1.大和撫子
第1話
――寒い。
田舎の無人駅に降りたった
硬質な冷たさを帯びるからっ風が頬を撫ぜると、着ぶくれた体の血管に氷水を流し込まれたようだった。線路沿いに突き立った桜木の枝の先では、大和と同じように身を固く引き結んだ蕾がじっと寒さに耐えている。
二月だというのに、春の兆しはまだこない。
田舎の無人駅という侘しさと鉛色に染まる曇天も相まって、大和は殊更に寒さを感じてしまった。
「……」
大和は小柄な自分よりも大きいボストンバックを担ぎ直すと、上着のポケットに入れていたコインケースを取り出した。そしてホームに設置してあった古ぼけた自動販売機に百円硬貨を捻じ込み、温かいカフェオレを選択。
ドンと鈍い音がして、取り出し口にぶっきらぼうに商品が投げ出される。
大和は凍え始めた手先をカフェオレ缶の熱で蕩かすと、足早に改札口を出た。
「大和」
改札を抜けると、大和の祖父――
ずっと待っていたのだろうか。ダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだ彼の鼻の頭は、朱色を帯びている。
「久しぶりじいちゃん」
「おお……久しぶり……」
孫との久しぶりの再会だというのに源一郎の表情はどこか固い。笑顔もない。
源一郎は大和に悟られぬ様に……とは言っても悟られているのだが、爪先から頭の先まで、不思議そうな視線を注いでいる。
「……本当に、女になっちまったんだなぁ」
呟く程の声量。
感心した様な、感動した様な、困惑した様な、マーブル色の驚きに満ちた源一郎の心情は、彼の意図するところなく独り言となって吐露された。
源一郎のたったひとりの愛孫の大和。
最後に会ったのは五年も前の事だっただろうか。
当時の大和は中性的で器量の良い子だったが、一目で分かる程に紛れもない男児だった。
しかし、今彼の目の前にいる孫の姿は違う。
まず顔つき。
輪郭が女性らしい丸みを帯びている。薄い桜色の唇、透き通るような白肌は紛れもなく女性らしさに溢れており、
化粧っけはないが、そんなものはなくとも大和の見目は女性として優れていた。
着ぶくれてはいるものの、体つきもそうだ。
腰は括れ、臀部も女性らしいラインをしている。控え目ではあるものの、乳房も緩やかな丘を形成しているのだろうことは分かった。
短髪だった髪も、今はしっとりとした濡れ羽色の髪を肩甲骨の辺りまで流し、風に揺れる度に女性特有の甘い香りを漂わせている。
……器量の良い男子だった愛孫の大和は、すっかりと立派な器量の良い女子へと変身していた。
百聞は一見に如かずとはよく言ったもので、話には聞いていても実際に見るとこうも衝撃を受けるのかと、源一郎は狼狽した。
そんな祖父の心情を慮った大和は、肩をすくめて見せる。
「見ての通りだよ、じいちゃん」
「おお……とりあえず、元気か……」
「まぁ、それなりに」
大和は平坦な調子でそう言うと、カフェオレ缶のプルタブを引っ掛ける。
プシ、と小気味良い音が鳴り、寒風に牛乳と砂糖の甘ったるい香りが広がった。
「じいちゃん、俺寒い」
「お、おお。車そこに停めとるけん、はよ乗りや」
オンボロの軽トラ。
年季の入った白の車体は風化の色が濃く刻まれていた。
これで迎えにきたのかと大和は内心思ったが、文句はない。この寒い中、祖父が迎えに来てくれるだけ有難いのだから。
大和は荷台にボストンバッグを積み込むと、助手席に早々に乗り込んだ。
エアコンが効いて暖かいが、車中には源一郎が長年染み込ませた煙草のヤニとエアコンから漂うカビの臭いが漂っていた。
大和が僅かに顔を顰めていると、源一郎が軽トラに乗り込んでくるのは直ぐだった。
「じいちゃんこのクルマ臭うよ」
「普段は俺しか乗らんのやからええだろ」
「孫を迎えにくるんだから掃除くらいしなよ」
「男がみみっちぃことに文句言うな」
「俺、今女だけど」
大和が皮肉めいてそう言うと、源一郎は分かりやすく眉間に皺を寄せた。
「大和、お前本当に女になっちまったんか」
軽トラを発進させながら、源一郎がぼやく。
