私の天使、あるいは悪魔

飛鳥休暇

忘れられない人

 私の天使が私の顔を見て笑う。


 けがれというものがただの一つもないその表情に、私の心が幸福感で満たされる。


 私の腕に抱かれ、その小さな手を必死に伸ばし、私の頬に触れる。


 この世にこれほど柔らかく温かい物体が他にあるだろうか。


 私は彼の手に誘われるかのように彼の頬にキスをする。


 私の天使。あなたのためならこの命を投げうっても構わない。



 結婚してすぐに妊娠が発覚した。

 少しはゆっくりと新婚生活を送りたかったという思いもなくはなかったが、夫の勇次ゆうじがあまりにも喜んでくれるものだから、良かったのだと思うことにした。


 前に「この人しかいない」と信じて疑わなかった人と死別した後、不安定になっていた私をずっとそばで支えてくれたのが勇次だった。


「君の心にあの人が残っていてもいい。ただ君を愛させて欲しい。僕はそれでいい」と。


 私の手を優しく握り、何度も何度もそう言ってくれた。


 いつしか私の心にこびりついていた茶色く固いさびのようなものが、彼の言葉の温かさによって少しずつ剥がされていくような感覚があった。


 そうやってむき出しになった私の心を、勇次はいつまでも優しく覆ってくれたのだ。



 そしていま、私は幸せの絶頂にいる。

 いや、もしかしたらこれからも、これ以上の幸せを感じることがあるかもしれない。

 でもそれは更新していくだけの話で、いまの私には今現在が幸せの絶頂なのだ。


 優しい夫と愛おしい息子。


 今の私には他になにもいらない。

 ブランド物のバッグや化粧品、誰もが羨むタワーマンション。


 そういった高価なものよりも価値のあるものに囲まれているのだ。



 輝希てるきと名付けられた私の天使は私と夫の愛情をいっぱいに浴びてすくすくと育った。


 面白かったのは彼が初めてしゃべった言葉だ。


 「まま」や「ぱぱ」ではなく「はじゅき」と言ったのだ。


 私の名前、葉月はづき


 夫の勇次は「おれがいつも呼んでるから名前を覚えたのかな」なんて笑っていた。


 それからも輝希は私のことを「はじゅき」と呼んだ。

 はっきりとしゃべれるようになってからは「はづき」としっかり発音していた。


 ここまでくると少し心配になった私たち夫婦は「私はママよ」「僕はパパだよ」と輝希に向かい何度も教え込んだ。


 しかし、その苦労もむなしく夫のことは「パパ」と呼ぶのだが、私のことは相変わらず「はづき」と呼ぶのだった。


「まぁ、なんだか友達みたいな親子でいいじゃないか」


 夫はついに諦めたようにそう言って笑った。



 輝希はいつまで経っても甘えん坊だった。


 保育園に入園出来るようになってから、それは顕著けんちょになっていった。


 毎朝毎朝、輝希は保育園に行くのを嫌がる。

 それも、泣きわめくわけではなく、まっすぐ私の目を見ながら「はづきと一緒にいる」「離れたくない」と落ち着いた口調で言うのだ。


 まったく、この子は将来プレイボーイになるわ。なんて心の中で微笑みながら、なんとかなだめながら園に送り届けるのだ。



 ある日、保育園の先生から呼び出しがあった。

 輝希について気になることがある、と。


 友達と上手くいっていないのだろうかなどと不安に思いながら、輝希を両親に預けて話を聞きにいく。


「あの、気になることって」


 園の職員室のような場所に案内されると、私は担任の保育士に向かい開口一番そう言った。


「実は、輝希くんなんですが――、あまり園に馴染んでいないようでして」


 あぁ、やっぱりそうなのかと私は少し憂鬱な気分になる。


「今までも、人見知りで友達の輪に入れない子はたくさんいました。――ですが、輝希くんは少し違うというか」


「――違う?」


 若い保育士の言葉に顔をしかめる。この女は何が言いたいのだろう。


「はい。人見知りの子でも私たちが根気よく声を掛けていくとみんなと一緒に遊ぶようになったりするんですが、輝希くんは、その……」


「なんですか? はっきり言って下さい」


「すごく、冷たい目で私たちを見てくるんです。あれはまるで。……そう、大人の男の人のような」


 馬鹿馬鹿しい。

 こいつらは自分たちが上手く指導出来ないことの言い訳を輝希になすりつけようとしているのだ。


「そうですか。では、今後はこちらの園には預けないことにします。お世話になりました」


「あ、近藤さん――」


 保育士の言葉を無視するように私は立ち上がり園を後にした。


