天神さまの云ふとおり

mono黒

第1話 今宵が年貢の納め時?



「さあさあ!買っておくれよ見ておくれ!近頃世間を騒がす義賊様、大泥棒ベニ天こと紅天神、今度の標的は将軍様の御近習水野鷹司様の屋敷だよ!蔵から盗んだのは二千両!撒かれた金も二千両!天に駆け上がったか地に潜ったか、どこへ消えたか紅天神!この先はこの瓦版にバッチリ書いてあるよ!さあ買った買ったー!」


晴天の空、雲ひとつない青空に、その日義賊紅天神の瓦版が派手に舞い上がった。




◆◆◆




暮れ六つの鐘が鳴る頃、江戸の町には宛ら街中の明かりを集めたような場所が突如として幻のように浮かび上がる。

明かりの灯った大灯籠が照らす赤い大門は色里へと誘い込むようにその口をぽっかりと開けて男達を待ち構え、ひとたびそこに吸い込まれれば今度は引き手茶屋の軒下にズラリと並ぶ赤提灯が大通りを妖しげに埋め尽くして客を奥へ、更に奥へと誘い込む。

木戸門を潜り抜けると居並ぶ遊郭の張り店からは遊女になってまだ間もない新造たちの奏でる太鼓や三味線が賑々しく流れ出し、漸く美しく着飾った遊女達が張り店の中へと姿を現すと冷やかしの男たちがこぞって格子の前へと詰め掛け品定めに興じるのだった。

その壮観な眺めは見るものを早くも極楽浄土へと誘うようだ。

店の前では牛太郎と呼ばれる男衆が下足の木札をジャラジャラ打ち鳴らして「おあんない!おあんない!」と行き交う殿方を店の中へと誘い込む。

そんな中、体格の良い朗らかな面差しの美丈夫が一人ふらりと大暖簾を手で跳ね除け店へと入って来た。

歳の頃は三十路手前の男盛り。身なりの良さから位の高い御武家の若様だろうが、中間ちゅうげんの一人もつけずの登楼だった。

すかさず店の奥から出て来た楼主の内儀が頭を下げて出迎えた。


「いらっしゃいまし!どの娘をご指名で…、おや、源之助様ではありませんか。この所とんとお見限りで、今日もお供の方々はいらっしゃらずで?」


内儀の口ぶりからはこの源之助なる侍が度々この白妙屋に通う馴染み客であることが伺える。

源之助は直参旗本の三男坊ながら、ぞろぞろお供を連れ歩くのは野暮だと思っている帰来がある。こうして一人気ままに出歩くのが武家嫌いで町人気質を良しとするこの男の性には合っていた。


「すまんな、ちいとばかし身辺が忙しくてな」


そう言うと、源之助は店の若い衆が恭しく差し出した両手に腰から抜いた黒光の大小を預けた。


「今晩も床急ぎで御ざんすか?」


そう言いながら、張り店の方へと内儀が目くばせすると遊女達が俄に活気付く。

床急ぎとは宴会を抜きにして遊女と床入りだけして帰る客のことだが、源之助は呑み食いに金を使わぬケチな客と思われているのも本人良く分かっていた。


「俺は貧乏旗本の三男坊だからな。厄介者の穀潰しの身分故、兄にこれでも遠慮しているのだよ。いつもいつも床急ぎですまないが、今宵ばかりは派手に遊ぶつもりでやって来たのだ」


源之助がそう言うには訳がある。

心に決めた決意を秘めつつ源之助は懐の中で手を弄らせ紫の小さな布に包まれたものをぞんざいに女将の手のひらに放り投げた。

黄金色のものが布からまろび出ると女将の目が輝いた。それはズシリと見た目以上に重かった。


「それで良い娘を何人か見繕ってくれ。鳴り物と舞い方と酒に肴、今宵は俺の祝いなのだ」

「おやまあ、どんな御めでたいお話で御ざんすか?」


現ナマの威力は凄いものがあった。さあさあと若い衆が二階へと促し、源之助の後ろを御引きずりの裾を忙しく舞わせて着いてくる内儀の声は一段高くなった。


源之助が廓遊びを覚えたのは今から十年も前のこと、家に出入りの呉服屋に連れられて初めて大門をくぐり抜けた。

まだ十八歳、前髪を落としたばかりの世間知らずの頃だった。

それまで見たこともないような華やかで艶やかで良い匂いのする遊女達にいっぺんに魅了され、最初は遊興の匙加減も分からずに、随分と散財を重ね、兄にこっぴどく叱られた。

さりとて一旦極楽の甘露を含んだ源之助はすっぱり廓通いを止めることもできず、兄の目を気にしながらも派手な宴会は避け、床入りだけを目当てに足繁く日頃の憂さ晴らしをしに登楼して来るのであった。

