第9話 レンタカー

「レンタカー」


 夏です。夏といえば夏休みです。海に行ったりキャンプしたり、考えるだけでもワクワクする楽しい季節です。大学3年生のワシも夏休みでした。ワシにとって、夏休みといえば楽しい楽しい「レンタカー」だったのです。

 昭和48年に突然やってきたオイルショックの影響が、10年近く経ってもまったく尾を引いたままの頃でした。ガソリン価格は、聞いて驚くなかれリッター150円もしていたのです。消費税の「しょ」の字もなかったころですが、当時の物価を考えると、無茶苦茶に高かったのです。

 貧乏学生だったワシは、当然ですが、ヒーヒー言いながらセリカを維持しておりました。クルマを買ったらあっちも行こうこっちにも行ってみようと思ってはいたのですが燃料代がない。みんなでどっか行くときは当然割り勘でした。それから「10L入れてください。」とか「1000円分入れてください。」とかスタンドで申し出るのはごく普通のことでした。ワシは一度でいいから「満タンお願いします。」と言ってみたいと思っていました。

 ワシは、セリカに(ガソリンを)食わせるために、いろいろなアルバイトをしていました。そして夏休みは、アルバイト三昧の日々を送るつもりでした。そうして雇っていただいたのが「日産レンタカー小郡営業所」でした。

 勤務時間は8時~20時までの12時間で、時給650円は当時としては破格の高給でした。喫茶店の時給が350円ぐらいの時代でした。ちゅうことは、1日で7800円も稼げる計算になります。30日休まず働けば、この夏だけで234、000円にもなる皮算用です。そんな大金は見たこともなかったのですが、ガソリン代どころか、車検にも出してタイヤとバッテリーも交換できそうです。

 しかも嬉しいことに、大好きなクルマを運転できます。しかも、まだ乗ったこともなかった、営業所の目の前を走っている新幹線にも乗ることができそうです。なしてかというと、当時のレンタカー業界では、乗り捨てたレンタカーの回収、駅レンタカーや空港レンタカーへの配車など、レンタカーを陸送することが多かったからです。もちろん接客や洗車やクルマの入れ替えや点検なども仕事の一つでした。つまり、クルマ好きのワシにとっては天職といえる仕事にありつけることができたのでした。ワシは、日産のいろんなクルマに乗ったり触れたりできるので、嬉しくてたまりませんでした。ワシは朝から晩まで一生懸命に働きました。


「すまんけど、広島までクルマを取りに行ってくれる?新幹線を使ってもええから。」

「ついにキターッ。」

とワシは思いました。これから新幹線に乗って広島駅新幹線口にある営業所まで行って、クルマを受け取って陸送して帰れとのことした。ワシは実は、広島はあまり行ったことがなかったので不安もありましたが、国道2号線まで行きさえすれば、あとはまっすぐ小郡までつながっているので何とかなるじゃろうと思っていました。

 ワシは、いつもの日産レンタカーの制服で書類をもって、目の前の小郡駅から新幹線に乗りました。ワシはそのとき始めて本物の新幹線に乗りました。たぶん100系のひかりだったと思いますが、なんてかっこええんじゃろうと思いました。新幹線はものすごく速くて、それこそあっという間に広島駅に着きました。

 ワシは初めての広島駅の大きさと人の多さにビビりながら、それでもがんばって新幹線口の営業所にたどり着くことができました。

「こんにちは。小郡からきました。」

「おお。ご苦労さん。早かったのう。キーと車検証は乗せてあるけえのう。」

 広島弁をしゃべる粋なお兄ちゃんでした。ワシと同じ日産レンタカーの制服をきていました。

「どのクルマですか。」

「あのトラックじゃあ。2トンのロングじゃけえ気をつけて帰りいや。」

「2トンのロングですか・・・。」

ワシは、意味も分からず復唱してしました。それから陸送するクルマがトラックだということを知って愕然としました。免許を取ってこれまで、トラックを運転したことなどあるはずがありません。そして「2トンのロング」という言葉を今でも覚えているのですが、ようするに2トンのトラックのさらに車体の大きいクルマでした。

