベースといった具合に、魅了された楽器は違ったがね。そんな共通の得意分野が見つかってから、やがて私たちは競争することがなくなっていった。技倆を磨くことはもちろん大切だ。だが、がむしゃらになって自分の担当する楽器のことばかり考えていたのでは、一つの共同体としてのバンドは立ち行かなくなる。ある意味で己を殺すこと、そして与えられた場でどこまで最善を尽くせるか、そうしたことを考えるようになっていったんだ」

　ビルの話が進むにつれ、ベラは彼がどうしてこの話を始めたのか、段々分からなくなっていった。

「だが、音楽というものはそう単純なものではない。学校の勉強とは違ってたった一つの正解というものはないから、己を殺すことは時に正しく、また時に誤っている。そのことに気付いたのは、ジョンがヴォーカルを務めることになってからのことだ。彼を引き立てようとして控えめな演奏をしたとき、他のメンバーとの調和が取れなくなって失敗したことがある。そうかと思えば、派手にやり過ぎて顰蹙を買ったりした。演奏が上手くいったと文句なく言える経験はこれまでに数えるくらいしかない。そしてその成功は偶然の積み重ねによって初めて成り立っていた、というのが正直なところだ」

　そこまで言うとビルは黙り込んで、しばらくしてから再び語り始めた。　

「ジョンもまた私と同じようなことを考えていたが、ヴォーカルというものはまた一つ違った役割を担わされる。少なくとも私たちのやっているような音楽ではそうだ。バンドの演奏を背負って、歌という名のメッセージを観客に届けられるのはヴォーカルだけなんだ。こんな言い方をすると君には重圧になってしまうかもしれない。しかし、君の歌声は大いに注目に値する。……これは今までに様々な歌手を見てきた私の正直な感想だ」

　ベラはその言葉に感動するのを忘れて、ある疑問を口にした。

「ところで、ジョンは今、どこで何をしているの」

「亡くなったよ。交通事故だった」

　ビルのバンド、ツインズがメインヴォーカルを欠くのにはそうした理由があった。ベラは申し訳なさそうな顔をしたが、ビルには気にするような素振りはない。彼にとってはここまでの話は前置きに過ぎず、ある厄介な問題をここで解決しておかなければならなかった。

「ベラ、これは君に決定権があることなんだが……、どちらのバンドと舞台に立ちたいんだ？」

　最早、ベラが舞台に立つかどうかということは問題ではなかった。ベラは自分自身のことにばかり気が向いていて、その問題についてはまるで考えが及んでいなかった。

　公演までの時間を無駄にせずにリハーサルを重ねれば、あるいはツインズとともに成功を掴み取ることができるかもしれない。ただ、今から十分なリハーサルを行なうことは望み難いから、かなりのリスクを伴う選択となる。一方で元から一緒に舞台に立つ予定だったニックたちとなら、ベラも安心して演奏にのることができる。ただし、ツインズと比べると演奏の安定感という意味では大きく劣る。

　結局のところ、どちらを選択するにしても大きなリスクが伴うのだから、後はベラの胸三寸ということになる。

「決めたわ」

　長い沈黙の末、ベラはある決断を下した。