著作権フリーおじさん

泡野瑤子

著作権フリーおじさん

第1話

 マナちゃんが死んだので、お葬式に行くことにした。


 マナちゃんは三人きょうだいだった。一番上が綾子さんで、二番めがうちの父さん、一番下がマナちゃんだった。

 正式名称は、マサナオといった。正直と書いてマサナオだ。祖父母が正直者に育ってほしいと思ってつけたらしい。「とんだ名前負けだろ」と父さんは笑っていた。

 マナちゃんをマナちゃんと呼んでいたのは、親戚の中では私だけだ。私が「マナちゃん」と口にすると、母さんなんかは、露骨に嫌な顔をした。

 私が小学生のころは、盆や正月には決まって八王子にある祖父母の家に帰省していた。うちは練馬で同じ都内だから、うきうきするような遠出ではなかったが、広い家だし、おじいちゃんおばあちゃんは優しいし、お小遣いをくれるので、ついていくのはやぶさかではなかった。

 ただ、キャリアウーマンの綾子さんから、「子どものうちから読書する習慣をつけたほうがいい」と、毎回本を贈られるのには辟易へきえきした。

「せっかくいただいたんだから、読んでみなさい」と母さんは言うけれど、国語が苦手な私は、子ども向けに書き直された『走れメロス』ですら、十ページと読まないうちに眠くなった。帰省中は、綾子さんからもらった本を投げ出して、八畳ある畳の部屋で大の字になって昼寝をするのが恒例になっていた。

 突然マナちゃんが現れたのは、私が小学六年生の年のお盆だった。

 近所で急な不幸があって、祖父母も綾子さんも父さんも、みんなお通夜に出かけた。母さんはこの年、仕事のために練馬の家に残っていた。

 私はお留守番という崇高な使命を一万円札とともにありがたく頂戴した。綾子さんにもらった本に立ち向かっては挫折し、一応持ってきた宿題にも挫折し、座卓に真っ白なノートを広げたまま畳の上に転がっていた。

 うとうとし始めたころ、ピンポーンとインターホンが鳴った。応対せねばと畳の部屋を出たら、マナちゃんはもう玄関先に上がり込んでいた。

 てっきり空き巣かと思った。ギャッとかわいくない悲鳴を上げた私に、マナちゃんはヘラヘラ笑いながら言った。

「ようカナちゃん、でっかくなったなあ。おれだよおれ」

 誰だよ誰?

 三十代後半くらいだろうか? 肩くらいまで伸びた髪を後ろで束ね、オレンジのアロハシャツに白いハーフパンツ、むき出しの長い両脚に濃いすね毛、汚れた黒いサンダル。

 こんな派手なおじさん知らない、と思ったけれど、顔に見覚えがある気がした。少し垂れた目と高い鼻は、おばあちゃんに似ている。そういえば、お父さんには弟がいると聞いたことがあった。

「思い出した? 正式名称はマサナオおじさんだけど、マナちゃんって呼んでくれていいぜ」

 正式名称とは、つまり本名ということだろうか。

 マナちゃんはその後、ひっきりなしにしゃべり続けた。

 都内で芸能関係の仕事をしていて、盆や正月もあまり帰れなかったけど、今年は久しぶりに帰れたこと。道すがらおじいちゃんたちに会って、家でひとり私が留守番をしているからいっしょにいてやってほしいと言われたこと。

 みんなはヤマシタ先生のお通夜に行ったこと。ヤマシタ先生は中学時代の恩師で、綾子さんも父さんも、マナちゃんもみんなお世話になったこと。その後はヤマシタ先生との思い出話だったけど、取り留めないのであまり私の頭には入ってこなかった。私があからさまに適当な返事をしても、マナちゃんは気にも留めないようだった。

 マナちゃんはキッチンに入って、戸棚をあさり始めた。まだ晩ごはんを食べていないらしい。まるで自分の家かのようなふるまいだ、と思ったが実際ここはマナちゃんの家だったのだ。五食パックのインスタント袋麺が二つ残っていた。おばあちゃんでもこういうの買って食べるんだな、と私はひそかに驚いた。

