ー衝ー「Grain Moon.」
渚に「写真を教える」と言う大義名分は出来た。実に素晴らしいことなのだが、中々思うようにはならない。こちらから「また写真を教えようか?」とセールスするわけにはいかないのだ。今思えば、「教える」のではなく、「〇〇ってところの風景がいいって聞くから、写真でも撮りに行かない?」と誘う手もあった。当時の僕はそこまで頭が回らなかった。相変わらず頭の中は堂々巡りだ。僕は渚が「好き」だが、渚は僕のことを「好き」だろうか?あの「喫煙所での出会いと面会」は記憶のかなたに追いやられ、僕は街中でのデートの記憶ばかり掘り返す。最初の吉野家事件で終わっていて当たり前だった。でも渚は「次はもっといい店で」と、希望を僕に与えてくれた。渚は「僕のことが好き」だから、多少の失点は赦してくれているのかも知れない。そしてここで嫌なことを思い出す。初めてのデートの日。渚は「この後にも男と会う約束があるから」と、早々にデートを打ち切った。その「男」こそが本命ではあるまいか?いやしかし、2回目も3回目も、今日の4回目のデートでも渚は上機嫌だった。しかも、僕の得意とする「写真」の話まで振ってきた。如何な初心者用のカメラとは言え、セットで買えば7~8万円はするだろう。コレは渚の趣味が増えたと考えた方がいいかも知れないが・・・
僕にはどうしたらいいかが分からない。
7月最後のデートが終わり、8月に入った。渚は相変わらずの気紛れメールで僕を翻弄した。1週間もメールが来ないこともあれば、立て続けに2通3通のメールが来ることもあった。僕も、普段はスマホを持ち歩かないので、返信は受信の翌日になったりしていた。メールの内容は他愛ないもので、テレビ番組の話とか、ちゃんとご飯食べてるだとか。心配してくれているのはありがたいが、これも僕を悩ませるわけだ。渚との繋がりはメールと直電だけである。デートに誘うなら、先ずはメールでご意見伺いしないとならない。そして僕には「誘う口実」が無い。相手が普通の女の子なら簡単に誘えるのだ。「僕のハムスターを見に来ないか?」ぐらいの理由で。または、「動物園に大アリクイを観に行かない?」でもいい。いっそのこと、「飯でも食おうよ」でもいいのだ。しかし渚は僕に緊張感を強いる。あの美しさは規格外なのだ。繰り返すようだが、例えば芸能人になら「渚よりも綺麗な人」はいる。ただ、芸能人は容姿も才能のうちなので、磨くことに余念がない。そう言えば、僕の大好きな倉木麻衣にも、プライベートな男友達がいるんだよなぁと思えば、別の意味で悶々とする。一般人であんなに美しい人を、僕は知らない。顔立ちも整っているのだが、何よりもその「瞳の強さ」に僕は魅かれているのだ。長いまつ毛も、その瞳の美しさを際立たせていた。あのまつ毛にならマッチ棒が4本は乗るだろう。僕は渚のことを考えながら、仕事に精を出した。女の子との付き合いで「金が邪魔になることは無い」のだから当たり前だ。幸い、警備員の仕事では現場に恵まれ、真夏の日差しに耐えながら水筒2本分のお茶やらスポーツドリンクを飲めばソレで稼ぎになった。当然だが、社長のところで夜勤をすればその分、僕のお小遣いは増えた。工場の夜勤の給料で、病院へに支払いをしてなお余るのだ。更に僕は生活を見直していた。余計な出費をしないようにしたのだ。食費を削減するために、晩酌を辞めた。前年の病気から、僕はアルコールを受け付けなくなったのだ。それでも未練たらしくビールを買ってはいた。350ml缶2本ぐらいなら飲めるのだから、「酒飲みとしての矜持」で、週に2~3回は飲んでいた。コレをピタリと辞めた。かかるのは酒代だけではないのだ。僕は「美味しいものを食べながら飲むビール」が好きなのであって、ビールさえあればいいと言うわけではない。酒肴を用意するとなれば、食費もかかる。夜勤の時は、日勤が注文する「仕出し弁当」を食べることが出来た。付き合い上、弁当を頼まない日があるのも都合が悪いので、社長が必ず注文していた。決して美味い弁当では無い。当然社長は食わないことが多い。僕が夜勤に入るようになってからは、何があってもその「社長の分」が休憩室の冷蔵庫に入っていた。コレは夏の間は無理なのだが・・・(食中毒が怖い)
ならば、と言うことで僕は弁当を作って行くことにした。夜勤のたびにコンビニで食い物を買うのは、無駄だと感じたからだ。1回当たり300円、400円と使えば、夜勤10日の約束なので、3千円以上が消えることになる。弁当を作ることは面倒では無かった。警備員の仕事でも弁当を作って持参していたからだ。「保冷剤」を開発した人に感謝していた。夏でも保冷バッグ+大量の保冷剤で、朝作った弁当が、昼休みにもまだ冷え冷えなのだ。警備員仲間には馬鹿にされていたが。
工場勤務の場合、弁当作りはかなり楽だ。出勤すれば冷蔵庫がある。電子レンジもあるのだから、弁当の「自由度」が違う。1回、休憩所の電子レンジで「ミートソース」(手作り)を温めて食べたら、翌朝出勤してきたパートさんに「臭いっ!もう、電子レンジでミートソースはやめてください」と叱られた。僕は貴女の「直属の上司」なんですが?
