占い

@9630

占い

 その横顔は、夕闇に浮かび上がる遥かな山並みの稜線を思わせた。自然の造形美を思わせるような彼女の横顔を、僕はじっと見つめている。もうほとんど夏の湿り気は無い、それでいて心地よい九月下旬の風が、夕暮れのカフェのテラス席に座る僕とサキさんとを、なめらかに撫でていた。ときおり、少しだけ冷たいものが風に混じる。もうすぐ秋が来る。ひょっとするとすでにもう秋は、少し先の曲がり角の向こうからこちらをうかがっているのかもしれない。

 もうすぐ日が落ちるこの世界にいて彼女は、一日の終わりに興味なんか無い、と言った面持ちでテラス席に座り、テーブルに頬杖をついている。彼女はスウェット生地の、ほとんどくるぶしあたりまである真っ黒なワンピースを着ている。組まれた足がスリットからのぞいている。

「ねえ、タバコある?」サキさんが言う。

「メンソールじゃないですよ」

「あら、あたしがメンソールを吸っていたのをよく覚えていたわね。構わないわよ、「ふつう」ので」

 僕はポケットからマルボロを取り出して、彼女に差し出す。

「何よ。洋モノなんて吸ってるの?」

「すいません、いけませんか?」

「べつに。言ってみただけよ」

 僕が差し出した箱からマルボロを一本取り出すと、自分のバッグから綺麗な装飾がほどこされたライターを取り出し、風で火が消えないように手で覆いながら火を点けた。炎に照らされ、美しい稜線は今はっきりと浮かび上がる。ジジっと、微かな音がする。

 押し寄せる夕闇の中、ともし火が彼女の手で輝く。彼女にとらわれたホタルのようであるし、帰る場所を見失った小さな魂のようでもある。

「おいしくないわね、これ」

「すいません」

「あなたが謝る必要はないでしょ」

 彼女はもう一口吸うと、点けたばかりのともし火を灰皿に押しつけた。

「じゃ、もう行くわね」

「すいません、お時間を取らせて」

「謝らないで。むやみに謝るという行為はあまり良いものを生み出さないわよ。怒りという感情と同じようにね」

 連絡待ってるわ、という言葉を風に乗せると、彼女は立ち上がり歩き出す。乾いた心音のようなヒールの音がしだいに遠のいていく。彼女の体にぴったりと密着した黒のワンピースが辺りの闇に溶け出し、やがてその境界線は消えた。あとに残されたのは僕と、まだくすぶっているマルボロと、溶けかけの氷が入ったグラスが二つ。それに、彼女がテーブルの上に置いていった小さな包み紙だった。



「奇妙な占いをする女がいる」

 人づてに回ってきたらしい怪しげな噂を大学の友人、吉岡から聞かされたのは、無遠慮な太陽が猛威をふるう、八月の初旬だった。人類に何か恨みでもあるのか、そう疑いたくなるほどしつこく我々を焼き尽くす太陽。連日続く猛暑から逃げ込むように入った喫茶店で、吉岡がひそめた声でその噂話を教えてくれた。

「俺の友達の友達が聞いた話らしいんだけどな」

 友達の友達が聞いた話。信頼するに足る要素としてはあまりに弱い。まあ、噂話なのだから仕方がない。

「ちょっと変わった……、というかだいぶ変わった方法で占いをするらしいんだよ」

 猛暑だって自然の摂理のはずなのだが、喫茶店の店内では巨大で古めかしいエアコンがゴウンゴウンと音をたて、その摂理にめいっぱい抗っていた。おかげでTシャツに短パンという出で立ちの僕には店内は冷えすぎていたし、吉岡のひそめた声も相まって、なんだか噂話というより怪談話を聞かされている気分だった。

