2

突然話しかけられたので驚いて声を詰まらせていると、彼が口を開いた。


「驚かせて申し訳ない。君のような若い人はこの島では珍しいからつい。」


 青年は流暢な標準語で僕に話しかけてきた。


「ええ、これですか。これは、なんだったっけな。『夷町制九十年史』ですよ。」


 僕は表紙を彼に見せた。彼はそれをまじまじと見た。


「とすると、君は、P大学の。」

「はい。四谷先生に同伴している飯出です。」

「私は熊沢です。よろしく。」


 熊沢さんは僕に右手を出した。僕は理解するために若干の間を開けて、彼の右手を握った。彼の指はえらく細長かった。


「P大学では民俗学を?」

「いえ、有機ケイ素化学を。」

「それではなぜ、四谷先生についてこの島の調査をしているんだい。」


 いつの間にか僕の隣に座っていた熊沢さんは目を丸くしていた。


「興味があったからです。先生も人手が欲しいようでしたから。」

「しかし、興味があるのになぜ民俗学をしないんだい。」

「人文科学はブルジョアの学問だからですよ。あの類の学問を修めたところで金になりません。僕のような中産階級に生まれた者は理科系の学士号を取ってとっとと雇ってもらわないと飢え死にしてしまいますからね。」


 それを聞くと熊沢さんは笑い出した。口を隠すように手を添える彼のしぐさが上品さを体現していた。


「人文科学はブルジョアの学問か。飯出君、君は面白い考えをするね。」

「おかしいですか。」

「いや、おかしいのはこの国の仕組みだ。事実上金持ちしか文系に進めないような構造が悪い。」


 熊沢さんはそう言い切った。急に政治的なことを言い始めたので私はうろたえた。

しかし金持ちに生まれるとそういう思想になってしまうのだろうか。かの近衛文麿も大学生の時には社会主義に傾倒していたそうだし。


「しかし、民俗学は常民の生活を扱うものだ。上流階級のものが、常民を色眼鏡なしで観察できるのだろうか。どう思う、飯出君。」


 熊沢さんはまっすぐに僕を見ていた。その整った顔をこちらに向けられては逃げることもままならなかった。


「そうですね。高貴な出の方が庶民生活を客観視できるかというと、難しいものがあると思います。しかし、柳田も折口も医者の家の生まれです。」

「なるほどそれは盲点だった。」


 熊沢さんは満足げに目をつぶっていた。ようやく彼の視線から解放されて楽に呼吸ができるようになった。


「ところで、熊沢さんはこの島の方ですか。」

「いや。私もある目的があってこの島に来た。」

「目的というのは何ですか?」

「ほとんど忘れ去られた信仰の残り香を探しているんだ。」

「じゃあ僕たちと似ていますね。僕たちは『オシンメサマ』の方を調べています。」

「それは奇遇だ。実は私もだよ。」


 熊沢さんは笑みを浮かべて続けた。


「お互い、仕入れた情報を交換しませんか。」

「構いませんが、僕らはそこまでわかっていませんよ。」

「結構ですよ。情報は多い方がいい。」


 まずは僕から、島に来てからの三日間で分かったことを伝えた。「オシンメサマ」とはこの島で古より祀られてきた神のことだが、その名は戦後占領軍から派遣された文化人類学者G.マッケンジーが、島民が信仰している名も無いカミを見て、誤って名付けたと思われること。その本来の名前はまだわからないが、言い伝えでは、もともといた島が海沈んで夷島にやってきたらしいということ。夏に行われるオシンメサマの祭りでは、島中の家からオシンメサマの木像が留衣山に集められること。その祭りは女人禁制であること。そして、この島のオシンメサマの独特な形状について。

 熊沢さんは僕の話を聞き終えると満足そうにうなずいた。


「まるでヤハウェだね。」


 というのが彼の感想だった。僕は彼の例えに感嘆した。たしかに、旧約聖書の神はその名を忘れられて、後世になって「ヤハウェ」と名付けられたのだ。神格とその呼び名の構造はオシンメサマと似通っている。


「しかし、島民が『オシンメサマ』と呼んで崇めている以上、あのカミはオシンメサマです。ただ、東北のそれとは違うだけで。ほら、キリストも欧州では白人のように描かれていますが、エチオピアでは黒人のように描かれますし。」

「確かにそう呼ばれている以上オシンメサマでないとは言えないだろう。けど、その例えはちょっと違うんじゃないかな。」


 熊沢さんは僕のずれた例えがおかしいというように笑みを浮かべた。偉そうに間違ったことを言った僕は恥ずかしさのあまり赤面してしまった。


「それでは、私の番か。だが、私も多くのことを知っているわけではないからあまり期待しないでほしい。」


 そう言うと、熊沢さんは自身が知っていることを話し始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る