ポニーテールとサブマリン。〜高校球界最高左腕が女の子になったら〜

三上テンセイ

プロローグ

セーラー服の投手

 







 外角、高め。


 甘いコースに放られた白球がバットの真芯に触れてからスタンドに突き刺さるのは速かった。


 形勢を一撃でひっくり返した満塁ホームラン。

 実況解説の上ずった声が、高らかにその一撃に賛辞を送っている。


 歓喜に沸くスタンド席。それからマウンド上で項垂れる投手にカメラの視線が動き、やがて画面は感嘆の吐息を漏らしているコメンテーター達が映るニューススタジオへと帰ってきた。



「いやぁ……凄いね滝沢朝日たきざわあさひ選手」



 老齢の男が惚れ惚れとそう零すと、横に並び座るコメンテーター達が追従するように頷いた。



「まだプロ一年目ですけど、今日のホームランでシーズン三十本目でしょう? 日本記録の六十本も既に射程圏内なんじゃないですか?」


「まさに令和の怪物。甲子園決勝で全打席本塁打だったというのは今聞いても俄かには信じがたい記録ですが、こうしてプロの彼の活躍を追って見ていると当然のことの様に思えますねぇ」


「高校球界は勿論、まさかプロ野球界ですら滝沢選手の収まる枠ではないということですかね。いやぁ~野球ファンとしては彼がメジャーで活躍しているところも見てみたいなぁ」


「これでレ・リーグの主要エースピッチャーは悉く滝沢選手にホームランを許したことになります。昔も今も、国内には最早敵無し。甲子園から続く令和の怪物の快進撃は果たしてどこまで続くのでしょうか……今後も期待が高まりま――」



