第4話 冷たい視線



 ——絶望的。


 そう思った瞬間。

 吉田は腰を引かれて、そのまま抱え上げられたかと思うと、床に転がされた。

 一瞬の出来事で、なにが起こったのか理解するまでに時間がかかった。

 涙でぼやける視界を、なんとかクリアにしようと、何度も目を瞬かせる。

 どこかで誰かが話している声が響いてきて、そこで初めて状況を理解した。

 窓口に誰かが来たのだ。

 それに気が付いた安齋は、吉田の醜態を隠すかの如く、彼をデスク上から床に転がしたようだった。


「——そうなんですよ。すみませんね。なんだか秋口は寒いですからね。暖房、お願いします」


「承知しました。練習室3ですね」


「ええ。お願いできますか」


「大丈夫ですよ。少し効いてくるのに時間がかかるかも知れませんが」


「構いません。どうぞよろしく」


 声の主は、立ち去っていったのだろう。

 カツカツとヒールの音が遠のいていくのがわかった。

 ぼんやりと床に寝転がったまま、そうしていると、すぐに安齋の声が上から降って来る。


「いつまでも寝ているな。さっさと訂正文の作成に取り掛かれ」


 吉田は自由にならない両手の拘束を見つめて、じんわり涙が零れた。


「安齋さん……」


「吉田」


 躰を起こして、床に座り込んでいる吉田の目の前に、同様に座り込んだ安齋は愉快そうな笑みを浮かべていた。


「楽しみだな。吉田」


「——楽しい、だなんでどうして。どうしてこんな……」


「なにも不思議なことはないだろう。おれは先輩として、いや、一人の人間としてお前のことを好いているのだからな」


 吉田にとって、日常が非日常に変わってしまった瞬間だった。


「さっさと仕事に戻れ。業務中だぞ」


 安齋は冷たく言い放つが、そんなことを言われても困ってしまうのだ。

 こんな風にしたのは安齋だ。事の始まりは彼なはずなのに。

 「さっさと仕事に戻れ」とはどういう了見なのか。


「こ、これを。外してください」


「ダメだ。自分で外せ。おれは忙しい」


「でも——」


 きつく縛り上げられているネクタイは、そう外せるものでもない。


「そうだな。人への頼み方をいうものがあるだろう? 吉田」


「だ、だから。お願いしているじゃないですか」


「偉そうな物言いだな。それは人にものを頼むときのやり方ではないな。おれの足元にかしずいてきちんとお願いしろ」


 正常な判断能力さえあれば、そんなことは、なんとでもなることなのに。

 今の吉田は思考が回る状態ではなかった。

 ただ言われた通り、そばに立ち尽くしている彼の足元に頭を下げてそれから「お願いします」と消え入りそうな声で言った。

 安齋はしゃがみ込み、吉田の首根っこを掴まえて引き上げる。


「声が小さいが。まあ、許してやろう。いいだろう。解いてやる。その代わり、さっさと謝罪文を考えろ」


「——はい」


 悔しい気持ちでいっぱいだ。

 こんな卑劣な人間の言いなりになるなんて、許されないことだ。

 そう思ってはいても、どうしたらいいのかわからないのだ。

 生まれてこの方、他人から乱暴に扱われたことはない。

 ショックが大きすぎて頭が真っ白になっていた。

 吉田の人生は二十四歳にして、づまずいた。



***



 翌朝。

 吉田は夢うつつのまま出勤した。

 昨日は散々だったのだ。

 結局、謝罪文など考える余裕などあるわけがない。

 パソコンに視線を向けても涙しか出てこなかったのだ。

 安齋は何事もなかったかのように、職務を淡々と遂行し、定時にはホールを閉めた。

 吉田は泣きながら帰宅し、そして眠れるわけもなく——。

 結局、徹夜をした後のように、朦朧とした頭のまま、翌日の出勤に出ていた。

 あんなことがあったというのに。

 安齋は平然とその席に座っている。

 吉田はとても冷静に何事もなかったかのように振る舞うことができる気がしなかった。


「昨日は大変だったんですね。安齋から聞きました。吉田」


 出勤していくと、珍しく早く出てきていた課長の水野谷が声をかけてくれた。


「具合悪そうな顔して。そんなに自分を責めなくても大丈夫ですよ。そもそもは申込者が悪いんだから。僕たちに落ち度はありませんよ」


「しかし、訂正や謝罪をするということは、我々に落ち度があったと、皆様にお知らせするようなものなんですよね。本当に申しわけありませんでした……」


 昨晩、安齋から刷り込まれた言葉が、呪文のように、自然に口をついて出てくる。

 しかし予想に反して、水野谷はそう気にも留めない表情をしていた。


「大したことなんてないですよ。そんなことは問題外。それを問題視すること自体がナンセンスです。我々も人間だ。そんなことは当然起こりうること。気にしなくていいのです」


 丸眼鏡の奥の瞳は優しい色だった。

 吉田は心底ほっとした。


「しかし謝罪文がまだできなくて……。急いで作成いたします」


 吉田は頭を下げる。

 しかし水野谷は「いいよ、いいよ」と笑顔で言った。


「もう星野に頼んでやってもらっているから。大丈夫」


「でも——」


 ふと安齋と視線がぶつかった。 


 ——きっと、また甘えていると言われるに違いないんだ。


 吉田は背筋が凍る思いをし、そのまま首を横に振った。


「お、おれの責任です。おれにやらせてください!」


 吉田は星野の元に駆け寄って、頭を下げる。


「星野さん! おれにも、おれにもやらせてください」


「あ、ああ? いいけどよ。課長~」


 星野は助けを請うかのように、水野谷に視線をやった。

 水野谷は苦笑する。


「そんなに気負わなくても大丈夫だけど。まあ、吉田がそうしたいなら、そうしましょうか。星野、一緒に教えてあげながらやってください」


「は~い。——ほれ、椅子持ってこいよ」


「はい」


 安齋が怖かった。

 彼の視線が。

 凍てつくような視線が怖いのだった。

 吉田は動悸がする心臓の辺りに手を当てて、気持ちを落ち着かせようと深呼吸を繰り返した。




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