第25話 潮騒館殺人事件25
「温泉行くの?」
「ああ。館の件が終わったら城崎にでも行くつもりだった」
「ああ、志賀直哉の?」
「そうだ」
探偵事務所セレストがあるオフィスビルの一階には喫茶店が入っている。テーブル席が三つ。カウンターが五つ。こじんまりとした喫茶店「硝子匣」では、来る度に新しいデザートを店主が開発している。
「僕が温泉で殺されかけたのによく温泉なんかいけるね」
ふてくされたように眉をひそめると、砂橋は桃が丸ごと乗ったパフェを前にスプーンを手にとった。
「死ななかっただろう」
さらに眉をひそめた砂橋が「そうだけどさぁ」と言いながら、桃の切れ目にぐさりとスプーンをさして、生クリームごと桃の欠片を口に放り込んだ。
「たまには息抜きに、と誘ったんだが……砂橋には必要がなかったみたいだな」
そういうと砂橋は少しだけ目を逸らした。生クリームの残ったスプーンを咥える。俺はブレンドコーヒーを持ち上げて、ゆっくりと飲むことにした。砂橋も無言でパフェを食べ進めていたが、やがて顔をあげた。
「個室に露天風呂あるとこなら一緒に行くけど?」
「もちろん探してある」
潮騒館でもそうしていたように砂橋はあまり自分の性別を顕にしたくない傾向が見られる。それは大学で出会った時からそうだった。だから、性別で温泉が分かれている温泉などにあまり行きたがらないんだろう。
「僕、個室の露天風呂入ってるから、弾正は温泉めぐりでもしてきなよ。僕、君の長風呂に付き合うつもりないし」
「……」
そういえば、砂橋は長風呂が苦手だった。それに対し、俺は温泉などに行けば一時間も二時間も温泉を巡っていられるほどに長風呂をする。
「それに弾正、観光地行くと際限なく歩くからついていくの大変なんだよね。あとバイクに乗って遠出する時は僕もさすがについていけないし」
それもそうか、と納得して俺はコーヒーを飲みほした。
なにはともあれ、砂橋が一緒に温泉に来てくれるのであれば、好き勝手に歩き回ることもないだろう。適当に食べ歩きをして温泉に入って、美味い飯を楽しむだけだ。
「ああ、いたいた!」
喫茶店のドアベルが響いたと思ったら、足跡がすぐ傍まで近づいてきた。ドアに背を向けて座っていたため、俺には見えなかったが、向かいの席の砂橋はその人物を見て目を丸くした。
「蝦村さんじゃないですか。どうしてここに?」
砂橋の視線を追って、俺も横を見るとそこには潮騒館で一夜を共に過ごした蝦村がいた。相変わらず一眼レフを持ち歩いているのか肩から提げた鞄は膨らんでいた。
「探偵事務所の方を訪ねたらここにいるって聞いたのよ」
彼女はそう言うと砂橋の隣に座り、カウンターの向こうにいる若い店主にアップルティーを頼んだ。
「聞きたいことがあるのよ」
記者となればそう来るだろう。俺も砂橋も何度か体験しているが、事件に関わる度にこうなるとうんざりしてしまうものがある。
「記事にしないように言われたんだけどどうして? 砂橋くんだって、名前が売れるのは嬉しいでしょ?」
「いやぁ、殺人事件を解決したなんて報道されたら、余計な依頼が増えるんですよね。それこそ、三十年前の未解決事件なんか、僕に解けるわけもないのに舞い込んできたら嫌なんですよ」
それこそ、砂橋の名前は世間に出ていないどころか、砂橋の探偵事務所は依頼主を選ぶ。それこそ、砂橋の知り合いからの紹介でなければ、きな臭い依頼はお断りだろう。
つまり、木更津愛の依頼を砂橋が受けたのは、誰かから紹介されたか、もしくは報酬が砂橋の満足いくものだったのかの二択ということになる。
「じゃあ、弾正くんは?」
「巻き込まれるのは御免蒙る。執筆作業があるのに、変な輩が自宅に来るのはそれこそ避けたい」
蝦村は納得できるが、満足がいかないようで首を捻っていた。おおかた、報道されていない事件の裏側を雑誌にでも載せたかったのだろう。蝦村がネタだけを求める下世話な記者だったら、こうして俺たちに意見を聞くことなく、雑誌に載せてしまうのだろうが。
「んー、じゃあ、あの館でのことは載せないでおくね……」
「そうしてもらえると助かります」
「すまないな」
「その代わり弾正がここでの支払いはしてくれます」
「待て」
「ありがとう、弾正くん!」
俺は深いため息を吐きだすと共に、カウンターの向こうにいる店主にコーヒーのおかわりを頼んだ。
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