 司会が最後までセリフを言い切ることなく、テレビ画面は漆黒を映し出した。


 リモコンを握るのは、件の怪物・滝沢朝日。

 眉間に皺を寄せる朝日は忌々しそうにリモコンをソファへと放り投げると、重たい溜息を吐きこぼした。


 入浴後乾ききっていない髪をタオルでガシガシと拭くと、自身もどっかりとソファに座り込む。


 テレビの中のコメンテーター達の薄っぺらな賛辞が、朝日の不興を買っていた。



「昔も今も国内に敵なし……か」



 敢えてコメンテーターのセリフを繰り返す。

 繰り返して、朝日の顔に皮肉めいた乾いた笑みが滲み出した。



「……そうだったなら、どれだけ良かっただろうな」



 朝日は、今夜もあの日を思い出す。


 あの日がリフレインするからこそ、プロになり夥しい程の賛辞を浴びてもそのどれもが陳腐なものに聞こえてしまう。


 記憶という名の呪縛は、今もなお滝沢朝日を蝕み続けていた。














 *





 あれは、高校二年の時の夏だった。

 例年と比べても一段と厳しい酷暑だったのを覚えている。


 雲一つない晴天を昇り終えた太陽がゆるりと地平線へと落下を始める頃、俺はかつてない緊張感にさいなまれていた。



「…………」



 彼我の距離、十八.四四メートル。


 バッターボックスには当然自分。

 使い慣れた金属バットのグリップをしかと握り締め、双眸でマウンド上の特異な投手を睨む。


 学年で言えば、自分の一つ下の一年生。

 今まで対峙したことのないタイプの投手だった。


 上背のある自分より一回りも二回りも小さく、か細い。だというのに、あの小さな躰から醸される威圧感プレッシャーときたらどうだ。


 ダイヤモンドに仄立つ蜃気楼の揺らめきが、その投手から放たれる意志に由来するものだと信じて疑わなかった。


 唾を飲み込んだ時に、ゴロリと転がる喉仏の音が嫌によく聞こえたのを覚えている。


 相対する投手が、マウンド上でゆっくりと動き出す。

 背に粟立つ緊張感。


 当時の心境……はっきり言って俺は臆していた。後に『令和の怪物』と称されることになる高校球界筆頭スラッガーと言えるこの俺が、尻込みしていたのだ。


 カウントはツーストライク、ノーボール。

 ……追い込まれている。


 苛立ちさえ覚えるほどにひりつく時間の流れは、その投手の左腕が始動するや激流の川下りの様に加速した。


 ワインドアップ――両腕を大きく振り被る。

 右足を軽く上げ、加速。


 球を握る左手は独特の軌道を描き、低く、低く、地を鋭く滑り始める。マウンドの土を攫う様な滑らかな投球フォームは、まるで舞だ。


 下手投げアンダースロー


 あの希少な投法をあれだけ美しく完成させた投手は、プロになった今でもそうはいないと自信を持って言える。もしもバッターボックスでなく側から見ていたならば、その美しさに俺は見惚れていたに違いない。


 マウンドの土と白球の距離、僅か五センチ。


 地を滑る――否、抉る様な角度から白球が放たれた。僅かに砂埃を纏った白球は、低い軌道を保ったままに十八.四四メートル先のキャッチャーミット目掛けて駆けてくる。


 肝が冷える様な低さ。

 バッターの自分が躊躇いを覚えてしまうほどの軌道。


 しかし白球は、着地どころか重力に逆らって上昇ホップする。


 飛び魚が海面から飛び上がる様に、或いは大型旅客機が離陸する様に、川に放られた平石が着水を逃れる様に……その一球を賛辞する例えなら幾らだってある。


 低い……だがその上昇の軌道を瞬時に逆算した俺は、白球がストライクゾーンに捻り込んでくると確信した。


 沸騰する血液と、冷却される頭脳。

 左足を地から離し、バットのスイングに全神経を注いだ。僅かばかりの瞬きも許されぬ、刹那の見切り。


 力みはない。

 が、緊張の“感”は体を駆け巡った。


 テイクバックした左足を地につけ、トップ――スイング前の最後の状態に移る。


 後は、行くだけ。


 奥歯を噛み締め、衝撃インパクトに備える。


 腰から肘、肘から手首。

 何億回と振るってきた至高のスイングに導かれるバットが、剛音と風を従えながら懐に飛び込んでくる白球を迎え撃つ。


 リズム良し。

 タイミング良し。

 選球眼に狂い無し。


 完璧なタイミングに、完璧なスイング。

 生き物の様に跳ねる白球の軌道を、確かに捉えたと思った。


 高音が嘶き、ボールは軽々とフェンスを越えて場外へ。自然と緩む俺の頬に気づいた対戦投手は、呆然の余りに立ち竦んで白球のアーチを見送っている。








 瞬きの間にそこまで思い描いた妄想は、俺の僅か後方……白球がミットを貫く小気味良い音に打ち砕かれた。



 ……俺を嘲る様な蝉の声。



 その時、周りにいた誰もが動けなかった。


 高校球界最強スラッガーのこの俺が、自信満々に一打席勝負を受け入れたこの俺が、完膚なきまでに三球で封殺された。


 傲りがなかったとは言えない。

 だが自身の中で最高と称せた俺のスイングを、奴に操られた白球は三度も透り抜けた。


 次の打席があれば勝負が分からないなどとは、口が裂けても言えない程の清々しい完封だった。


 俺はあの時の勝負を、決して忘れない。決して忘れられない。




 だって、有り得ないだろう?




 俺は、マウンドに立つあの異彩の投手の姿が今でも目に焼き付いている。







 ――左腕サウスポーで。




 ――下手投げアンダースローで。




 ――小柄で。




 ――マウンドに立つには長すぎる濡れ羽色の髪は、青い髪紐で一括りポニーテールにされていた。




 ――セーラー服を身に纏う、日焼けを知らない柔肌。




 ――……一般的に美しいとされるかんばせには大粒の汗が発露され、投球を終えた異彩の投手はゆるりとスカートを翻していた。














 俺の野球史で唯一完敗を喫した投手は紛れもなく……『女』だった。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る