第292話 緋色の部屋22


「私たちだけでここに待つように言われたんですか?」

「そうですね……。砂橋と湯浅先生は今、佐川英雄の自宅を訪れているはずなので……」


 非常に気まずい。


 初対面ではないとはいえ、依頼人で、あまり知らない女性と二人っきりでなんの目的もなく、喫茶店に入るなど。


 彼女はゆずティーを頼み、俺はアイスティーを頼んだ。

 恋人を失った彼女にどう声をかけていいか分からない。


「昨日は山内さんと緒川さんと話したんですよね?」

「はい」


 話したのは俺ではなく、砂橋だが。


「二人とも、高瀬さんと木村さんの仲の良さを話していましたよ」


 山内は高瀬と仲が良く、緒川は木村と仲が良かった。


「あの二人は私と結人の同期で、私と結人が恋人同士だという話をしても変わらずに付き合ってくれた友人です」


 彼女は自分の手元に置かれたゆずティーを小さなスプーンでかき混ぜると、俺の顔を見た。


「二人とも何か言っていましたか?」


 何か言っていたかというのは難しい質問だ。


 事故の話をここで引き合いに出すのはいけない気がする。今は事故の話ではなく、恋愛の話をしよう。


「緒川さんが必要以上に高瀬さんに話しかけようとすると牽制してくるほど木村さんが高瀬さんのことが好きだって言ってましたね。ゾッコンだって」


 高瀬は想像していない言葉だったらしい。思わず、ぷっと噴き出した彼女に安心する。


「緒川さん、そんなことを言ってたんですか」

「そうですね。山内さんも木村さんと高瀬さんの仲がいいと言っていましたね」


「実は……、会社では最初避けられていたんですよ」

「避けられていた?」


 ゆずティーを一口飲むと、高瀬はため息をついた。


 恋愛をしていることを公言しているということは、高瀬達が勤めている会社は社内恋愛が禁止のところではなかったのだろう。それならば、どうして避けられることがあるのか。


「最初の歓迎会の飲み会の時に、酔った結人が私のことを抱き寄せて、他の男性社員に牽制したんですよ。俺の女だから、手を出すなーって」


「ああ……」


 それは他人が少し距離を置こうと思っても仕方がないだろう。もし、俺がその場にいても、明日からはこの二人に近づかないでおこうと思うに違いない。


「だから、ちょっとその後、同期では浮いた存在になったんです」

「そういえば、飲み会でもお酒を飲んで木村が寝て大変なことになったと聞いたな」

「あの二人、そんなことまで話したんですか?」


 目を丸くした高瀬はまた大きくため息をついた。

 どうやら、木村結人は酒に関してだらしない人物だったらしい。


「お酒が入ると途端ダメな人になるんですよね」

「冷蔵庫の中にもたくさんお酒が入っていたな……」


「ええ、そうなんです。迷惑をかけるくせに飲み会はしたがってましたし、私はそこまで飲み会が好きではないのに、出席する飲み会には参加させようとしてきた大変でした」


 好きでもないことに付き合わせようとしてくる恋人とは厄介なものだ。俺だったら、相手が砂橋でさえなければ、手を振り払って一人で帰るだろう。


 砂橋は一人にすると何をしでかすか分からないから放っておけない。断ろうと思えば俺だって、砂橋の誘いを断ることができるのだ。


「そういえば、英雄も結人と同じでお酒が好きですね」

「そうなのか?」


 ビデオ通話もしていないため、顔は一切知らないが、佐川英雄は木村結人と同じように酒が好きだったのか。知らなかった。いや、この情報は別に事故とはなんの関係もない気がする。


 ただの世間話だ。


 俺はただの世間話をしているだけだというのに、情報を探そうとしてしまっている。砂橋の癖が移ってしまったのだろうか。だとしたら、とてつもなく嫌だ。


「あ、やっと弾正さん、敬語やめてくれましたね」

「……あ」


 にこりと高瀬は微笑んだ。


 依頼人だから敬語を使おうと気をつけていたのだが、やはり歳が近いと分かっていると敬語が外れてしまいそうになる。


「すみません」


「別にいいんですよ。歳も近いと思いますし……私も近しい友人を亡くしたばかりなので、友人のように接してもらえるとちょっと助かります」


「……そうか、それなら、敬語はやめておこう」


 俺が敬語をすっかりやめると彼女は嬉しそうに口元に笑みを浮かべた。人の死を別のことで紛らわせるのは間違っていない。恋人が死んだからと言って、楽しい話をしたりするなと咎める人間はいないだろう。


