Cupid shoots to kill

雨宮吾子

01.Down by the Salley Gardens

 一流の歌手を目指すその女性の名は、ベラドンナといった。ベラは、自身の初舞台がホテルのラウンジショウに決まったと連絡を受けると、愛用の古びた赤い化粧箱を持って故郷に向かう列車に乗った。生まれ育った田舎町への、久しぶりの帰郷である。ベラは慌てて旅装を整え、この列車に飛び乗ったのだったが、次第にその興奮は冷めていった。嬉しい報せを早く伝えたいと思っていたのだが、故郷に報告を待ち受ける相手がいるわけではないのだと、冷静な気持ちになっていった。

 列車が橋を越えると、車窓は都会の風景から田舎の風景へとあっという間に移り変わっていく。生い茂る木々や古びた家屋、道路を走る型落ちした自家用車には極めて退屈な印象を受け、ベラは車窓から視線を外した。故郷へは日帰りできるくらいの距離だったが、今暮らしている都会に出てから帰郷するのは初めてのことだった。故郷に良い思い出はない。それにも関わらずベラが帰郷するのは、都会にも親しい付き合いのある人がなく、どうしようもなく嬉しい気持ちを誰かに伝えずにはいられないからだった。そうしてベラは、数年前に亡くなった母の墓前に参ることにしたのだ。だから、故人を除けばベラの帰郷を待っている者はない。

 列車が進み、いくつかの駅を通過するうちに乗客は少なくなっていく。ベラはふと思い立って窓を開けた。外の風が入り込んできて、ベラは被っていた麦わら帽子が飛ばされそうになるのを慌てて掴まえて、膝の上に置いた。ゆっくりと呼吸を整えてから、昔からよく知っている歌を口ずさみ始める。幼い頃に子守唄として母親が歌ってくれた、アイルランドの民謡だ。母がどうしてこの歌を好んでいたのか、ベラは知らない。母の思い出に強く焼き付く何かがあったのかもしれないし、あるいは彼の地にルーツがあるのかもしれない。ベラに真実を探し求める気はなく、今となっては不可能なことである。歌詞の内容についても、幼い頃は真意を理解しきれなかった。それでもこの歌が心に強く残ったのは、悲しくも美しいメロディのおかげだった。ベラが一通り歌い終えると、どこからともなく拍手が聞こえてきた。視線を向けると、身なりの良い老婆が立っていた。老婆はベラの斜向かいの席を指差すと、こう尋ねた。

「お嬢さん、お一人? ここには誰か座っているの?」

「いいえ、ここには誰も」

 空席の目立つ車内であえてその席に座ろうとする老婆に対して、ベラは多少の警戒心を抱いたが、そこへ座るのを断る理由もなかった。ベラは麦わら帽子を被り、口をつぐんで窓外へと視線を向けた。その仕草に遠慮することなく、老婆はベラに語りかける。

「綺麗な髪の色をしているのね」

 老婆が褒めたのは、ベラの長いブロンドヘアだった。ベラはどう返事をして良いものか迷い、笑顔を作ってごまかした。

「それから綺麗な歌声。まるで天から降り注いでくるような……」

 その言葉を聞いたとき、ベラの顔色がさっと変わった。一瞬の後には再び曖昧な笑顔に戻っていたが、老婆はそれを見逃さなかった。ベラは老婆の真っ直ぐな視線に向かって、その意味を正直に答えた。

「ごめんなさい。褒められることに、あまり慣れていないので……」

「こんなところで燻っているのはもったいないくらいよ。ねえあなた、もう一度歌声を聞かせてくれないかしら。できれば窓を閉めて、もっとよく聞こえるようにしてから」

 ベラは戸惑った。それでもやはり断ることはできず、素直に窓を閉めて、これも今度の舞台に立つ前の練習だと思うことにして歌い始めたのだった。

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