「変わったって、どんな方法なんだよ」

 僕の問いかけに吉岡はさらに声をひそめ、姿勢を低くして辺りを見回してから続けた。でも店内に僕たち以外に客はいなかった。

「なんていうかその……、セ、セックスでむらなうらしいんだ」

 噛んでいる。心なしか頬も少し赤い。僕は吉岡が童貞なのを知っていた。

「セックス? セックスで占いをするってどういうことだよ」

 さらなる僕の問いかけに吉岡の目が頼りなげに泳ぐ。

「し、知らねえよ。俺は話を聞いただけだから具体的なことはわかんねえよ」

 なんだかムキになっている。まあ気持ちはわからないでもない。吉岡は続ける。

「そ、それでお前が興味あるんなら、紹介してやってもいいと思ってさ」

 僕はとくに占いに興味があるわけではなかったが、悩みなら人並みに無いわけではない。大学生活も半分ほど消化し、そろそろ進路を決めなければならない。一応の目標である中堅の商社に就職を試みるか、いささか都会の喧騒にうんざりしてきたところもあるので、やっぱり静かな地元で適当な職を見つけるか。悩みのうちに入るのかどうかもわからない。

「まずはお前が占ってもらえばいいじゃないか」

 疑問に思った僕は吉岡に言った。

「俺は……、そ、そういうことをしゅるのは、やっぱり最初は愛がないと……」

 また噛んだ。そして頬がいっそう赤くなる。吉岡の悩みは彼女が出来ないことだった。人によって悩みはさまざまなのだと思った。喫茶店の店内から何気なく外を見る。炎天下、人々は行き交い、それぞれの目的地を目指していた。消しそびれたタバコのような、くすぶる悩みをそれぞれかかえながら。

 何やらうさんくさいこの話に抵抗が無いわけではなかったが、興味本位という言葉に身を任せても、なお余りある若さを僕は持ち合わせていた。そのことが良いことか悪いことかはべつの話だとしてもだ。

 それに吉岡は誰もが認める根っからの「いいひと」だった。元来、世話好きであるがゆえにボランティアサークルを立ち上げていたし、地域の社会福祉活動にも積極的に参加しているらしい。人の世話が忙しすぎて、自分の彼女の世話まで手が回らないんだ、と吉岡はよく言い訳をした。様々な人と関わりを持っていたし、それなりの信頼も得ていた。

 そんな吉岡のもとに回ってきた情報だ。セックスで占いをするという女の話も、まるっきりでたらめとも思えなかった。



 数日後、僕は指定された待ち合わせ場所にいた。炎天下の午後一時。大学近くの駅の、二つほど先にある駅の駅前。ちょっとした公園のようになっていてベンチもあったが、好き好んで太陽に焼かれようという人間はひとりもいない。正確に言えば、そのベンチに腰を下ろし、じっくりと太陽の餌食になっていたのは僕だけということになる。

 近くの木でミンミンとうるさいセミと一緒に五分ほど待っただろうか。コツコツとヒールの音が近づいてきて、僕の前でぴたりと止まる。

「こんにちは。あなた……、吉岡くんのお友達かしら?」

 顔を上げた僕の前に女性が立っていた。体のラインが良くわかる黒のワンピース。そして黒い日傘の下には、解けば肩よりも長いだろうポニーテールと、涼し気な微笑みがあった。好みでない女性が現れたら、その場で断れば良いと安易に考えていたが、僕はその断る理由を見失った。美しい女性だった。顔のどこそこの部品が美しいとは言えない。自然な美しさと言うか、おかしな言い方だが細密な風景画を見せられているような気分だった。

 年齢は雰囲気から見ても僕より年上、おそらく二十代後半か、三十代だろう。

 ワンピースによけいな装飾は無い。黒い日傘には控えめな模様が見て取れた。

 あたりを覆い尽くす熱気。けれど対照的に女性は汗ひとつかいていない。その不自然さと、自然な美しさとの対比に、幻やかげろうを見るような違和感を少し覚える。

 生ぬるい風が吹き、かすかに、花のようなにおいがした。


 待ち合わせ場所に現れた女性はサキと名乗った。本名かどうかもわからない。それ以上の素性は教えてくれなかった。要するに「占い師」、「サキ」という情報しか無い女性と僕はセックスをするという事になったわけだ。

 セックスという重大な(少なくとも僕にとっては重大だ)行為が行われる以上、そこには何か試験めいたものであったり、面接のような「ふるい」があるものだと、僕は勝手に思い込んでいた。それから謝礼、つまりは金銭的なことも気になった。でもサキさんはそんなものはいっさい無いと言う。