そう、僕は常勤ではないが一応管理職となった。肩書は主任である。コレを書いている今でも主任のままである。仕事はかなり増えたし、ほぼ常勤だが主任のまま。小さな工場では管理職など不要に近い。社長と工場長と主任で回せるのだ。あ、あの怖い「経理のおばさん」は大事だが。
そして8月も第2週に入ろうとしていた。ここで名案が浮かんだ。渚は病院勤めだが看護師ではない。当然、「お盆休み」もあるだろう。そこでだ、「渚は帰省するの?」と尋ねるのだ。「帰省する」と言われたら「その前後で会えない?」と言えばいいし、「帰省しない」と言われれば、もう完璧にデート出来るではないか。友達の少ない渚である。お盆休みが丸々空いていれば、どこかに僕の滑り込む余地はありそうだ。あの「本命?の男」さえ出てこなければ。いや、思い返せば、その「男」とダブルブッキングしたのは最初のデートだけで、以後は全く話にも出てきていない。僕と会っていない休日(の方が圧倒的に多い)に会っていなければ、の話だが。
早速メールをしてみた。「元気?」と。まだるっこしいが、僕は先ずこの挨拶から入るようにしている。どうせ返信が合っても2日後3日後だ。込み入った話をしても意味がない。しかし渚の返信は早かった。すぐに返信があった。「遅い。今何してるの?」である。連絡を待っていたように取れるが、過度な期待はしない。「お盆は暇?」とだけ返した。思えば「帰省するの?」と言う質問は渚の「プライベート」に踏み込むようで憚られた。「暇だよー。遊ぶ?」
不純異性交遊も「遊び」の範疇だろうか?
「勿論!いつなら会える?」と返した。僕は一貫して、今で言う「おじさん構文」を使わない。用件だけ伝えるようにしていたし、絵文字も一切使わない。渚の返事は「15日はどう?」であった。ちょうど休みである。いや、8月のシフトは教えてあった気もするので、渚なりに考えての日取りだろう。コレでデートの日は決まった。あとはデート内容だが、僕は若干姑息な手に出た。「カメラはどうする?」つまり、写真と言う分野なら僕は優位に立てるのだ。渚は「カメラ?当たり前じゃない。持っていく」とのこと。コレでフォト・デートも決定した。2回目だし、また街中をうろうろすればいいだろう。実は僕には「渚を連れて行きたい場所」がいくつかあって、いつかは連れて行くつもりだった。面白くもない場所だが、僕にとっては「大事な場所」だから。
順調に増えて行ってる「渚貯金」の後押しで、僕にはデートでの不安要素が無くなっていた。少なくともデートを断られるなんて事態にならなければの話だが、駅前に出来た大きな有名ホテルにだって、「ご休憩」で入れる。いや、あの手のホテルに「休憩」なんてあるのかは知らないが。宿泊はちょっと無理かな。ダブルなら大丈夫か。街中フォトデートなら全く問題は無い。どうせ飯を食ってお茶を飲むだけなので、財布には2万円を入れておいた。1万円札1枚と、5千円札と千円札。小銭入れには多少のコインが入っている。
当日は快晴で、これも僕の行いの良さの賜物だろう。土砂降りの日にデートしたような記憶もあるが、僕の勘違いだろう。駅まではバスを使う。家賃の安いアパートを探せば、自然と駅から離れるものだ。待ち合わせ時間の15分前には着くようにバスに乗る。渚は先に着けばベックスにいるし、僕が先に着けば特に問題は無い。渚が到着するまで「忠犬ハチ公の気持ち」になっていればいいだけだ。2時間でも3時間でも待つ。ところがこの日は違った。渚が改札目に立っているのだ。僕は腕時計を確認した。待ち合わせ時間15分前・・・
いつもならベックスにいるはずだ。そして僕は渚の怖さを再認識した。人通りが渚を「避けている」のだ。不思議なことで、渚は本当に「人を寄せない」のだ。お盆で人通りも少なめだが、それでも真っすぐ歩くにも苦労するような改札前である。僕は流石にヤバいと思い、小走りで走っていった。待たせてしまったのなら申し訳ない。
「渚っ!」
「あ、洋二さん」
「どうしたの?いつもならベックスにいるじゃん」
「えへ、駅前で待ち合わせとかしてみたかったの」
「それでここで立ってたの?」
「駄目?」
「暑いだろう。大丈夫だったか?」
「平気平気」
またロングTシャツにデニムである。これじゃ暑いだろうと思う。あと、肌を見たい。「で、どうする?」と僕が訊けば「ベックス」と言う。最初からベックスにいればいいのに。二人で連れ立ってベックスに入る。注文カウンター横の設置された「お冷の給水器」からグラスになみなみと注いだお冷をその場で一気飲みする渚。なんだ、この子は。