「カナちゃんも食べるよな? 夏はね、冷やし麺にするほうがうまいんだぜ」

 どうしよう、さっきご飯食べたばかりだしな。

 悩む私の返事を待たずして、マナちゃんはてきぱきと二人分の冷やし麺を作り始めた。パッケージの裏側に書いてある作り方を無視して、冷水でしめた麺の上に、冷蔵庫にあった豚肉を勝手にゆでて載せ、梅干しや小口切りのネギを盛り、付属の粉末スープにいろいろな調味料を混ぜたオリジナルのタレをかけた。見た目はおいしそうだ。

 完成したそれを畳の部屋に持ち込み、わくわくしながら一口すすって、私たちは同時にひどくむせた。タレの味がいやに濃い。しょっぱ過ぎるし、酢の匂いがきつい。そのうえ梅干しの塩気と酸味が追い打ちをかけてくる。

「よく混ぜて、豚肉といっしょに食えばうまいって」

 マナちゃんは料理の失敗を認めようとしなかった。私が半分と食べ終わらないうちに、マナちゃんは完食した。本当においしいと思っているのかもしれない。

 作ってもらった手前、残すのも気が引ける。私はネギをどさどさ追加して、塩気をごまかす作戦に出た。

「マナちゃんは、芸能関係の仕事って、何してるの?」

 興味が湧いたので、尋ねてみた。

「モデルみたいなもんかな」

「モデルって、カメラマンがマナちゃんを撮影するってこと?」

「まあ、そんなもんかな」

「かっこいい服とか着るの?」

「まあ、着るときもある」

「すごいね」

 このとき、私の中でマナちゃんはうさんくさいおじさんから、ファッショナブルなイケオジに昇格した。そう、マナちゃんは、顔もスタイルも良かったのだ。

「いやあ、それほどでもないぜ」

 照れ臭そうに視線を逸らしたマナちゃんは、ふと畳の上に転がっている文庫本に目を留めた。

「まだやってんのか、綾子姉さんの『課題図書』」

 綾子さんは私が物心つく前から毎年本をくれていたらしい。絵本から始まって、童話になり、古典文学へ。これを読みなさいと押しつけてくるから、マナちゃんは密かに「課題図書」と呼んでいた。今年は、夏目漱石なつめそうせきの『吾輩わがはいは猫である』だった。

「おれも姉さんとは十歳離れてるから、ガキのころはよく『名作だから読め』っつって本を押しつけられてたなあ。どう? 姉さんがくれた本、面白い?」

「実は、あんま読んでないんだ。でも会うたびに感想聞かれるから、ネットでネタバレ探して適当に面白かったって答えてる」

 マナちゃんはニカっと笑った。モデルの笑顔というのは、ひと味違うものだと思った。

「頭いいな。おれは『興味ないから読んでない』って答えて、めちゃくちゃキレられてた」

「ナイショだよ、うちの両親にも言ってないんだから。だいたい夏目漱石なんて、大昔の作家じゃん。わざわざ本なんか買わなくても、タダで読めるのに」

「そうなの?」

「死んでから七十年経ったら、著作権フリーなんだよ」

 私はスマホをぽちぽちと触って、青空文庫あおぞらぶんこのページを見せてあげる。

 吾輩は猫である。名前はまだ無い――

「どうせ買うなら、タダじゃ読めない本のほうがいいと思わない?」

「言えてるな」

 私はどうにかしょっぱい冷やし麺を食べ切った。作ってもらったから、皿洗いは買って出た。よろしくと言ってマナちゃんは畳の上に転がった。

「でも」

 両手に皿を抱えた私は、背後につぶやきを聞いた。

「死んでから七十年以上経ってもみんなに忘れられてないなんて、すごいことだよ」

 皿洗いが終わると、綾子さんが先に帰ってきた。他のみんなは、近所の人たちと食事という名の二次会に出かけて、もう少し遅くなるとのこと。

「よう、姉さん久しぶり」

正直まさなお、あんた香奈ちゃんに変なことしなかったでしょうね」

 綾子さんは鋭い視線をマナちゃんに向けた。ふたりの顔立ちは、あまり似ていなかった。

 するわけねえだろ、とマナちゃんは苦笑したが、変なラーメンなら食わされた。

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