「そうね……、あえて言うならあたしに「辿り着いた」時点で合格よ」

 駅前のビジネスホテル、エレベーターの中で階数表示の明滅をながめながらサキさんはそう言った。明滅は何かしらのカウントダウンのようにも見えた。サキさんからはほのかに良い香りがする。やはり汗ひとつかいていない。

「謝礼も必要ないわ。これはね、自分のためでもあるの」


 そしてセックスは滞りなく行われた。そこにためらいや、戸惑いを差しはさむ余地は無かった。でもなぜか僕はエアコンの効いた室内にいて、頭がボーっとする感覚があった。暑さにやられたのだろうか。美しい女性を抱いているはずなのに、そのことを現実の実像としてうまく結べない感覚。

 射精の直前、僕はこのままサキさんの中に出してしまって良いものかどうか迷った。その気配を察したのか、サキさんが耳元でつぶやく。

「いいのよ、そのまま出して。そうじゃないと占うことができないの」

 占うことができない?いったいどういうことなのかわからなかったが、ぼくはもう限界をむかえていたし、サキさんが僕を離してくれなかったので、結局彼女の中に射精してしまった。


「ひと月ほど待ってね。そうすれば結果が産まれるはずだから」

 余韻が立ち込めているベッドの上でサキさんが言った。

「産まれる? どういうことですか?」

「安心して。べつに赤ちゃんが産まれるわけじゃないのよ。あたしはね、石を産むの」

「石……、ですか?」

「そうよ。あたしが直接何かを占うんじゃなくて、あたしが産む石に意味があるのよ」

 サキさんはそう言ってベッドから起き上がると、バッグからハイライトのメンソールを取り出して火を点けた。

 サキさんによると、占ってほしいという男性と関係を持ち、ひと月ほどすると彼女は石を産むらしい。それほど大きくない、手のひらに収まるサイズの石を。どんな男性とセックスをしても、サイズは変わらない。重要なのはその色で、サキさんはじつに様々な色の石を産み、一度として同じ色の石は産まない。

「夕暮れのようなオレンジ、夏空のような青、吸い込まれそうな濃い紫、血のような赤。自分で言うのもおかしいんだけど、けっこう綺麗な石を産めるのよ」

 少し自慢げに、少し嬉しそうにサキさんが言う。

「あの……、すいません。でもそれって」

 僕の言葉を人差し指で消して見せ、サキさんは淡く微笑んだ。

「本当にそんなオカルトじみたことが起こるのかって言いたいんでしょ? 心配しないで。少なくとも人間の子供が産まれて、あなたに認知しろなんてことは言いださないわ。そんな心配をする男がけっこう多いのよ。しょせん、男なんて小心者よね。なんだったら念書を書いてもかまわないわよ、人間の子供は産まれませんって。万が一産まれてもあなたに認知を求めません、てね。でもね、そんなことは絶対に」

 僕の唇に押し付けていた人差し指をゆっくりと離すと、サキさんはささやく。

「起こらないの」



 そしてひと月ほどが過ぎ、僕はサキさんに呼び出され、カフェのテラス席で小さな包み紙を受け取ったわけだ。ちょうど手のひらにおさまるサイズ。重さも、中身が石であるならば妥当なものだ。

「あたしは「それ」を真っ暗な部屋で産み落としたの。そして素早く紙に包んでしまったのよ。だから、「それ」がどんな色をしているかはあたしもまだ知らないのよ。どんな色をしているかはまずあなたが確かめないといけないの。それも一人きりでね。でも急がなくていいのよ。あなたが見たいと思ったタイミングで開けてみることね。色がわかったら連絡をちょうだい。色にしたがって占ってあげるわ」


 自分のアパートに帰り、包装紙に包まれた石を台所のテーブルの上に置いた。ことり、とかすかな音がする。自己を必要以上に主張しない、かたくて小さな音。

 僕はイスに腰を下ろし、それをながめる。僕はすぐにでも中身を見てみたいと思う。しかし、今さらながらこれは本当に彼女が産み落としたものなのかという疑念が頭をもたげる。当然だ。僕はサキさんとセックスをしただけだ。そこからひと月あまりの間、サキさんには一度も会っていなかったし、連絡も取らなかった。そもそも人間が石を産み落とすことなどありうるのか。仮に、彼女が本当にこの石を産み落としたのだとしても、その現場を目撃したわけでもない。