落ち着いたようで、つまりは相当暑かったのだなと思った。いつもの注文、ただ、この日は僕のアイスコーヒーと渚のアイスティーをトレイに乗せて運んだ。勿論、僕が運んだ。亭主関白過ぎるが、コレが僕のポリシーだ。お冷を一気飲みした効果が出たのだろう。渚はのんびりとストローでアイスティをかき回している。僕はグラスを持って2口ほど飲んだ。
「今日はどこ行く?」
と渚。
「あんまり遠くにも行けないし、街中スナップの続きでいいかな?」
「うん。色々教えてね」
「あいよ」
「洋二さんのカメラの先についてるソレ、かっこいいね」
レンズフードのことを言っているのだろう。僕のレンズには「花形フード」と言う、上下と左右で深さの違う遮光フードが付けてある。特に意味のあるモノではない。イマドキのレンズは多少の逆光でも描写が落ちたりしない。
「そお?なんなら買いに行くか」
「売ってるの、このレンズのヤツ」
「売ってるはず。大通りにヨドバシがあるから、そこで買おうか?」
「うんっ!」
コレで予定は決まった。ヨドバシで買い物をして、そのままフォトデートだ。とは言え、渚の腰が重い。外の暑さに脅威を感じているのだろう。この街にはアーケードは無い。外に出れば直射日光をマトモに浴びるのだ。前回はまだ夏の始まりだったからまだしも、今日は炎暑と言ってもいいほどだ。珍しくこの場で「次のデートの約束」までした。8月の終わりにまたフォトデートしようと。次回はどこか遠くに行こうかと、僕は内心で「目的地」を探したが、相応しい場所が見つからなかった。渚はこの街にも住んでいたと言うので、大抵の場所は知っている。日帰りできる場所で「写真撮影に向いた場所」に心当たりがない。ならば、渚も知ってるこの街で写真を撮ると言うのも悪くは無いだろう。この街と言っても、市全域まで広げれば、それなりにフォトジェニックな場所もある。
ヨドバシで見つけたのはただの円筒型のフードで、渚の言う「カッコいいもの」では無かった。がっかりしている渚を見ていると、こっちまで心が痛む。そう言えば、ニコン製のフードで使えるものがあったような気がする。合わせてもらったが、口径が合わない。僕は2階の「カメラ用品売り場」に行くことにした。サードパーティー製のフードならあるかも知れない。白いパンチングメタルの展示品にちょうどいいのがあった。これなら大丈夫だろう。念のために店員さんに確認したら大丈夫ですと言う。その場で購入した。渚があの大きなショルダーバッグをゴソゴソと探り始めたので手で制した。このくらいなら払うよと言う意味だ。実際、千円にも満たないモノだった。
渚はそのレンズフードをその場で装着して「お揃い~」と嬉しそうだし、僕もその言葉を聞いて嬉しかった。大きさこそ違うカメラだが、見た目は近くなった。
街中に出てスナップ写真を撮る。これだけのデートだけど心は弾む。暑さも気にならないが、渚の活動限界はちょっと短めだ。長袖だし。
1時間半ほどだろうか?渚に「僕が見つけた被写体」とか、被写体の見つけ方などを教えていたら、渚が空を見上げて「雨の匂いがする」と言う。
そう言えば雲が増えてきて、西の方には入道雲。しかし降りそうには思えなかった。
30分後、土砂降り。
僕は「雨の匂い」が大好きだ。熱いアスファルトから立ち上る埃の匂い、植え込みからは土の匂いもする。近くに大きな樹があれば、青葉から青臭い匂いもする。雨音も好きだ。お盆だと言うこともあって、個人商店の多くはシャッターを下ろしている。僕たちはそんな店先の軒先の下に駆け込んで雨宿りをしていた。雨の匂いを嗅ぎ、雨音に安らぎを覚えつつ、急に気になった。
「あ、渚。カメラは大丈夫?」
僕は渚が首からぶら下げたカメラを見ようとして、彼女の胸のちょっと下に顔を近づけてしまった。大失敗だった。
雨の匂いを嗅ぐモードに入っていた僕は、渚の匂いまで嗅いでしまった・・・
ソレはちょっと濡れたTシャツの生地から匂い立つ若い女の子の甘い匂いと汗の匂い。そして「女の匂い」だった。
渚はそんな僕に気づいていないようで、バッグからタオルハンカチを取り出して、濡れたカメラをざっと拭きながら「この雨、すぐに上がるよ」と言った。
僕はもう渚を本気で愛し始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます