ラムネと膵臓がん プロローグ

大西元希

第1話 ラムネ

 夏の空に浮かぶ入道雲。それと消える飛行機雲。じんじんと蒸し暑い今日を僕は忘れないだろう。


 俺の名前は安西玲。サボり魔の高校二年生だ。容姿はいたって普通。そこら辺の男と変わらない。

 いつも通り高校をサボって。俺は家の近くの児童公園で読書をしていた。なぜ高校をサボっていたのか——その理由は高校でいじめにあっているからだ。同級生に「臭い」と言われ、息を吸うことも、クラス内に存在することも許されなかった。そして俺は逃げた。

 児童公園は、草が茂っていて。遊具も古くてところどころ錆びている。そして麦わら帽子を被ったタンクトップ姿の少年が走っている。虫取り網を持って蝶を追いかけながら——

 今読んでいる本の、繰り返し繰り返し読んでいる一文。『完璧な者など存在しない。それが俺たちが認識しなければならない重要なことだ』これはリチャード=ウィスキーの『癌』という小説である。主人公が自身の愛する者のストーカーを殺害し、排除する物語。この作品のテーマは『異分子の排除』だ。癌は人間にとって体内の異分子。いずれ自身を死に追いやるもの。リチャードは自分の妻が癌で亡くったことを悔やみ、心を病んでしまう。だが、この作品を半ば無理やりに完成させ世に出した。それはなぜか。自分への戒めのためだ。力が及ばなかったことにたいする罪の象徴。そしてリチャードは本の発行後に自殺した。精神薬の多量摂取によって。

 この作品は幼い僕の心を深く抉り取る凶器だ。読み進めるたびに主人公の願い、読者の価値観、そしてリチャードの悲痛な嘆きが投影されているような感覚を覚える。

 難しすぎるテーマが、重たく心にのしかかる。

 思わず溜息を吐いた。そして文から目を離し、空を見上げた。変わらず平和な空。

「ねぇーー?」

 軽い女の声がした。声がした横の方を見ると、麦わら帽子を浅めに被った少女がいた。

 うっすらとナチュラルメイクをしている。夏の肩出しワンピースを着た推定十六歳ぐらいの少女。両手にラムネの瓶が握られていた。つたりと水が滴っている二本の瓶。

「ラムネ飲まない?」

 俺はどうして? と尋ねる。見知らぬ少女にラムネを貰う意味はないし、なぜ俺に渡すのかも分からないからだ。

「だって、憂鬱そうな顔をしていたんだもん」

「——え?」

「困ったときはお互い様でしょ? ほら」

 そう言われて一本渡される。受けとった右手が冷たくてひんやりとする。でも、三十五度を越える猛暑では、それの感覚が逆に心地良い。

「あ、ありがとう」

 ビー玉の栓を開けると乾いた音がした。俺はラムネを一口分喉に流した。冷たい刺激を感じる。涼しい気持ち。

「おいしい?」

「ああ、旨い」

 俺は素直に答える。少女は自分が褒められたかのように、にへへと笑った。そして腰に手をあてて、俺の白のスニーカーから、寝癖のついた髪まで下から上にかけて全身を舐め回すように見る。だが、それは官能的というよりかは、品定という表現が正しいだろう。

「私の名前は夢宮明日花。よろしくね」

「……安西です……よろしく」

 俺は慣れていない自己紹介をする。終始辿々しくて聞くに堪えないだろう。俺は昔から自己紹介が苦手だ。クラス替えのときのあの、教壇に立って名前を発表するという一種の恒例行事が嫌で始業式を休んだことがある。

「いい苗字ね」

 苗字を褒められたことが初めてだった。普通こういうのは名前を褒めるんじゃないか、と尋ねると。

「だって……名前教えてもらってないんだもん」

 確かにその通りだと思った。俺はなんて馬鹿なのだろう、と自己嫌悪する。

「玲だ。名前は玲」

「いい名前ね」

 ふふ。と笑う明日花。その表情はとても可愛らしい女の子そのもので、愛くるしいとも思った。

「隣……いい?」

 俺は頷いてベンチの真ん中から右へと移動して明日花に左半分を譲った。明日花が座って、足を組んだ。

「広い空ね」

「……そうだな」

 飛行機雲が彼方へと続いている。それと入道雲。夏といえば積乱雲というイメージが日本人に深く根付いている。アニメ、映画、小説。それらで夏といえば入道雲というイメージが完成されたに違いない。

 広く覆われている空を眺めて、俺はもう一口ラムネを飲んだ。甘い炭酸がしゅわしゅわと舌を刺激する。

「空はどうして青いのか知ってる?」

 明日花の突然の質問。しばらく考えてみるが分からなかった。それとなぜいきなりこんな質問を投げかけたのかも分からない。

「……分からないな」

 両方の意味で、という言葉を伏せて言った。

「白色光のなかで一番青い光が散乱するからなんだ。人間の目がその光を感じ取りやすいから空が青く見えるだけで、本当は七色の空なんだよ

「……七色の空」

 俺は七色の空を想像してみる。だが、幼稚な想像力しかない俺は、オーロラのようなものしか想像することが出来なかった。それが正しいかどうか分からない。

 少年が捕まえた蝶を虫取りかごに入れる。 そしてもう一匹捕まえるためにまた走り出す。

 無邪気だな。でもそれは今のうちだけだぞ。と、心のなかで嫌味をつく。

「子供って無邪気だよね」

「そうだよな」

「私もあの頃に戻りたい……」

 明日花の顔が一瞬、複雑な表情をした。何かそれは……強い後悔のようなものを感じさせるそれだった。「何かあったのか」と、聞けるほどの勇気が自分にあればと思った。今の自分にはそんなものは存在しない。ただ流されて生きてきた。自分で決断したことも数少ない。

「白色光……」

「うん?」

「さっきの話。なんで青い空しか人間は見えないのか」

 唐突に話題が変わったことに戸惑うも、それを気にした様子もなく明日花は話しだす。

「多分、人間って都合のいいものしか見えないんだよ。青い空の方が人間にとって心地いいから」

「都合……」

「……ごめん……さっき会ったばかりの人にこんな辛気臭い話し……迷惑だよね」

「いや、いいよ」

 確かに辛気臭いと思ったが、興味もあった。

 人間にとって都合のいいもの、それが具現化されたのがこの世界だとすると……今見えているものは脳の補正がかかった世界。本物ではない。科学者たちは脳の補正がかかった状態で研究をしているから、その研究結果も必然的に都合のいいものなのだろう。そして生み出された都合のいい物を使って俺たち人間は生きている、か。ある意味真理なのかもしれない。

「やめよーっと。こんな話し」

「さっきの話し面白かったよ。都合ってこの世の全てなのかもしれないよな」

「そんな単純じゃないよ……」

 明日花はそう言って俯いた。

 不思議な子だなと俺は思った。まだ幼いはずなのに言葉に重みがある。多分、数多くの苦い人生経験をしてきたのだろう。

 俺はかける言葉が思いつかず……明日花の背中を見つめるしかなかった。

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ラムネと膵臓がん プロローグ 大西元希 @seisyun0615

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