 なぜ自分は、信頼するに足る要素が圧倒的に少ないこの話に乗り、見知らぬ女性とセックスをし、その物理的な結果(と思われるもの)を前に、考えを巡らせているのか。よくわからなくなってきた。マルボロを一本取り出し、火を点ける。肺の奥深く吸い込んだ煙を、よくわからない逡巡とともに吐き出そうとしたが、出てきたのは煙だけだった。


 フィルター近くまで吸ったマルボロをもみ消し、僕は意を決して包装紙に包まれた石に手をのばした。丁寧に折り目がつけられている包装紙を一箇所、セロハンテープが留めている。まるで、語るべきでない言葉を押さえる人差し指みたいに。

 セロハンテープをはがし、慎重に開けた包装紙の中身に、僕は戸惑うことになる。形は包んであったままで、平べったくて、そら豆を大きくした感じの手のひらサイズ。問題なのはその色だった。無色透明で色がついていない。形はそら豆だが、ツルツルしていて透き通っている。要するに水晶と同じだ。色としての自己主張はまったく無い。

 これはいったいどういうことだろう? 石には、何かしらの色がついていて、それにしたがってサキさんは占いをするのではなかったか。それとも透明の石が産まれることもあるのだろうか。

 僕がいくら考えたところで答えを出せるはずがない。携帯を取り出し、サキさんに電話をかける。3コールほどでサキさんは電話に出た。

「そろそろだと思ったわ。それで? どうだったかしら。どんな色をしていたの?」

 もともとゆっくりとしゃべるサキさんが、いつにもまして物憂げに言った。

「あの、それが……、色が、ついてないんです。透明なんです。これってどういう」

「え?」

 僕がしゃべっている途中にサキさんの声が一瞬聞こえたかと思ったら、ガタン、と音がして彼女が携帯電話を落とす気配がした。

「サキさん?」

 問いかけに返事は無い。

「サキさん!」

 今度は強めに呼ぶ。

 ほどなくして携帯電話を拾い上げているような音がしてサキさんが電話口に戻る。

「ごめんなさい。ちょっとめまいがして。でも大丈夫よ。それで……、今なんて言ったかしら? その……、石の色のことなんだけど」

「透明です。無色透明なんです。まるで水晶みたいに。これはどういう意味なんですか?」

 ふう、と、サキさんのため息がかすかに聞こえた。そこには戸惑いが含まれていた。季節と季節とのあいだに、どちらに属していいのかわからずに吹く風のように。

「そう。透明なのね……、わかったわ」

 今度はベッドの上を移動するような衣ずれの音がした。

「本当にごめんなさい。今日は体調がすぐれないみたいなの。近いうちに必ず連絡するわ。だから……、ごめんなさい」

 サキさんはむやみに謝りながら一方的に電話を切ってしまった。僕が何か言葉を発する前に、ツー、ツー、という無機質が耳に届く。携帯電話を耳から離す。僕の手の中で携帯は、「内容はどうあれ、おれの役目は果たした。あとは知らん」と言わんばかりに、すこぶる無表情だった。


 結局、サキさんとはそれ以来連絡を取れなくなってしまった。いくら電話をかけても出ない。呼び出し音が、「電源が入っていないためかかりません」というアナウンスに代わるのにも、それほど時間はかからなかった。

 電話以外の連絡手段も持ち合わせていない。住所も、職業も、年齢も、思い起こしてみれば、僕はサキさんのことを何ひとつ知らなかった。何ひとつ知らない女性を抱いたことさえ、幻のように思えてきた。でも確かに、人類を焼き尽くそうとする日差しの中、僕はホテルの一室でサキさんを抱いたのだ。その事実が、あの石のようにかたくて小さいものだったとしても、それは確かなことのはずだった。


「サキさん? 誰だそれ」

 だから大学の講義の合間につかまえた吉岡の言葉に、僕は耳を疑った。

「いや、誰って……、お前が紹介してくれたセック……」

 言いかけて僕は、周りに人が多いのに気付いて、吉岡の耳元で言葉を改めた。

「セックスで占いをするって女だよ。お前が紹介してくれたんじゃないか」

 その耳がみるみる赤くなる。

「ば……、お前アホか? しょ、しょんな女いるわけないだろ。急に何を言い出すんだよ」

 え?