 ふざけるな。私の愛する天使をまるで異分子かのように言いやがって。


 私の心にはふつふつと怒りが湧き上がってきた。こういうときは早く輝希の顔を見るに限る。

 あの天使の笑顔が、私の心のおりを洗い流してくれるだろうから。


 実家に帰ると、母親が玄関まで出迎えてくれた。


「おかえり。保育園、どうだった?」


 母親の問いかけに言葉のかわりに肩をすくめて気持ちを表した。


「輝希は?」


「大人しくしてたわよ。ほんとに手のかからない子よね」


 そうだ。輝希は言葉を発するようになってからこのかた、私の手を煩わせたことなどない。


 そんな輝希を悪く言うだなんて。


 私の心に園への怒りが再燃してしまう。


「てるきー」


「あ、はづき!」


 私の姿を確認すると、輝希は天使の笑顔を浮かべたまま駆け寄ってきた。


「いい子にしてた?」


「もちろんだよ、はづき」


 私の腰に両手を回し強くしがみついてくる輝希の頭をわしわしと撫でる。


 ふわりと香ってくる輝希の頭皮の匂いはまだ甘く、食べごろのフルーツのようにも思えた。


「明日から、保育園行かなくてもいいからね」


「ほんとに? はづきと一緒にいられる?」


「パパと相談して、ママのパートを減らすようにするね」


 そう言うと輝希は嬉しそうによりいっそうの力を込めて私のお腹に顔をうずめた。



 夫の勇次も退園を了承してくれた。


「葉月の仕事も、すぐにしないといけないってわけではないからね」


 その分おれが頑張るよとも言ってくれた。



 そうして輝希と日中一緒に過ごすことが増えると、輝希はよりいっそう甘えるようになってきた。


 私がどこに行くにも後ろをついてきて「離れたくない」と手を握ってくるのだ。


「はいはい。ほんとに輝希は甘えん坊ね」


 私も最愛の息子に求められるのが嬉しくて、ついつい甘やかしてしまう。


「はづきは僕のこと愛してる?」


 夜、寝かしつけるために添い寝をしているとき、そんなことを聞いてきた。

 テレビかなにかで覚えた言葉なのだろうか。

 年齢に似つかわしくないその言葉に思わず吹き出しそうになる。


「もちろん。世界で一番愛しているわ」


 そう言って優しく頭を撫でる。


「そうだよね。約束したもんね。僕も世界で一番はづきのことを愛しているよ」


 そう言うと輝希は私の手を取り、満足そうに目を閉じた。


 約束したという言葉が少し引っかかりつつも、私もその手の温もりに引っ張られるように、いつしか眠りについていた。




 小学校に上がっても、輝希の甘えたは治らなかった。


 いつまで経っても一人では寝られず、私に添い寝を求めてきた。


 隣で寝ていると、私のパジャマのボタンを外して私の胸をまさぐってくる。


「こら。そろそろおっぱいは卒業しないといけないわよ」


 私がからかうようにそう言うと、輝希はへへへと笑いながら、それでも胸を揉みしだいてくる。


 そしていつしか、輝希の手つきに違和感を持つようになってきた。


 それは子供が母親のおっぱいを求めるようなものではなく、なんというか――前戯にも似た。


 輝希の指が私の乳首をつまんだ瞬間、思わず「んっ」と声が漏れた。


 そんな自分が恥ずかしくなって無意識に輝希の手を振りほどく。


 輝希はそんな私を見て楽しそうに笑みを浮かべ「もう少しだよ」とひそひそ話をする声色で私の耳元で囁いた。


 私は驚いて輝希の顔を見返すが、彼は何事もなかったかのように目をつぶって眠りについていた。




「あの子は普通とは違うかもしれない」


 そう夫の勇次に告げたのは輝希を寝かしつけたあとだった。


「違うって、なにが?」


 きょとんとした顔をして私の言葉を繰り返す勇次。


「なんていうか、……なんていうんだろ」


 上手く言葉に表せない私を見て、勇次はなおさらいぶかし気な表情を見せる。


「葉月は疲れてるんだよきっと」


 そう言って立ち上がると、座っている私の背後から覆いかぶさるように抱きしめてくる。


「君に育児をまかせっきりで悪かったね」


 勇次が私の頬にキスをしてくる。私も応えるように勇次の首筋を撫で、誘うように口づけをした。




 翌日、輝希と二人で夕食を食べているときのことだ。

 勇次は十時頃にならないと帰ってこないので、夕食はいつも二人で食べる。


「昨日、勇次と何を話してたの?」


 ふいに、輝希の口からそんな言葉が吐かれた。

 突然のことに私は理解が追い付かずお味噌汁のお椀を持ったまま固まってしまった。


