第18話  連絡先

 1



「あふぅ」


「お姉ちゃん、おはよう」


 目を覚ますと、すぐ目の前に凛の愛らしい顔があった。長い黒髪をツインテールにし、ピンク色のTシャツを着ている。


「おはよ、凛。夏休みなのに早いね」


 時計に目をやると六時半だった。


「ラジオ体操あったから」


「そっかそっか」


 凛と一緒にリビングへ向かう。


「おはよー」


「おはよう」と父の渋い声。


 ダイニングテーブルの上には朝食が並び、父が難しい顔をして新聞を読んでいた。母はキッチンの方で料理をしており、いい匂いが漂っている。


「小春、トースト何枚食べる?」


「三枚!」


「はーい」


「あれ? 遊起ゆうきは?」


「お兄ちゃん、起きてるはずなのに」


 ラジオ体操から帰って二度寝をしているのかもしれない。


「寝てるかもね。凛、起こしに行こっか」


「うん」


 我が華山家はできる限り家族揃って食事をするという家庭ルールというか、暗黙の了解のようなものがある。


 弟の遊起の部屋に向かう。


 案の定、遊起は寝ていた。ベッドの上で大の字になり、豪快ないびきをかいている。


「ほれ、遊起、起きろ」


 弟の顔をぺちぺち叩く。


「もうちょっとだけ」


「ダメ。もうご飯できてるから」


「うるせぇ、おばば」


「なんだって」


 遊起は小学校四年生の十歳児。長めの黒髪に線の細い華奢な体型、顔立ちも綺麗で整っており、見ようによっては女の子にも見えるが、性格はめちゃめちゃ生意気なクソガキである。


 私はベッドの端に上がると、遊起の足を掴み、そのまま逆さに吊り上げる。


「え? う、うわあああああああ」


「すごい、お兄ちゃん逆さまに浮いてる」


 凛が歓声を上げる。現役女子高生バレーボール部の筋力を舐めるなよ。


「おわああああああ」


「起きた?」


「お、起きたから、姉ちゃん、やめて」


「さっきおばばとか言ってなかった?」


「可愛い美人姉ちゃん!」


「分かればよろしい」


 私は遊起を解放する。


「ほら、朝ごはんだよ」


「ったくもう、普通に起こせよなー」


「だって起きないじゃん」


 遊起は眼を擦りながら私たちの後をついてくる。


「ねぇ、お姉ちゃん、あとで私にもあれやってやって」


「え、いいけど……」


 リビングに戻ると、母もテーブルについていた。もう朝食の準備は整っており、私たちを待っていたらしい。


「いただきます」

「いただきます」

「いただきます」

「いただきます」

「いただきます」


 家族五人の声が重なる。毎朝の光景だ。


「小春は朝から部活か?」


 父――華山元気げんきがコーヒーを飲みながら聞く。


 少し白髪の混じったオールバックの黒髪、鷲のような鋭い眼光に彫りの深い顔立ち。縁の黒い眼鏡をかけ、ぱりっとしたワイシャツに身を包んでいる。


 厳格そうな見た目だが、それとは裏腹にのんびりした優しい性格の父である。


「そうだよ」


「頑張るんだぞ」


「うん!」


「お母さん、お兄ちゃんがウインナーとったー」


「へへっ」


「こら、遊起」


 母――華山初子はつこが注意をする。栗色のさっぱりとしたショートカットで、右の目じりに泣きぼくろがあるのが特徴だ。スタイルもよく、私のわがままボディは母の遺伝である。ありがとう。


「ほら、お姉ちゃんの一個あげるから」


「ありがと」


「で、私はこっちからもらう」


 私は遊起の皿からウインナーを徴収する。これで丸く収まる。


「あっ」


 騒がしいけれど、充実している日常だ。


 学校も家庭も部活も順風満帆。あとは恋さえ成就すれば文句なしなのだ。春樹先輩、この夏で一気に距離を縮めてやるから覚悟しといてよね。


 身支度を整え、せがむ凛を約束通り逆さ吊りにし、私は玄関に急いだ。


「うえぇ、気持ち悪いよ……」


「……そりゃ食後にやったらそうなるよ。じゃ、行ってきまーす」


 さて、今日はどんな作戦で春樹先輩を落としてやろうか。



 2



「むむむ……はぁ」


 私は息をついた。


 夏休みに入ってから、なんだか春樹先輩と会う機会が少なくなった気がする。まあ、当然といえば当然だ。私と春樹先輩の接点は学校しかないのだから。


 春樹先輩は夏期補講に参加するために夏休みの間も学校に来るのだが、それもだいたい午前中まで。だから、春樹先輩が帰るまでに接触を図らなければいけないのだけれど、そのタイミングが難しい。


 女バレが午後練の日は集合時間と春樹先輩が帰る時間がかぶるため、会うことができないのだ。


 ……というか、そもそも私はを失念していた。


 春樹先輩攻略云々よりもまず、最初の一手としてこれをしておかなくてはいけなかったのだ。これさえやっておけば、さっき悩んでいた接点の問題なんて簡単に解決するのだから。


 幸い、今日は午前練習なので、超ダッシュで着替えれば春樹先輩の下校時間に間に合う。


「じゃ、お先でーす」


「お疲れー」

「お疲れー」

「お疲れー」


 私は校舎の方へ急ぐ。


「あっ、華山さん」


 ちょうど春樹先輩と会うことができた。くたびれたエナメルバッグを肩にかけ、ポロシャツの胸元から日焼けとは無縁そうな白い鎖骨が覗く。


「はぁ、はぁ、春樹先輩。午後はお暇ですか?」


「う、うん」


「よかった……」


 東門を出て坂を少し上った先にあるサーティー〇ンでアイスを買った。


「このあとどうする? お昼ご飯でも食べに行く?」


 〇ッピングシャワーを食べながら春樹先輩は聞く。


「そうですね。お腹空きました……あっ、その前に春樹先輩!」


「なに?」


「連絡先、教えてください」


「え?」


 そう、私はまだ春樹先輩と連絡先を交換していなかったのだ!


 初手でフラれてしまっていたために、私は春樹先輩を落とすことばかりに固執し、関係を構築する上でもっとも初歩的な連絡先の交換をすっかり忘れていた。家でも連絡が取れるようになれば、学校で会えない日でも何も問題なく予定を立てることができる。


「はい」


「ありがとうございます」


 私の携帯に春樹先輩の電話番号とアドレスが登録される。


 現状維持のままだった私たちの関係がようやく一歩前に進んだような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る