「ふざけたこと言ってないで、お前次も講義取ってるんだろ。早く行ったほうがいいぞ」

 どういうことだ?

 吉岡は嘘を言っていない。顔を見ればわかる。そもそも嘘をつけるようなやつじゃない。

「よくわからんけど、また後にしてくれ。約束があるんだよ」

 ちょ、と言いかけた僕にかまわず、吉岡は行ってしまった。向かった廊下の先に、女の子が立っていて、吉岡に小さく手を振る。そういえば、吉岡にはいつの間にか彼女ができていたのだった。僕は二人のうしろ姿を眺めながら、呆然とするしかなかった。


 その日アパートに帰ると、もうひとつ不可思議な出来事が起きていた。サキさんの産んだ石。ずっと台所のテーブルの上に置きっぱなしだった無色透明の石。それが無くなっていたのだ。僕は焦った。泥棒にでも入られたのではないかと思ったが、石以外に変化は無く、荒らされた様子も無い。敷きっぱなしの布団も今朝出て行った時のままの形だったし、なけなしの現金も隠し場所にきちんと隠れていた。

 落ち着いて確かめてみる。テーブルの上に包装紙は残っていた。広げた包装紙の上にあの石を置いておいたのだ。夕方で、部屋は薄暗い。台所の蛍光灯をつける。目をこらし、包装紙をよく見ると、なぜか濡れている。なぜだろう? 水をこぼしたような記憶も無い。

「溶けた?」

 石が溶けるはずなんてないのに、そんなひとり言が口をついて出る。でも僕は口にしてしまった言葉に引きずられ、溶けたとしか思えなくなってきた。そして濡れている部分にそっと、指先で触れてみる。ぬるぬるとしていた。指先を僕は無意識に嗅いでみた。

 花のような、においがした。そしてそれは紛れもなくサキさんのにおいだった。生ぬるい風が運び、エレベーターの中に充満し、「占い」をするために抱き合ったあのベッドの上で嗅いだ、サキさんの香りだ。

 やっぱり石は、溶けてしまったのだろうか。それ以外に妥当な考えが思い浮かばなかった。もうサキさんが存在したという証明は、頼りない包装紙だけになってしまった。



 すっかり秋も深まり、サキさんとのひと夏の記憶をうまく消化しきれないでいる頃、ようやくサキさんから連絡がきた。でもそれは、きわめて一方的なものだった。

 ある日アパートに帰ると、郵便受けに何も書かれていない封筒が静かに入っていた。まるで冬の使者が、自らの訪れを予告する手紙をひっそりと配っていったみたいに。

 封筒の裏を見てどきりとする。小さく「サキ」と書かれていた。表に何も書かれていないということは、サキさんが自分でここまで足を運んだか、あるいは誰かに頼んで届けさせたか。僕は辺りを捜してみようかとも思ったが、思い直してやめた。あの石が溶けてしまった時から、もうサキさんには会えないような予感めいたものがあったからだ。

 

 横向きの封筒を開ける。便箋には、書いたであろう人物によく似た、美しく整った文字が並んでいた。


『まずは謝らなければいけないわね。ごめんなさい。べつにあなたをだますつもりは無かったのよ。それは信じてちょうだい』

 だます? 少なくとも僕には、だまされたという感覚は無かった。金品を取られた覚えも無いし、おかしな勧誘を受けたわけでもない。

『あたしがセックスを通して誰かのことを占うっていうのはね、嘘なの。ごめんなさい。でもまるっきり嘘というわけではなくて、セックスを通してあたしはね、自分のことを占っていたのよ』

 自分? サキさんは自らが産み落とす石の色で、自らを占っていたということなのだろうか。なんのために?