 ワシは顔を引きつらせながら、とりあえず2号線まで出る道を尋ねました。兄ちゃんは、広告の裏に地図を書いてくれました。

 ワシは不安いっぱいでトラックに乗り込みました。そして教えられた通りに、キーを一段回して「グローランプ」というのが消えたのを確認してセルを回しました。もちろんこれも初めての経験でした。それからこれも教えられたように、クラッチを踏んで、ギアをセカンドに入れて、慎重に発進しました。(トラックは通常セコ発進をするそうです。)

 大きさにはすぐに慣れました。運転席が高いので思ったよりずっと運転しやすかったのを覚えています。でも、荷物を積んでいない空のトラックは、足回りが固いというかポヨンポヨンしていて、段差のたびに運転席ごと上下に揺れるので壊れているのかと思いました。そして2号線を目指してひたすら南進しているときに、後ろから見たこともないような得体のしれない大きな物体がやってきてビックリしました。それが電車だと気づいて、ますますビビッてしまいました。

 標識と地図を頼りに何とか2号線に乗ったのが、11時頃でした。ワシはまさに必死になって運転していました。西広島バイパスに乗って、慎重に左側の車線をひたすら走り続けました。そして少し余裕ができた頃、ちょうど宮島の手前だったと思いますが、渋滞になりました。山口では味わったことのないような初めての体験でした。

 当時は、山陽道もなかったので、ひたすら2号線を走るしか方法がありませんでした。道も知らなかったので、ひたすら我慢するしかありませんでした。その後、岩国の手前、徳山、防府で渋滞に巻き込まれ、広島を出てから6時間後の16時にやっと小郡営業所にたどり着くことができました。ワシは、ものすごく疲れていて、空腹で、目の下にクマができていましたが、何とか無事に帰ることができたことや任された仕事をやり遂げることができたことで、なぜか嬉しかったことを憶えています。それからみんなの

「ご苦労さん。がんばったのう。」

という気遣いも嬉しくて、まだまだこの仕事を頑張ろうと思いました。今でも忘れられない壮絶な、しかしとてつもなく楽しい体験でした。真夏でクーラーなんかついていなかったと記憶していますが、なぜか「暑い」とかまったく感じませんでした。


 ワシは結局、この職場が出し好きになって、就職直前まで働いていました。というか採用試験がダメだったら、ここに就職するつもりでした。

 レンタカーを2台配車する際に

「ついて来いよ。」

といってぶっ飛ばしていくので、そのあまりの速さについていくどころか、すぐに見失ってしまったMさん。いつもタバコをくれる面倒見のいい優しい方でした。カラオケがとても上手だったFさん。飲みに連れて行ってくれて、酔っぱらって帰れなくなってワシの下宿で寝ました。それから、無茶苦茶に速くて、本当に誰もついていけなかったFFのAさん。ゴルフや限定車のSTS―R、カレラ2やカレラRSに乗せてくれたことは今でも忘れません。

 気さくで優しい方々に面倒見ていただいて、毎日がとても楽しかったのを憶えています。今だったらシャレにならないことも多々ありましたが、昭和のざっくりとしておおらかで、ルールよりも義理人情が大切で、そんな時代にこの場所で、青春の3ページぐらいを過ごせたことが何よりも大切な思い出です。

 

(追記)

 レンタカーのブルーバードが810が910に変わりつつあった頃。パルサー、サニーにジャパンのスカイラインTI。シルビアにセドリックにキャラバンにバネット。そんなクルマたちに囲まれて、ワシはすっかり日産党になりました。

 ある日、星野一義様と長谷見昌弘様が突然来られて超ビックリしました。新幹線を降りて、西日本サーキットに行かれるようでした。色紙がなくて差し出した裏紙にサインしてくださいました。とても気さくで優しい方でした。ローレルを借りて行かれました。

 追走しなければならなかったので、ものすごく鍛えられました。レンタカーを保管する場所が狭いので、勘だけで前後両側30cm以内で駐車していました。バックモニターなどありませんでした。そういう経験を通して、少しは運転が上手くなりました。ナビなどない時代でした。仕方なく適当に書いてもらった地図を頼りにあちこち走っていたら、県内の道はだいたいわかるようになりました。最後に、広島や福岡などの都会でさえ、わりと平気で運転できるようになりました。

 若かったので、12時間働いても平気というか、それが当たり前だと思っていました。週に一度だけ休みを取るようにいわれたので、仕方なく休んでいました。すっかり怠け者になってしまった今のワシとは大違いです。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る