第21話 カルテ

 その日の放課後、ドーナツ店で瑠璃と彩葉は翠を待った。


『いらっしゃいませ!』


 あ、翠だ。彩葉は立ち上がり手を挙げた。それを認めた翠が警戒しながらやって来る。言葉が出ない。瑠璃が彩葉のお尻を叩いた。彩葉は翠に向かって頭を下げた。


「ごめん翠。私が悪かった。本当にごめんなさい」


 翠は驚いた表情で、彩葉を見て、そして座っている瑠璃を見て息を呑んだ。


「イロハ、はよ座って。もういいだろ高倉さんも。友情復活ってことで」


翠は彩葉の肩をポンポンと叩き、瑠璃の方を向いた。


「えっと、確か…」

「貝原朱雀の姉だよ。貝原瑠璃。今はイロハのピアノを見てる」

「え?マジ? ホント?彩葉」

「うん、本当。朱雀先生の申し送りみたい」


 ちょっと涙ぐみながら彩葉は返した。翠の掌は温かかったのだ。翠はかしこまった。


「あの、朱雀さんの具合はどうでしょう?」

「ああ、心配要らないよ。ちゃんと病院に入ってるし万全の看護体制だから」

「良かった…」


「そっちの話はいいからさ、頼みがあるんだ」

「はい?」

「高倉さん、大学病院の外科で実習してるんだって?」

「はい」

「昔のカルテって見られる?」

「さあ、実習生だから…、聞かないと判らないです」

「そこを何とかして探ってくんない?イロハが1歳の時の手術の情報」

「はい?」


 瑠璃は彩葉の右腕をぐっと引っ張った。そして勝手に袖を捲る。


「ほら、ここ」


翠が彩葉の前腕部をじっと見る。


「縫ってあるんだ。木の枝で切ったみたいで。その時の状況とか知りたいんだよ。コピー取るって訳にはいかないから書いてあること全部覚えて来て。もしかしたら朱雀の願望を叶えるネタになるかもだから」

「え?」

「あんたも賛同したんだろ。イロハに色を見せるって」


 翠の目は真ん丸くなった。


+++


 翠の実習は週に2日を4週間、次の実習は夜間勤務になっていた。看護科とは言え高校生が大して役に立つわけではないのだが、どんな事も若いうちに経験と言う学校の方針だった。夜、静まり返った病棟で、翠は外科病棟看護師の藤本万智(ふじもと まち)に尋ねた。万智は諸先輩たちの中でも飛びきり親切に接してくれる。なんでも彼女の娘さんも西谷高校に通っているとの事で、『お母さんみたいなものだから何でも聞いて』と言ってくれていた。


「あの、カルテってどんな事が書いてあるんですか?」

「カルテ?どうしたの?」

「いえ、普通の人が見ても判らないってネットに書いてあったから、どんなだろうって」

「ふうん、見た事なかったっけ?」

「はい」

「そうねえ、専門用語だったり、それがドイツ語だったり略号だったり、それに私が見る限りでは、ドクターって字が下手な人が多いんだよねえ。だから確かに見ても判らん」


 万智は笑った。


「へえ」

「見ないと判んないかな。ちょっとこっち来て」


 万智は翠をナースステーションに連れて来て、机の上のバインダを取り上げ、拡げる。


「ほら、こんな感じ」


そこには本当にミミズがのたくった様な字が書かれている。


「え? なんて書いてあるのかな…」

「判んないでしょ。個人情報だから誰でも判るのも具合悪いけど、私たちが見て判んないのも具合悪いよねえ」

「ですね…」


 翠の頭は高速回転している。彩葉が1歳の時のカルテがナースステーションにあるとは思えない。と言うか、そんな古いものをいつまでも取っておくのだろうか。


「この頃はさ、システムに入力するから基本的には読めるんだけど、いるのよねえコンピュータ嫌いのドクターが。そう言う人に限って字が読めない!」


 万智は拳で机を軽く叩く。チャーミングなお母さんだ。


「あの、カルテっていつまで取っておくものですか?」

「えっと5年だっけかな。でもウチはずっと保管してるよ。警察とかから問い合わせがあったりするからさ」

「そう言うのはこんな所には置いてないんですよね」

「そりゃそうよ。ここにあっても仕方ないし。でもね、古いカルテはみんなスキャンしてるから、ここでも見れるんだよ。実物はどこかの倉庫に預かってもらってるらしいよ。私たちは詳しく知らないけどね」

「へえ。ずっと前のもこんな書き方なんですか?」

「うーん。フォーマットは変わってるかな。書くべきことはあんまり変わってないし、どっちか言うと、今の方が書く事増えてる。見てみる?」

「はい。例えば…私が生まれた頃のってどんなだろう…って」

「ほお。えっと何年前だ?」

「例えば、16年前とか」

「そういう検索って出来たっけかな。えーっと」


 万智はマウスとキーボードを使ってパチパチやる。


「もしかして高倉さんのがあるのかな?」

「いえ、私はここには来たことないですけど、あ、そうだ。糸巻さん小さい頃ここで治療したって言ってたような」

「イトマキさん?友だち?」

「はい。西谷高校の同い年です」

「ふうん。イ・ト・マ・キ… ああ、イトマキイロハさんのこと?」

「そうです!いましたか?」

「うんあるね。古いなあ。怪我の治療だね。ほら」


 翠は内心躍り上がって喜んだ。親切な万智さんを嵌めているのは心苦しかったが、これで貝原さんとの約束に近づく。

翠は目を凝らした。何とか読める字だ。右前腕10針縫合。1歳の時か…。目の事は何も書いてないな。しかし、カルテの下の方までスクロールした翠は、参考事項として記された文字に目が釘付けになった。


『現地(湯立渓谷)にて貝原病院(東京国分寺)貝原医師が処置し搬送。処置内容:・・・・』


 貝原病院? 貝原医師?  ん?

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