『不安だったの。とても不安だったのよ。その不安を消すための方法をあたしはふとしたきっかけで知ってしまったの……。いいえ、今考えればその方法は不安の解消にはならなかったわ。でも確認することはできたの。まだ大丈夫。まだあたしは大丈夫って』

 サキさんはいったい何の話をしているのだろう。その「確認」というのは僕と、あるいは他の誰かとセックスをすることと何か関係があるのだろうか。

『でもその方法はね、あなたたちの世界ではどうかわからないけど、あたしのいる「世界」ではあまり褒められた行為ではなかったわ』

 あなたたちの世界。サキさんの世界。

『だから、あなたから石が透明だったって連絡がきて、ホッとした気持ちもあったの。ああ、これでやっと終わる、もう罪悪感にさいなまれずに済む、って』

 終わる。いったい何が? サキさんが罪悪感にさいなまれずに済むのは良いとして、「終わる」の部分には明らかに好ましくない何かが含まれている気がした。

『ごめんなさい。これ以上はもう説明できないの。本当にごめんなさい。でもこれだけは言わせて。もしあたしに良くない出来ごとが起こったとしても、決してあなたのせいじゃないわ。これはね、自然の摂理なのよ。夏が暑かったり、冬が寒かったりするのと同じことなの。風が吹いたり、花が咲いたりするのと何ひとつ違わないのよ。あたしやあなたにどうにか出来るものじゃないの。だからあなたはちっとも悪くないのよ』


 手紙はそこで、唐突に終わっていた。さようならも、また会いましょうも無い。サキさんの正体も、ましてや占いの結果すら書かれていない。便箋を、手の中でもてあそぶ。

 はじめから終わりまでもう一度手紙を読む。もちろん内容に変わりはない。そこに書いてある以上のことを、手紙はいっさい主張してくれなかった。一度気持ちを落ち着けよう、そう思って便箋を封筒に戻そうと思って気がついた。まだ何か、封筒に入っている。なんだろう。取り出そうと手に持った感触でわかる。写真だ。見えているのは裏側だったので、僕はそれをひっくり返し表側を見て、息をのんだ。


 サキさんが写っている。草原のような場所に、あの真っ黒なワンピースを着たサキさんが横になっている。彼女の足元に立った誰かが、ななめ上から見下ろすような位置で彼女を写したであろう写真。祈るように両手を胸の上で組み、目を閉じている。周りには色とりどりの花が咲いている。夕暮れのようなオレンジ、夏空のような青、吸い込まれそうな濃い紫、血のような赤。サキさんは写真の中で、たくさんの花に囲まれて静かに目を閉じ、横たわっている。ピクリともしない。ピクリとも「しそうに」ない。

 何より息をのみ、その写真を異質にしていたのは、そこに写るおびただしい数の蝶。写真全体を覆い尽くさんばかりに写る、蝶、蝶、蝶。そのどれもが闇夜のように黒い。アゲハ蝶だろうか。とにかく大きいもの、小さいもの、花にとまっているもの、飛んでいるもの、草むらに落ちているもの、髪飾りのようにサキさんの頭にしがみつくもの、黒いワンピースと同化しているもの、二匹連なって飛ぶもの、サキさんの足にすがりつくもの……。

 僕は写真を食い入るようにじっと見つめて、そこにあるメッセージ性を、あるいはサキさんの想いのようなものを必死に探した。でも結局、何も見つけられなかった。


 ひとつだけ、思ったことがある。サキさんはもう「世界」から消えてしまったのではないか。そしてそれはサキさんが言うように、「自然の摂理」だから仕方ないのではないか。夏の猛暑に対して、僕ひとりがいくら騒いだところでどうしようもないのと同じように。

 写真の中のサキさんはまるで生気の無い、透き通ってしまいそうな顔をしていた。それは僕にあの、無色透明の石を思い出させた。水晶のように透き通り、彼女がおそらく最後に産み落とし、そして溶けてなくなってしまったあの石を。

 開けっ放しのアパートの窓から晩秋の風が吹きこんだ。写真からふわりと、花のにおいがした。

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