聞いていても実際に見ても、やはりその事実に源一郎の思考が追い付かない。今更本人に聞いたところでどうしようもないが、言葉に出さずにはいられなかった。
大和はカフェオレをひと口飲むと、頷いた。
「うん、胸も多少あるし、下もなくなった。声も変わったし」
「身長も縮んじまったな……
「叔母さん? 圭子叔母さんは凄く良くしてくれたよ。やっぱり、最初は驚いてたけど」
「……そのまま東京の圭子の家にいても良かったんやけどな」
「そういうわけにはいかない」
大和はそう言いながら、ポケットから古ぼけたボールを取り出した。
古い牛革の匂いが漂う。小さな左手に収まるそれは、まさしく野球に使われる硬式球だった。
大和は縫い目に指を這わせたり、徐にスライダーやカーブの握りを形作った。
それは一種の癖の様なもので、そうしていると自然と心が落ち着くのだ。
源一郎はそれを横目に捉えながら、問う。
「……大和、昼飯何が食いたい。どこか食べに行くか?」
「じいちゃんの握る寿司がいい」
「そうか」
「ウニある?」
「贅沢言うな」
そんな調子で会話をしていると、丁度軽トラが目的地へ辿り着いたところだった。
大和にとっては見慣れた風景。
だけど懐かしい風景だった。
『源寿司』という屋号が銘打たれた大きくて古い木造の家屋。
頭に載せた瓦やその風体は、やはり年季を感じさせるものだった。
一階部分は屋号から分かるように寿司屋になっていて、階段を上がった二階三階は居住スペースになっている。
大和は祖父母の家を見上げ、鼻腔を擽る田舎の空気をたっぷりと肺に吸い込んだ。
東京でもアメリカでも感じられることのなかった土っぽい空気で胸が膨らむ。玄界灘から運ばれる潮の香りも混じり、大和は殊更に懐かしい気持ちに至った。
「お邪魔します」
暖簾の掛かっていない玄関口の引き戸をカラコロと開けると、まずは鮮魚と酢……それから鰹や昆布の出汁が混じった様な、特有の香りが鼻腔を撫ぜた。それから目に飛び込むのはやはり寿司屋の光景。右手にカウンター席、左手に小さな座敷席が設けてあるが、客はひとりも席に掛けていない。
暖簾も出していなかったし、今日は店を閉めているのだろうと大和は思った。
昼時の今なら、普段ならば賑わっているはずなのだから。
「別に店閉めてなくてもいいのに」
「そんなわけにはいかん。それからお邪魔しますじゃなくて、今日から『ただいま』って言わないかん」
「……ん」
祖父の骨ばった手が、大和の小さな頭を無遠慮に撫でつける。髪が乱れるが、大和はそれを振り払う気にはなれなかった。
「大和ちゃん!」
少しの間そこに立ち尽くしていると、奥からぱたぱたと祖母の
「んま~~~~……!」
「久しぶりばあちゃん」
順江は眼が零れんばかりにひん剥いていた。
大和と源一郎を交互に見合わせ、わなわなと震えている。
源一郎は妻の視線を受け止めると、深くウンと頷いた。
この少女が愛孫であると、証明する為に。
「本当に大和ちゃんなの?」
「うん」
「あら~~~~……! まぁこんなに可愛くなっちゃってま~~~~……!」
順江は皺を刻んだ掌で大和の顔を包み込んだ。
小さな手ではあるものの、それにすっぽりと収まる程度には大和の顔は小さい。
気泡一つ含んでいないビー玉の様な大和の瞳を覗き込んだ順江は次第に顔を綻ばせると、愛孫の体を優しく抱きしめた。
「大変やったね大和ちゃん。でもね、私実は女の子の孫も欲しいと思ってたんよ。大和ちゃんは私の夢を一人で叶えてくれる孝行者やね」
「順江」
きつく抱きしめる順江を源一郎は諫めた。
思春期の男子が女子へと転性するその精神の不安定さを推し量れないわけではない。順江はハッとすると、慌てて大和の頭を撫でた。
「ごめんね。おばあちゃんちょっとデリカシーがなかったね」
「いいよ、全然」
首を横へと振る大和の表情は変わらない。
元々感情が発露しにくい性質ではあるが、その実彼の心に波風は立っていなかった。
寧ろ彼……いや、彼女にとっては寧ろ源一郎の様に気を使われる方がやりにくい。
「大和、まあ座れ。腹減っとるやろう」
「……ありがとう」
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