第3話 事務室での接吻




「本当、お前は笑わせてくれるな。お前は知らないかも知れないが——おれの本質はこうだ。いい大人が粗暴な態度を取ったら、社会に適応できるわけがない。おれは。表と裏の顔を使い分けてこそ、社会人たるものだろう?」


 ——そんなの、おかしいよ……。


 今、この瞬間。

 目の前にいる安齋が、彼の本質であるならば、自分たちは、ひどい裏切り行為を受けているということではないか。

 星野や水野谷たちは、彼のことを「いい奴だ」と信じているのだ。

 絶望感に支配されてしまうと、堪らなくなった。

 目尻から涙が零れた。


「ひどい……安齋さん。そんな人だったなんて」


 吉田のことを上から見下ろしていた安齋は、うっすらと笑みを浮かべた。

 そして、そっと細い指でその涙をぬぐった。


「ああ、本当にお前の泣き顔。どうにかしてやりたくなるな」


 吉田には彼の言葉の意味がわからない。

 いつの間にか、安齋の手は離れ、自分は自由に躰を動かすことができる状態になっていることにすら、気がつかないくらい。


 吉田は混乱していた。


「堪らないな」


 舌なめずりをした安齋は蛇みたいに見えた。

 吉田のネクタイに指をかけ、それからするすると衣擦れの音を立てながら、それを引き抜く。

 恐怖で少しも動けない吉田は、成されるがままにそこに横たわっていた。


「今までずっと隠し通してきたのにな。なぜだろうか。お前を見ていると、そんなのはどうでもよくなるんだ。おれの本性を晒すことなど、どうでもいいくらいに。お前を泣かせたり、虐めたり、めちゃくちゃにしたくなる」


 引き抜かれたネクタイを両手で握りしめ、それから大人しくしている吉田の両腕をまとめて縛り上げる様を、ただただ、黙ってみていることしかできない。

 心の中では、「なぜ?」「どうして?」という疑問の嵐が吹き荒れるというのに。

 いくら遅番中とはいえ、今は勤務中だ。

 しかも先ほどのように、誰がいつ入って来るのかわからない状況であるにも関わらず、彼の指先は止まらない。

 手首をきつく締め上げられた痛みで、はったと我に返った。


「あ、安齋さん。おれが嫌いならそれはそれでいいんです。ただ、おれ。出来損ないの新米だし。だけど……ひどいです。課長も星野さんたちも、みんな、みんなが安齋さんのことが好きで、仲間だと思っているんですよ?」


 吉田は手の拘束を外そうともがくが、到底、叶うわけもない。

 そんな吉田の抵抗を眺めて満足そうに安齋は口元を上げた。


「そんなものは知ったことではないだろうが。誰が誰に好意を持つかなど、自由であるはずだ。好意を寄せられたからといって、自分もそいつを好きにならなければならない。そんなルールは世界中のどこにも存在しえないだろうが。——じゃあ、なにか。おれがお前に対して好意を示したら、お前はそれに応えるということだな」


「そんな無茶な!」


 ——そこまでは言っていないじゃないか。


 しかし、吉田はそう信じて生きてきた。

 人が自分に敬意を表してくれたり、大切に思ってくれるのであれば、それに対して、誠意をもって対応することが当然のことだと思っていたからだ。


 ——人に感謝をしなさい。

 ——人を大事にするのです。


 そういう価値観の中で生きてきた。

 だから、安齋のような男には出くわしたことがなかったのだ。

 今まで人とは、話し合えばわかり合えると思っていた。

 だから、きっと。

 安齋も理解してくれると思っていたのに——。


「お、おれは。少なくともそれは大切なことだと思うんです。おれのことを大切にしてくれる人には誠意を持ちたい」


 ——わかってくれる?


 安齋を見上げると、ふと彼の表情が和らいだ。


 ——わかってくれた?


 吉田は少し、心が緩んだ。だがしかし——。

 安齋は「ふふ」と愉快そうに笑いだした。


「本当にお前は面白い。予想通りではないか。——では、おれは今日から、お前のことを好きだと思うことにしよう」


「え!」


「どんなに汚い人間、お前が嫌いな人種であるおれでも、お前に好意を抱いていれば、誠意を持って対応してくれるというんだろう? お前が言っている話は、そういう意味だ」


「そ、それは——」


 ——それは……。


 言葉に詰まっていると、安齋はにこっと笑みを見せた。

 それは先ほどの笑みとは違っていた。

 そう、それは営業スマイル。

 その笑顔には、安齋の感情はなんら含まれていない。

 からっぽな笑みだった。


「ち、違います。安齋さんは、おれに好意なんて持っていない。むしろ、嫌いだって言っていたじゃないですか」


 吉田は消え入りそうにつぶやく。

 しかし、それを受けた安齋は困ったように肩を竦めた。


「気が変わったのだ。おれはお前が大好きなんだぞ? おれの気持ちを疑うというのは不誠実ではないか。お前は自分で言っていることと違うことをしようとしているのではないか?」


 演技かかっているその言い方は、空虚で、吉田にとったら、余計に恐怖心をあおられるだけだった。

 返す言葉もなく、ただ黙り込んでそこにいるしかない。

 きっと吉田の視線は、怯えを帯びているのではないか? 

 安齋は意地悪に口元を歪めるだけだった。


「好きとは色々な意味がある。同僚として好ましいとか。後輩としてかわいいとか。そのどの意味合いでも好きは好きというものだろう?」


 口を開けば、深みにはまりそうな気がして、言葉を発することが出来ない。

 じっと黙り込んで、安齋を見返すしかできなかった。

 安齋はその長い指で吉田の頬をなぞりあげる。

 彼がなにをしたいのか、吉田には到底、理解ができない。

 ただ恐怖で身を縮めているだけ。


「好きだよ。吉田——」


 デスクに押し付けられたまま、強引に顎を引き寄せられて、安齋の唇が自分の唇に重なった。


「あ、安……っ!」


 顔を背けようとしても、その拘束は外れない。

 縛り上げられた両手で安齋の躰を押し返すが、そんなものは無意味。

 びくともしない。

 細身に見える彼だが、着やせをするタイプらしい。

 こうして直に触れてみると、その躰は固くて、がっちりとしていることがうかがえた。


 ——とても敵わない。


 息が吐けなかった。

 もがいても、もがいても、びくともしない安齋の躰は鎖のようだったのだ。

 初めてのことであるのにも関わらず、無遠慮に安齋の舌は吉田の歯を割って入り込んでくる。

 細い指先は、ワイシャツをたくし上げて、下腹部に触れてくる。

 酸素も足りず、わけのわからない刺激に眩暈がした。


 ——誰か……、誰かって誰? こんなところを誰かに見られたら、そんなの……ダメだ。そんなことはダメ。


 意識が遠のきそうになる。

 限界だった。

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