第59話  雪と春  その4

 1



 それから、生活基盤を整えるために私たちは富士宮市に移り住んだ。東京よりも家賃や物価が低く、また富士宮は私の地元でもあるため、いろいろと勝手がよかった。


 それでも二人で生活を始めた当初はかなり経済的に苦しく、春樹にも我慢を強いることが多くなってしまった。


 幼い春樹を預ける親類もいないため、夜勤のない日勤のみの病院で働いた。春樹が学校に通うようになってからは私の奨学金に加え、学費や給食費、教材費など、出費がかさんだ。


 春樹は我慢強い子だった。


 この時代の子は友達と遊ぶにも、ゲームやおもちゃ、カードゲームなど、とにかく遊びにお金がかかるものが多かった。ゲーム〇ーイやゲー〇キューブなどのゲーム機は、ただでさえ本体が高いのに、それ以外にソフト代が別でかかる。


 家計に余裕があった月でも、なにかあった時のための貯金として少しでも蓄えておきたかったので、財布のひもを緩めることはなかなかできなかった。


 当時人気だったポ〇ットモンスター。


 春樹は時折、イ〇ンのゲーム売り場に並んだそれらのパッケージを眺めていたが、私が見ていることに気づくとさっと目を逸らした。


 欲しいものを欲しいと言わず、私に負担をかけまいと幼い彼は自分を律していた。 貧しい生活でも、春樹は文句を言わずに私を母として慕ってくれた。


 私にとって、一緒にいてくれるのはこの子だけ。裕福とまではいかなくても、できる限りほかの子と同じような生活をさせてあげなくては。


 そう思い、休みの日に副業でバイトを始めた。


 収入も増え、春樹にも玩具やゲームを買ってあげられるだけの余裕がわずかだができた。


 しかしある日、春樹は真剣な顔をしてこう言った。


「お母さん、僕、おもちゃもゲームもいらない」


「え?」


 仕事ばかりで家を空けている私を心配してくれたのだろう。


「お母さんのことなら全然へっちゃらよ」


 疲労はたまる一方だったが、この子のためなら少しくらいの疲れなど屁でもない。


「違うよ。お母さんと一緒にいたいの」


「……春樹」


 春樹は泣きそうな顔で私に抱き着く。その手が少し震えていることに、私は気づいた。この子にとって、孤独な時間こそが最も辛いことなのではないか。家で一人、私を待つ時間が苦しいのだろう。


 私が帰ってこないのではないか。


 私にも捨てられてしまうのではないか。


 家で一人ぼっちでいると、そんなことを不安に考えてしまうのかもしれない。


「あぁ、ごめんね」


「一人にしないで」


「うん」


 この子の心を満たすのは、物ではない。人とのなのだ。


 それから私はすぐにバイトをやめ、休みの日はできる限り春樹と一緒に過ごした。色んなところに二人で遊びに行き、貧しいながらも幸せな日常を過ごしてきた。


 正月も、ゴールデンウィークも、夏休みも、クリスマスも……


 私たちは文字通り、二人だけで生きてきた。


 

 2



「ただいま」


 家に帰りつくと、母が僕に抱き着いてきた。


「お帰りなさい、春樹」


「おわっ」


 大きな胸に顔が埋まり、息ができない。


「ぐむむ、く、苦しいって」


「あ、ごめんね」


 ぱっと母が手を離し、呼吸が自由になると、カレーのいい匂いが漂っていることに気づく。


「今日はカレー?」


「そうよ」


「シーフード?」


「そうよ」


「やった」


 僕は肉入りのカレーよりも、どちらかというとシーフードの入ったカレーの方が好きだ。


「ちゃんと帰ってきてくれたのね。偉いわ」


「そりゃ、そうだって」


「あなたの帰るべき家はここなんだから」


「そんなこといちいち言わなくても分かってるって」


「うふふ、それじゃあ、ご飯にしましょうか」



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