そうこうしているうちにすっかりここいら界隈で知られた粋人になっていた。

粋人とは言ったもののはっきり言うと変わり者と言う意味でだった。

粋人扱いされるのも常連だからと言う理由からだけでは無い。

源之助は妙に玄人慣れした遊びを好んでいたからだ。

値の張る花魁や太夫ではなく、馴染みも持たず、まだおぼこい新造を好んで侍らせ、まだ自分の部屋を持てない彼女たちと床を共にする時には、廻し部屋といって、誰とも知らぬ他の客と衝立一つ隔た相部屋での床入りを好むのだった。

隣の衝立の向こうから漏れ聞こえる他人の房事の声や、囁かれる仮初の睦言や、切なげに漏らす女の艶声にたまらなく源之助は唆られる。

例えその夜遊女に袖にされたとしても源之助にとってそれはそれで楽しい廓遊びの延長上にある。

永守源之助、太客には違いないが金の成る木というわけでも無く、どうやら家ばかりで無く廓でも厄介者と言うのは変わらぬようだった。

そんな男が打って変わって今夜は呑めや歌えやと大店おおだなの若旦那衆の如き大盤振舞いだった。

今宵、源之助の隣には、巷で今人気の小桜太夫がシナを作って吸い付け煙草を差し出した。


「源さま、今宵はおめでたい事がありんしたとか、どんなめでたい事でありんしょう?」

「うん?…実はな、この穀潰しの俺が、番頭ばんがしら加納清右衛門殿のご息女の入婿になるのだ」

「まあ、それはほんに御めでたい!」


太夫の言葉に歓声が上がったが、源之助はまあ待てとそれを制してこう言った。


「皆も聞け、そんな訳で廓遊びも今夜が年貢の納め時。最後にぱあっと派手に使ってやろうかとな、ほれ皆も存分に呑め!」


その声に落胆の声と歓声とが入り混じり、一層賑々しくなる座敷。散々呑んで騒いだ果てに、頃合いを見計らって「太夫、そろそろ御支度を」と今宵の共寝と定めた小桜太夫を遣り手がそっと座敷に呼びに来た。


「また後で…お待ちくんなんし、源さま」


そう言って寝支度をしに小桜太夫は廊下へ消えた。

これにて宴会はお開きになり、今宵源之助はいつもの廻し部屋では無く、太夫の部屋に通された。

白粉の匂いのする太夫の部屋には螺鈿の施された鏡台や、役者張りの派手な打ち掛けが衣桁に掛けてあったりと、売れっ子太夫だけの事はある贅沢な私室だった。

源之助は光沢のある鳳凰柄の絹布団に寝転んで、キセルを燻らせながらぼんやりと天井を眺めていた。

嵐の後の静けさとでも言うのか、あれほど賑やかだったのが今はしんと静まり返った部屋でなかなか来ない遊女を一人待っていた。


「あーあ、これで一巻の終わりと思うと名残惜しくてた堪らぬな。明日からは将軍様と加納家に恥じぬ様、せいぜい襟を正して生きねばな…。これで良いのだ。漸く肩身の狭い兄の御厄介では無くなるのではないか」


そう呟いたものの、だがしかし、と思う。

入婿になったとて、永守の家から加納の家になるだけで、旗本と言う身分は変わらない。三男坊からは抜け出せたが役職もないのにただ幕府から頂く禄を食むだけのつまらぬ人生は少しも変わらぬ。

この当て所ない煙草の煙の様に自由にフワフワと生きられたなら…。

ぼんやりとそんな事を思っていると、何やら外が騒がしい。訝しく障子を開けて外を見ると、普段は色里には入っては来ないような大勢の捕り方が、呼子笛を吹きながら通りを走り回っているのが見えた。


「何事だ?」


源之助は障子の外へと身を乗り出した。



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