6話

 



 心臓が早鐘を打つ。

 セレティナはまるで生きた心地がしなかった。

 座っているのに世界が回って宙に浮き、ぐにゃぐにゃに魂が掻き混ぜられているようだ。

 表情筋は強張ったまま動かず、唇は僅かに震えている。

 もはや美しかったピアノのバイオリンの旋律はやたらと歪な不協和音にさえ聞こえていた。


 沈黙が家族の間に流れる中で、セレティナは横に座る母の姿が見ることができない。

 何か恐ろしいものが隣に座している、それだけはピリピリと肌身に感じていた。


 何拍かの後、呆気に取られていたバルゲッドは大口を開けて豪胆に笑い声を上げた。


「ほほう、騎士になりたいと申すかセレティナよ。これは良い。お前程の美しい娘が戦場を駆ければ兵達の士気もうなぎ登りに違いない」


 膝を打ち、朗々と語る父の口ぶりに真剣味は無い。セレティナの告白がおよそ何かの冗談か、小娘の世迷言にしか聞こえていないのだろう。


「父上、女が……というか貴族の娘が騎士になどなれるのですか?そもそもセレティナなんてはちゃめちゃに弱っちいですよ」


 そう言ってイェーニスは無関心な風に口元のソースを拭う。


「ははは。確かにセレティナは体は弱いが、女性の騎士というのも居ないというわけではないぞ。それに夢を見るというのは決して悪い事では無い。なんせいくら見てもタダだからな」


 バルゲッドはこれまた豪快に笑い声を飛ばすと、葡萄酒を一気に飲み干した。

 飲み過ぎだ……セレティナは真っ赤な父の顔を見てそう思わずにはいられなかった。










「冗談にしては……笑えない冗談ね?セレティナ」








 ぽつり、と。


 メリアの口から溢れ落ちたそれは、心胆を寒からしめる一言だった。


 その凍てつくような声音にバルゲッドの酔いは弾け飛び、イェーニスは背筋をぴんと伸ばし、セレティナは瞬く間に滝の様な汗が流れ落ちた。


 周りに控えていた侍女達にも、独特の緊張が走る。セレティナが淑女らしからぬ行為を行い罰を受ける時、この緊張は伝播していく。


 怒っているのか、嘆いているのか、それとも呆れているのか。

 どこの色にも区分けできない、底冷えする一言だった。


「メ、メリア……?」


 バルゲッドは恐る恐ると言った様子で問うた。


「セレティナ、あなたはもう立派な公爵家の娘として四年後には初社交界デビュタントを控えているの。一流の淑女レディーとして叩き込まなければならない事なんてまだまだ山程あるわ。十才にもなって、騎士になるなんて野蛮な世迷言をあなたの口から冗談でも聞かせないでちょうだい」


 およそ拒絶する様な、声音だった。

 鉄を思わせる冷酷なその瞳にセレティナは言葉を失った。


 セレティナは、覚悟していたのだ。

 母の如何様な怒りにも、小言にも耐える覚悟はしていた。


 しかし……この様に、母の口から自分の夢を頭から否定されることがひたすらに……ただひたすらに悲しい。

 厳しい母といえど、もう少し酌量の余地はあるはずだと心の底では思っていたのだ。


「メリア、子どもの語る夢なんだ。侍女達から聞いた英雄譚サーガにでも影響されているのだろう。一過性のものに過ぎん。そんなに目くじらを立てなくとも良いでは---」


 そんなものではない。

 私の夢を、父にそれ以上語ってほしくはなかった。










「世迷言でも!冗談でも!子どもの語る様な泡沫の夢でもありません!」


 セレティナは吠えた。

 立ち上がり、その拍子に椅子が音を立てて勢いよく倒れた。


 侍女達の動揺が伝播し、ピアノとバイオリンの引き手が止まり、静寂が部屋を支配する。


 静けさの中、セレティナの涙に潤む群青色の瞳が真っ直ぐに母を射抜いた。

 メリアは表情に怒りを滲ませた。


「セレティナ!貴族の娘が食事の最中にこのように椅子を引き倒し音を立てるなど!」


「その様な事はどうでも良いのです!お母様!騎士になる事を野蛮な世迷言と言った事、訂正してくださいませ!」


「これを野蛮な世迷言でなくなんと言うのですか!貴女は公爵家の娘として成さなければならない事があるのです!立場をわきまえなさい!」


「立場はわかっております!ですが、私の夢は他の誰のものでもない、私の夢です!何も今すぐにとは言っておりません!一考の余地をくださいと申しているのです!」


「一考の余地もあるわけがないでしょう!」


「お母様の分からず屋!私は---」







 パチン!





 ---乾いた音が、部屋に響いた。




 セレティナは何が起きたか分からなかった。


 熱を帯びた脳の中に空白ができる。


 しかし一瞬の拍を置いて去来した頬の痛みで、全てを理解した。


 母にぶたれた。


「え…………」


 セレティナはその事実に、ただ打ちひしがれた。

 メリアからは厳しく辛い英才教育を施されてきたが、一度も手を上げられたことは無かった。


 頬を撫でる。


 じんわりとした痛みが、確かにそこにある。









「あ………セレティナ……ごめんなさい……私…………」





 意外にもメリア自身が、自分の行動を信じられずにいた。震える手と、そして娘を交互に見る。


 ---自分はなんて事を……。


 そう胸中で悔いるが早いか。


 娘は自分に背を向けて駆け出していた。


 夫のバルゲッドが制止する声を歯牙にもかけず、大粒の涙を零しながら部屋から出ていった。


「……………セレティナ」


 メリアの、懺悔にも似た娘を呼ぶ声が部屋の中に消えていった。

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