アウトサイダー
@s_s_vr
群れの外
世の人は強者が弱者を叩く、という。
富む者は貧するものから搾取する。
マルキシズムの信奉者でなくても、我々は豪富を妬む。
彼らは持たざる者から常に奪う側の人間である、と。
私は思う。
弱者こそが強者を叩くのだ。
さもなければ、なぜ私の兄が死ななければならなかったのか。
「次に生まれてくるときは、兄弟じゃないといいな」
最後に聞いた兄の言葉は、未だに私の耳に残り続けている。
自慢にもならないが、私の兄は神にも選ばれた人間なのだと思う。
一を聞いて十を理解する。
足を競えば横に並ぶものはなし。
人を想い慈しむは母のごとく。
その瞳に見入られれば恋に落ちぬものなどいなかった。
全てが完璧で、私は兄をずっと神の落とした子だと思っていた。
その存在を誰もが羨んだろう。
もちろん、私も。
「愁ちゃん、なにしているの?」
リビングで課題をこなす私に、兄はそう問いかけてきた。
「…なにって、見てわかるでしょ。課題やってるんだよ」
「そうは見えなかったけどなあ…」
片手に鉛筆、片手にゲーム機を握る私の姿を見て、兄はふふ、と苦笑した。
「気分転換も大事なんだよ。サギョーノーリツ?ってやつに関わってくるんだ」
「愁ちゃんのくせに、難しい言葉使ってる」
「悪いか。あと、『ちゃん』付けはいいかげんやめてくれ、俺も優って呼んでるだろ」
「えーっ、その方が呼びやすいし?」
「『ちゃん』付けされるほど、頼りないのかよ」
私は口を尖らせて言うが、兄は一向に気にした様子はない。
兄とは2歳ほど離れているから、生まれた時からずっとこんな調子だ。
「頼りにしてるよ? 飢えた兄は愁ちゃんにご飯を作ってもらいたいのだ」
学校では品行方正、成績優秀、文武両道。
なにをとっても非の付け所のない兄だが、家の中ではどうにもだらけきっている。
男やもめなコブ2つの兄弟だから、家事は私と兄で分担している。
だが、どうにも兄には家事の才能は全くなかったようで、結局家事のほとんどは私が引き受けることになっていた。
若干の不満はあったが、それ以上に『あの兄にも不得手なものはある』という事実が、私の気をよくしていた。
「今日は何が食べたいんだ?」
「んーとね、カレーがいいかな!」
私にとってはなんでもない日常の風景だった。
きっと、兄にもそうだっただろう。
「な、な。 優ってお前の兄ちゃんなんだろ?」
「そだよ。…なんだよいきなり。」
同級生が話しかけてくる。
たまたま席が隣だったから仲良くなったものの、こいつはどうも人のうわさをやたらと聞きにくる、ちょっと困った奴だった。
「…またなんかの噂か?もういいかげん飽きたんだけど」
「いやー、今回はマジでヤバいって。 なんせ相手が相手だからさ」
兄のうわさは同じ学校に居ればいやというほど耳に入ってくる。
成績がどうとか、大会がどうとか、そういうのはもう聞き飽きているようで、最近のもっぱらのうわさは色恋沙汰だった。
「だからって当事者の弟に聞きにくるか?」
「本人に聞くわけにいかないんだから仕方ないだろ! 大体、お前のにーちゃん友達いないじゃん」
「バカ話する時間がもったいないだけだろ、それで相手は誰なんだよ」
いまバカっつったか?と納得いかない様子だったが、それよりも好奇心が勝ったようだ。
「『木野崎 玲』だよ! やたらと取り巻きが多い3年生いんだろ!」
「キノサキ…、あー、あのバカっぽいやつね」
「学園2位だぞ、おまえよりよっぽど頭いいよ」
「知らねーよ、興味もないし」
お前の話はどうでもいいと言わんばかりに、話を続ける。
「いやー、学年1位と2位だし、どっちも見た目いいしさ、付き合ったらお似合いだって言われてたんだよなあ」
「…逆になんで今まで告白してなかったんだ?」
「そりゃお前、卒業まで半年って時期だからさ、勝負かけにいったんだよ!」
木野崎 玲のことは知っていた。兄から聞いたことがあった。
『自分勝手で、冷たい人』だと。
だから、告白して玉砕するなんていうのは、ハナからわかりきっていたことだ。
なにも興味を惹くことはなかった。
だから失敗した、のかもしれない。
「…ま、どうでもいいわあ」
「呑気にしてんなあ」
兄の色恋沙汰に一喜一憂するのも普通じゃないだろう、と心の中でつっこむ。
「…知らねーよ? 女王様敵に回しちゃってさ」
「ごめ、聞こえんかった。 なんか言った?」
「なんもねーよ」
いつもと変わらない笑顔に見えた。
変わっていったのは日常のほうだった。
兄の顔からは笑顔が消えた。
学校では、兄の噂はまるで別人の評判かのようになっていった。
彼女曰く、兄が動物を虐待していたのだと。
彼曰く、兄が女性に靡かないのは同性愛者だからだと。
そんな悪意のある噂だけが、校内を駆け巡っていた。
兄はなにも反論をしなかった。
その瞳にはなにかを諦めたような、虚ろな色が浮かぶだけだった。
なにかを兄に聞いたわけではない。
ただ、その諦めの感情は私の中にも確かに流れ込んでいたように思う。
兄は学校を休むようになった。
私も、学校の噂を気にしなくなった。
同じ食卓を囲むことも少なくなった。
私も、兄の食事を気にしなくなった。
会話を交わすことは、ほぼなくなった。
私も、兄のことを気にしなくなった。
好意の反対は憎悪であると、私はこのとき確信した。
裏切られた、裏切られた。
私の尊敬する兄は虚像だったのだと。
憎悪、憎悪。
私の愛する兄は、もう死んでいたのだと。
学校での噂も、もう気にならなくなっていた。
羊の群れに遭遇したら、どうすればよいか。
その群れに加わるか、のんびりと通り過ぎるのを待つだけでよい。
私はただ、眺めているだけだった。
兄の存在を汚されることを。
兄の尊厳が傷つけられることを。
兄の心すら殺すことを。
「…だる」
移動教室で、兄のいた教室を通るとき。
ケラケラと、下品な笑い声が廊下に響いていた。
「…あいつもバカだよね、まさかこんな簡単に潰れてくれるなんてさ」
誰かが誰かを傷つける言葉。
この学校の、この教室。
対象になるのは、おそらく兄のことだろう。
『潰れてくれる』…?
