口のなかを甘くしたまま
オニワッフル滝沢
第1話
ベトナム、ハノイ3泊5日。
行ったのは初夏。2年連続。けど、2度とも旅の期間が、青山陸には一瞬に感じた。
*
それは5月の大型連休が終わり、バイトの忙しさもひと段落した時だった。カフェで勉強していた陸は遠くから視線を感じた。だが彼は視線の元を探すことなく、レポートに関心を戻した。
彼にとって<見られる>ことは日常のことだった。目を合わせたことで厄介なことに巻き込まれたことも少なくなかった。
モデルや芸能人にならないかとスカウトされたり、もちろんナンパもある。
陸の顔は、無駄な肉のない頬に、存在感のある眉毛。アーモンドアイと大きな黒目は、彼を可愛らしく演出し、時には目の前の相手を扇情させた。そんな瞳を囲む二重まぶたは余分な水分を含まない、まるで彫刻のようだ。眉目秀麗という言葉を擬人化したようだと言われたこともある。身長も高いから、モデルか芸能人かと言われるのは至極当然だった。
「こんにちは」
今度は声をかけられた。低い声なので男だろう。だが陸にそのように声をかける友人はいない。なんか厄介だなぁと思ったが、応えないと離れてくれなさそうなので陸は顔をあげた。
見上げた先は陸のバイト先の洋服屋の常連客の男だった。年齢は多分…三十代。初夏の午後の爽やかな風を感じながら微笑んでいる。彼は平日の夜や週末に来店することが多い客なので、学生アルバイトの陸が接客することが多かった。
「あ、こんにちは!」
バイト先の客だと思うと陸は思わず立ち上がって挨拶した。
「勉強熱心だね」
「あ、いえ……テストが近いんで……」
座っていい?と男は訊いた。陸が頷くと、テーブルを挟んだ席に男は座った。
「今日バイト休みなの?」
「はい、ゴールデンウイークが忙しかったんで、しばらくはゆっくり……」
「大学このへんなの?」
「あ、●●大学で。家との中間なんでたまに定期使って気分転換に来るんです」
陸が饒舌になると、男は面白そうに微笑み「そっか」と応えた。
「勉強熱心かと思ったら、それも気分転換?」
男が指す先を陸が見ると、テキストの間にマンガの単行本が挟まっていた。陸は照れ笑いしてこたえた。
「今日新刊発売だったので……待ち切れず……」
「俺もそれ読んでるよ」
「えっ、本当ですか!?」
「うん、雑誌の方を毎週買って読んでる」
男が「見せてもらっていい?」と手を差し出すと、陸は単行本を渡した。ゆっくりとページを捲りだしたので、陸も勉強の続きに戻った。
時々視界に入る、中年男の肉付きのいい肘から手。同級生のとは違う肉体が近くにある。目が釘付けになるのを理性で抑えた。今日は夏日だったが、たまに吹く風が陸の頭を冷やした。
勉強にキリがつくと、陸はペンを置き座ったまま伸びをした。向かいでは男が単行本を閉じ、深いため息をついていた。
「やっぱりおもしろいな!」
男は陸に単行本を返しながら笑顔で言った。
「良かったです。……あぁ、もうこんな時間か」
陸はスマホの画面をみてつぶやいた。西日が店の中をジリジリと照らしていた。
「このあと予定ある?家に帰らなきゃかな?」
「あ、いえなにも……。あとウチ、放任なんで」
「じゃあ食事にでも行こうか」
陸は突然の誘いに言葉を失った。仮にも彼らは客と店員、いや今日は休みだから厳密にはそうではないがーー。
「ダメかな?」
小首をかしげてたたみかける。その瞬間、心がぐっと引き寄せられた気がした。陸は男と一緒にカフェを出た。
日が暮れかけ、日中の熱を冷たい闇が覆い尽くそうとしていた。陸は数歩先を歩く男の背中ーー少し丸みを帯びたーーを見つめていた。
男は行きつけの焼き鳥屋に連れていきたかったと言った。だが陸が未成年なので食事メインで考え、イタリアンの店に連れて行った。男が陸の好物を聞きながら注文をし、テーブル狭しと肉料理やパスタが並んだ。
料理頬ばる陸を肴にするかのように男はワインを傾けた。
陸は正面に座る男の顔を折に触れてのぞき見た。接客中に見るのは顔よりは体型だから、何度も接客していたとはいえ、顔をこうしてまじまじと見るのは初めてだなぁとしみじみ思った。頬骨にもあごにも肉が乗り、三十代らしい丸みがある輪郭だった。二重瞼だけど、上まぶたと下まぶたが広く開いているわけではなく、眉毛が濃いということもなかったから、改めて見るとモブっぽい、特徴のない顔だな、と陸は思った。ただ一つ、唇が上も下もぽってりと厚く、それだけは俺の脳になんらかの想像をかきたてた。
「かわいいね」ワインを傾けながら男は言った。粘度の高い視線を陸に向けて。その視線を受けた陸は思った。あ、本性を現したな。
食べながら学校のことやら、バイトのことやら、好きなマンガのことやら、とりとめのない話をした。食後のコーヒーが出された時、男はトイレに立った。
店を出ようと言う時、すでに会計は済まされていた。男は緩慢な動きで店員に挨拶をし店を出た。何もなかったかのように店を出る男を陸は早足で追った。さすがにヤバいと思った陸は五千円札を男のジャケットのポケットにねじ込もうとした。
「今日の分はいいよ」
男は陸の動きを制した。男は続けて言った。
「その代わりと言っちゃなんなんだけどさ、また外で会ってくれる?」
この男、ワインのお蔭で本性をガバガバに漏らしている。
陸は自分に求められていることが何か、分かりかけていた。目の前に着いた舟に乗るのはやぶさかではなかった。
「会ってあげますから、とりあえず今日の分は払わせてください」
奢られたくないのは≪販売員と客≫だからではなく、ただ単に対等でいたかったからだ。
「じゃあLINE交換」
五千円札を人差し指と中指に挟んだまま男はスマートフォンを取り出した。陸は自分のスマートフォンにLINEアカウントのQRコードを表示させ、男に差し出した。男は、その上に自分のスマートフォンを重ねてQRコードを読み取った。その光景がエロいな、と陸は密かに思った。
「そういやまだ名前知らなかったな、青山陸」
男はLINEに表示されている名前を呼んで陸の顔を見た。俺が視線を合わせると緩んだ笑顔を見せた。男はスタンプを一つ、俺のLINEに送ってきた。男の名前は西田啓といった。
「とりあえず、この五千円はとっとくよ」
西田は札を丁寧に三つ折りにして名刺入れに差し込んだ。
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