「輝希いまなんて?」


「昨日勇次と何を話してたのって聞いたんだよ」


 輝希の目には確かに静かな怒りが宿っていた。


「ぱ、パパのことを勇次なんて呼んじゃだめでしょ?」


「何がパパだよ。おれの葉月を奪いやがって。昨日、抱かれたんだろ」


 輝希がわざとらしく音を立てて箸をテーブルに叩きつけた。


「――輝希?」


「まだ分からない? 葉月。――おれは達樹たつきだよ」


 ヒャッと息が止まる。


 ――達樹。


 その名前は私の心をいともたやすく鷲掴みにする。


「輝希、どこでその名前を――」


「どこでもなにもおれがそうだって言ってるじゃないか」


 輝希の顔がどんどん大人のように変化していくような気がした。

 それはかつての彼の面影があって。


「そ、そんなこと」


「君と初めて会ったのは大学での合コンだったよね」


 混乱する私を横目に輝希はすらすらと話し始める。


「酒の弱かった周りの連中が潰れていく中、比較的強かったおれたちは自然と二人っきりで話し出した」


「……いや」


「意気投合したおれたちはデートの約束をしたよね。おれのバイクに乗って夜景のきれいな山までツーリングをした」


「……お願い」


「君が綺麗な夜景だと言ったのに、おれが『この夜景は残業で出来ている』なんてムードぶち壊しなことを言って」


「お願い、やめて!」


 私が持っていた味噌汁のお椀が床に落ちて二度ほど跳ねた。


「……分かってくれたよね? おれが達樹だって」


 私は胸を抑えて必死に呼吸を整える。


 ――どうして? なんで?


 頭がぐちゃぐちゃに掻きまわされて、出てくる言葉は「どうして?」と「なんで?」だけ。


「おれがバイクで事故った時、頭に浮かんだのは君のことだけだった。君を残して死んでいくことだけがおれの未練だった。信じてもいない神様に必死にお願いしたよ。頼むから君のそばにいさせてくれって」


 気が付くと輝希――達樹が立ち上がって私の頭を撫でていた。


「するとどうだ。目が覚めると君の顔が目の前にあった。あぁ、良かった、助かったんだってその時は思ったんだ。だけど違った。おれは――君の子供として生まれ変わったんだ」


「あぁ、……そんなことって」


 気が付けば頭を搔きむしって泣いていた。混乱した頭の中のどこかに、達樹とまた会えた喜びが潜んでいて、それに気付くまいと必死で頭を掻きむしる。


「葉月、泣かないで。もう離れないから。おれがずっとそばにいるから」


 まだ十歳の達樹の身体が、大人の熱を持って私の身体を抱きしめる。


「これからはずっとそばにいる。一生、離さないから」


 大丈夫、大丈夫、と私の頭を優しく撫でてくる。


 この感覚には覚えがあった。


 あれは実家で飼っていた愛犬が亡くなった時だ。


 悲しみにくれ、泣き止まない私の頭を、達樹は一晩中撫でてくれた。


 蓋をしていたはずの達樹との思い出が、せきを切ったかのように溢れ出してくる。


「あぁ、達樹。……寂しかった。悲しかった」


 私は達樹の身体を抱きしめる。それは我が子の身体であったが、いまの私にとっては別の愛しい人のものだった。


「ごめんね。葉月。もう大丈夫。ここにいるから」


 達樹の声も震えている。


 それからしばらく、存在を確かめ合うかのように二人で抱き合い、涙を流した。



 ******



「おい、輝希。中学生にもなったんだからいい加減乳離れしないとダメだぞ」


 大型ショッピングセンターの中で、夫がからかうような声を出す。


「いいんだよ。男はみんなマザコンなんだから」


 私の手を握る輝希が胸を張るように言い返す。


「ねぇ、葉月」


 輝希が、――達樹が私の顔を覗き込むように笑ってみせる。


「そうねぇ」


 私も困ったような顔をして、それから微かに笑い返す。


 ――幸せ者だ。


 私は素直にそう思う。


 愛する人に囲まれて、毎日を過ごすことが出来ている。


 愛する夫と、――そして。


 私は夫に気づかれないように、握った手に力を込める。


 それに気付いた彼が応えるように強く握り返してくる。




 私の天使、――あるいは悪魔が。




【私の天使、あるいは悪魔――完】

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私の天使、あるいは悪魔 飛鳥休暇 @asuka-kyuka

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