「ま、バカとハサミは使いようって言うじゃん? …って、あんたらにはわかんないか」
「レイ、難しい言葉使わないでよ」
木野崎 玲。 兄に振られたバカな女。
「猫を池にぶち込んでさ、アタマおかしくなったのかと思ったよ」
「どうやってアイツになすりつけたの?」
なすりつけた?
「あー、うちの取り巻きに写真撮らせたのよ。溺れた猫とアイツが写ってるヤツ」
「うわ、えぐー…。 猫かわいそうじゃん」
「ま、死んでないからいいっしょ? 猫缶やったんだし、プラマイで考えたらプラスよ」
「プラマイってなにー? 新しいバンド?」
こいつマジでバカだわ、そう言いながら下品に笑う。
こいつらのことはどうでもよかった。
ただ、足だけが私の意思を明確に示していた。
兄ではなかったんだ。
自然と涙が零れた。
謝らなきゃ、ごめんなさいって。
悪いことをしたら、ごめんなさい。
「ゆうちゃんに、あやまらなきゃ」
涙声だった。 鼻水も止まらなかった。
でもそんなことはどうでもよかった。
「ゆうちゃん!」
「…愁ちゃん?」
ボサボサだった頭は、綺麗に整えられて。
しわひとつない制服に身を包んでいた。
ほっそりとした頬だけが、私の罪悪感を惹き立てていた。
「…ごめん、優ちゃんのこと信じられなくて。」
「なにか、あった?」
兄の目は、かつての輝きを少しだけ取り戻していた。
やさしい、慈愛の目。
「木野崎 玲。 あいつが仕組んだって、本人たちがバカ笑いしてるの、聞いた」
涙は止まらないし、呼吸は乱れていた。
「そっか。 詰めが甘いね、彼女も」
ふふ、と鼻を鳴らして笑う姿はどこか儚い。
「優ちゃん、悪くなかったんだ。 ごめんなさい」
「大丈夫だよ、僕もなにも言わなかったし」
「でも」
兄は私の口を指でふさぎ、こう呟いた。
「勝負にね、負けたんだよ」
「…勝負?」
なんのことだか、わからなかった。
「人を信じるか、信じないか」
「信じる…?」
兄は屋根を見つめながら、独白する。
「突然彼女に呼び出されてね」
右手を屋根に突き出す。
「写真を突き付けられたんだよ」
人差し指だけを空に伸ばす。
「あんな写真、普通は証拠にならないよね?」
くるくると人差し指を回す。
「要はね、あれは僕を叩くための口実なんだよ」
「そんな、バカなこと」
兄は視線をこちらに移し、私の瞳を覗き込むようにこちらを見た。
「僕もバカなことだと思った。 彼女にもそう言ったよ?」
一歩、こちらに近づく。
「でも彼女、人の悪意を信じていたんだね」
また一歩、近づく。
「だから、勝負しようって、言ってきたんだよ」
両手になにかを持つかのように、大きく広げる。
「お前の信じる良心と、私の信じる悪意。 どちらが勝つか、ってね」
兄は寂しい笑いを浮かべる。
私の瞳からは、涙が止まらなくなっていた。
「ま、結果はご覧の通り! 見事に負けちゃった訳だけど」
くるりと私に背を向けて、窓の外を見る。
「そんな、ばかげてる」
絞り出すように言った。
「信じたかったんだよ? 全部、ぜーんぶ!」
兄の声が少し震える。
「でも、そうはならなかった」
互いの呼吸が荒くなる。
「信じたかった人はみんな、僕を裏切っていった」
兄はその激情を隠すことなく言った。
「大好きな弟にも、信じてもらえなかった!」
兄は肩をがっくりと落とし、床に倒れこむ。
「なんだかね、疲れちゃったんだよ、愁ちゃん」
「ごめんなさい、おれ、ゆうちゃんにひどいことを」
私はまるで子供のように、泣きじゃくる。
「愁ちゃん、お願いがあるの」
「…なんでも、できることなら」
贖罪ができるなら、なんでもしよう。
そう思って発した言葉だった。
「なら、もう終わらせてよ、愁ちゃんの手で」
「どういうこと…?」
窓を指さす兄。
意味は痛いほどわかっていた。
階下を覗き込む兄に、呟くように言った。
「…俺、優ちゃんのこと好きだった、かも」
「なにそれ、どういう意味?」
兄は乾いた声でクスクスと笑う。
「いや、なんつーか。 よくわかんないけど」
「どんな意味にせよ、これから突き落とす相手にかけるべき言葉ではないね」
兄はこちらを向いて、無言で頷いた。
「次に生まれてくるときは、兄弟じゃないといいな」
最後に聞いた兄の言葉は、未だに私の耳に残り続けている。
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