三話

優しい夢を見た。

太陽の日差しが漏れる木々の下。そこに穏やかな笑い声が響く。

ロイドは遠くで立っていた。後ろは闇。明るい世界はいつも俯瞰するだけの光景。

でも皆がロイドを呼んでいる。こちらにおいでと手を振ってくれている。

いつもならロイドは行かない。行ってもそこに居場所が無いのは身に沁みている。もう苦しいのは嫌だと足が竦む。

いきなり、ロイドの手を優しく握ってくる手があった。小さくて細いのにロイドの手をすっぽりと覆った。

その時に気付いた。いつの間にかロイドは子供になっていた。握ってくれた人の顔を見上げる。

彼女は笑っていた。嬉しそうに、楽しそうに笑ってロイドを引っ張っていく。

ーー違う。俺は知らない。彼女がこんな笑い方するのを。

知っているのは一度だけ、とても小さな微笑だけだ。あの時もともすれば見逃していた程の小さな変化。

彼女と木漏れ日の下まで歩いて行くと皆がロイドを温かく迎えてくれた。

それを嬉しいと思う反面、ああこれは夢だなと実感すると途端に周りの景色が霧散し、ロイド自身の輪郭も淡くぼやけて溶けていった。






シュンシュンと鳴っているのは恐らくストーブに掛けた薬缶からだろう。昨日から聞き慣れた音だ。

覚醒未満の頭で夢の内容を思い出そうとしたが、上手く思い出せなかった。ただ、胸が締め付けられる感覚だけが鮮明に残っていた。

珍しい、と思う。眠りが浅いロイドにとって夢は頻繁に見るほうだが、いつも心にあるのは寂莫だけだった。それ以外の感情など殆ど動かされたことはない。

何とか思い出そうとして身じろぎすると、肩からズルリと何かが落ちた。確認すると毛布が膝の上で固まっている。

ロイドは腕組みをして椅子に座っていた。レティを待っていたらいつの間にか眠ってしまったらしい。

夢から彼女のことを考える。途端に昨夜のことを思い出してきた。

昨日レティが寝る予定だというベッドの上の荷物を代わりに片付けることになり、ようやく終わる頃になって彼女が居ないことに気付いた。

あの時、ロイドが本を呼んでいると急に彼女が出掛ける、と言っていた。寝床が一つしかなかったことを完全に忘れていたロイドはかなり狼狽していて、慌てて片付けを引き受けたのは良いが彼女の言葉も頭から抜けていたし、いつの間にか気配が消えているのにも分からなかった。

間抜け過ぎる己にどうにかなりそうだし、屋根の一つ下で年頃の女性と暮らすのも実際どうなのだ。……誘ってくれたのはレティだが。

レティとしばらく過ごすと考えると顔がどんどん変化していくのが自覚できた。昨日から何度目だろう。普段はなるべく冷静でいようと心掛けているのに、たった一日で何回心を乱されたか。まだまだ修練が足りないと思うべきか。額に手をやって項垂れそうになる。

気を取り直して周囲を確認する。

窓を見れば外は薄ぼんやりと明るくなっていた。夜明け頃だろう。普段、ロイドの目が覚める時間帯だ。

テーブルの上には読み掛けの本。そして水差しとコップが置かれていた。

水とコップは見覚えがない。レティが用意してくれたのだろうか。

と、ガチャリと扉が開く音がした。目を向けると桶を持った彼女が入ってくる。


「おはよう御座います。……すみません、起こしてしまいましたか?」

「……いや、さっき起きたところだ」

「そうですか。もう少し待って下さい。今から朝食の準備をしますから」


桶を置いて薬缶と鍋を取り替えて温め始めていく。パタパタと動くレティは昨日とは違う着古した質素なワンピースを着ていた。足首近くまである裾が動きに合わせてヒラヒラと揺れている。


「ロイさん、ちゃんとベッドで寝ないと風邪を引いてしまいますよ」

「……そういうお前はちゃんと休んだのか?」

「ちゃんと休みました。片付けてくれてありがとう御座います」

「あれくらいなら構わない」というか、本当に片付けしかしていない。


寝床を整えようにも彼女が居ないから椅子に座って待つことにした。手慰みに本の続きを読もうかとも考えたがレティのことが気がかりで読む気にもならなかった。ストーブの薪を追加するか節約するか考えていたのが昨日の最後の記憶だ。

その時点で既に日は変わっていたはずである。レティがいつ頃帰ってきたのかは知らないが、本当に休んだのか疑いたくなる。

考え事をしていると目の前に皿が置かれた。昨夜と同じメニューでスープとパンが載っている。少しだけ違うのは追加で味付けがなされていなさそうなサラダが出てきたことだろうか。

昨日の朝と違いテーブルの上には二人分の食事が用意されている。どうやらレティもちゃんと摂るみたいだ。

レティがお茶の準備をしている間に膝に載ったままの毛布を畳む。取り敢えず背もたれに掛けようと後ろを確認すると掛けっぱなしだったマントは何処にもなかった。


「マントは?」

「一応、クローゼットに仕舞ってあります。……使うのですか?」

「いや、ただの確認だ」


よく見れば流し台に放ったらかしにしていた紙袋も消えている。レティが片付けたのだろうが一体いつ眠ったのだろう。

昨夜と同様二人して食事を始める。昨日作ったスープはロイドの皿の方にかなり多めに盛られていた。レティの深皿には少量しか入っていない。


「足りるのか?それで」

「え、十分ですよ。……もしかしてロイさん少ないですか?」

「大丈夫だ、問題ない」


うっかり少ないとか口走れば絶対に次から更に盛られそうだ。

食事を進めるレティを見遣る。袖から覗く手も襟から見える首筋もやはり細い。どう見ても痩せすぎだ。もっと栄養のある食事を多く摂れば肉も付きそうなものなのに。


「もう少し食えばいいのに」思わずボソッと呟く。

「だから十分足りていますよ」

「そういう意味で言ったんじゃない」


じゃあどういう意味だとレティがパンを頬張ったまま首を傾げて目だけで聞いてくる。

だけど、ロイドは無言でスープを口に運んで敢えて無視した。出会って数日で人様にあれこれ言う無神経にはなりたくない。もう少し近しい間柄になれば話は別だが。

レティはしばらく返事を待っていたみたいだが、やがて食事に戻った。二人して無言で食べていく。

と、今度の沈黙も短かった。


「そうです、ロイさん。食べ終わったら洗濯するので洗って欲しい服があれば出して下さい」


昨日から一体何回目か。レティの問題発言にロイドはまた凍りついた。

服を洗う?誰が?レティが?

それは何の羞恥プレイだ。男性の服を年頃の女性に洗わせるなど。


「……いや、いい」

「でも昨日から着ているから汚れているでしょ?……あ、お着替えが」

「着替えならある」っと言って気付いた。何で馬鹿正直に答えてしまったのか。


「あるんですね。じゃあ出してくれたらこちらで……」

「構わない。何なら俺が代わりに洗た」洗濯をするのか?レティの服を?


盛大な墓穴を掘り進めている。何か上手い言い訳がないかと頭を回転させるが、全然浮かんでこない。


「……ロイさんが自分でされるのですか?」

「そ、そうだな。自分の分は自分でやっておく」


レティの勘違いに全力で乗っかった。助かったと、彼女に気付かれないように安堵の息を吐いた。

実はレティも無意識で恥ずかしがって出した提案だということにお互い知る由もなく、こうして食事は穏やかに進んでいった。

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