「弾正さんは砂橋さんと仲が良さそうに見えましたけど、どんな関係なんですか?」

「腐れ縁です」

「腐れ縁……?幼馴染みたいなものですか?」


 彼女にとっては腐れ縁と聞くと幼馴染の関係が最も身近に感じられるだろう。なにせ、小学校から社会人となった今の今までの付き合いなのだから。


 俺がもし、小学生の頃の砂橋と出会って、今の今まで進路も全て一緒だったとしたら、お互い気が狂って死んでいたかもしれない。


「いや、大学生の頃にノートを見せてもらったのがきっかけで話すようになって、今ではよく仕事の手伝いとして呼び出されてるんだ」


「仕事の手伝いってことは弾正さんは探偵事務所の人ではないということ?」


 なかなか鋭い。


「ああ、俺の本業は作家で、歴史小説や少し、ミステリー小説を書いたりしている」

「そうなんですね」


 俺に敬語をやめるように言ったくせに彼女は敬語をやめない。山内と緒川と仲がいいと言いながらも、二人のことをさん付けで呼んでいたし、敬語を常に使う人間なのかもしれない。


「でも、そうですね……大学生から今までの付き合いってことは、ちょうどいい長さの付き合いなんですね」


「ちょうどいい長さの付き合い?」


「自分で言うのもなんですけど、小学校から社会人まで同じ人とずっと過ごすって驚きでしょう?」


 確かにそうだ。いくら幼馴染だと言っても進路も全て一緒になった上に、相手以外の人間と特別仲良くなるわけでもなく、恋人同士になるなど稀有なことだろう。


「そうだな」

「弾正さん、私と結人達の話を聞いていた時に驚いてましたからね」


「やっぱり、顔に出ていたか?」

「出てましたよ、ばっちり」


 俺は肩を竦めて、アイスティーに口を付けた。


「弾正さんは、付き合ってる女性がいますか?」

「……いない」

「もし、いるとして、その人と小学校の頃からずっと行動を共にしたいですか?」


 もし、俺に恋人がいるとして、か。


 付き合っている女性が俺に今いると仮定するなら、その人物は社会人になってから会った人間か、もしくは大学時代に会った人間だろう。そうなると俺は相手の昔など知らないことになる。


 しかし、それを今更全て知りたいとは思わないかもしれない。いや、実際、恋人がいたとしたら自分のいない間の相手のことを知りたくなって詮索してしまうこともあるだろう。


 だがしかし、その昔を改変してまで、一緒にいる時間を小学校から今までに増やしたいとは思わない。


「いや、別にそれはいいな。俺がその人物を好きになったのは現在のその人物のことを好きになったからだろうし、わざわざ昔から一緒に行動を共にしたいということはないだろう」


「やっぱり、そうですよね」


 高瀬は口元を抑えて、ふふっと笑った。控えめな笑い声だった。


「私も思ったことがあるんです」

「なにを?」

「私の周りに幼馴染という存在がなかったら、私は結人以外の人と結ばれたり結ばれなかったりしたのかなって」


 彼女は窓の外へと視線を投げかけた。


「でも、私は結人しか知りません。付き合ったのは結人だけです。ずっと、結人だけでした」


 遠くを見るその瞳を表すには寂しさというよりも、空っぽという言葉の方が合う。


「……今からでも恋愛はできると思う」


 彼女は目を丸くして俺の方を見た。俺は思わず目を逸らす。今の言い方だと俺が告白をしようとしているようにも聞こえるのではないか。


「例え、恋人が亡くなったとしても、その後、恋人を作ってはいけないという法律はない。すぐに恋人はできないだろうが、新しくいい人が見つかる頃には、恋人が亡くなってすぐに恋愛など不謹慎だという人間もいなくなる頃合いだろう」


 俺が慌てたように付け加えると、高瀬はおかしそうにまた口元を抑えて笑った。先ほどよりも少しだけ大きな笑い声だった。


「そうですね。ありがとうございます、弾正さん」


 彼女はゆずティーを小さなスプーンでかき混ぜた。ガラスのカップの中でゆずの破片がふわりと舞う。


「そうかぁ。私ももう恋愛をしていいのかぁ」


 彼女は感慨深そうにそう呟いた。

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