望、7月は「Buckmoon」
暑い夏の気配がする。梅雨明けは平年並みだそうだが、既に晴れる日が多くなってきた。晴れると、日差しは肌を焼くような、そんな日々を送る。夜勤は割と気楽だ。家を出る時は涼しくなっているし、明けて帰る時間は09:00なのでやはり涼しい。工場勤務でカッコつけても仕方が無いので、サンダル履きにジーンズ、Tシャツ姿である。工場には作業着と安全靴を置いてある。作業服は綿ツナギである。シャツの裾が邪魔になることもある。滅多に「作業」をすることは無いが、トラブルが起これば2~3時間はかかることもあって、そんな時はスポットクーラーと呼ばれる「冷風扇よりは冷える送風機」を全開にして作業するので、長袖の綿ツナギが一番だ。僕は工場での勤務に「こだわり」があって、いつも使う工具は「私物」で買いそろえる。昔、オートバイに乗っていた頃からの癖だ。道具は愛してやればやるほど「応えてくれる」もの。ただ、流石に貧乏人の分際では、スナップオンとかKTCのツールを一気に買い揃えることは出来ない。僕は「今月はこのサイズのプラスとマイナスのドライバー」みたいに、少しずつ買い集めていた。ラチェットレンチを買う時は多少心が痛んだ。勿論、誇らしいと言う気持ちの方が大きかった。あまり使うわけではないが、僕の工具たちは充実していった。製造機の奥深く、目視出来ない場所に「ネジ」を落としても、ドライバーの先の感覚で拾える。コレが作業員の最低限のスキルだろう。ドライバーの先端のマグネットも大事だ。安いものはここから駄目になる。
そして毎日暇である。製造機の電源は入ったままなので、たまに面倒を見てやる。プラスチック製品の製造工場なので、製造機の中でプラスチックを熱して溶かす。この「溶けたプラスチック」が悪さをするのだ。たまに循環させる意味で「空打ち」する。ただそれだけの仕事。警報が鳴ると面倒だけれど。業務日誌にはその日やるべきことが書かれている。つまり、大抵は何も書かれていない。工場長からの労いの言葉とか、冷蔵庫におやつが入ってるなんて程度。たまに、日中は動かしていなかった製造機の起動をするように書かれているが、これも慣れればどうってことは無い。
冷え切った機械を起動させるのにかかる時間は2時間から3時間。製品の「金型」がしっかり温まっていないと「製造不良」が出ることが多いので、この「ウォーミングアップ」に時間がかかるのだ。とは言え、朝の6時からせっせと作業するのも面倒に感じる「不良アルバイト」なので、手抜き作業をすることもある。金型のウォーミングさえ出来ればいいので、サーモスタットにスイッチを取り付けて、オフにする。過熱すると警報が出るので回避するのだ。あとは簡単だ、プロパンガスのボンベに繋がれたガスバーナーで直接温めてやる。
「ヒャッハー!汚物は消毒だぜぇえっ!」と若干大きな声で呟きながらガスバーナーを使っていたら、後ろから「楽しそうだな」と、社長に声をかけられたことがある。社長は稀に早い時間から出てくるので注意が必要だった。
「暇で困るだろ?」と社長。確かに人間を最も苦しめるのは「退屈」である。寝ててもいい夜勤とは言え、寝るにも限度があるし。今の世ならスマホで遊んでいればいいのかもしれないが、当時はスマホアプリも「面白いサイト」も無かった。ほとんどのサイトが「スマホ版」をリリースしていないので、ネットサーフィンすると細かい文字で頭痛がしてくる。
「暇ならコレをやってくれ」と社長が手渡してきたのは「パートさんのシフト表」であった。あー、コレは絶対に苦労するヤツだ。僕は若い頃、パチンコ店でそこそこの「お偉いさん」だった時期があって、この「アルバイトのシフト表」は頭痛の種であった。希望日には入りたいが、希望しない日は絶対に休むと言う意志に溢れたアルバイトと、「この日は出てくれないと困る」と言う店側の都合。今度は工場勤務のパートさんのシフトなので、凄く厄介なのだ。パートさんは15人ほどいて、コレは多いぐらいなのだが、「控除内」と言う条件が付く。あまり稼ぐと被扶養者控除が受けられないのだが、「最大限に稼ぎたい」と言うわがままを言う。このあたりの阿吽の呼吸を社長から直伝された。
「年末になると、出てこられるパートさんがいなくなる。うまく調整しろ」と言うことらしい。
シフトを組むこと自体は難しくは無い。ちょっとしたパズルだと思えばいいだけ。中にはルーズなパートさんもいて、希望日提出期限を守らなかったりするが、そんなことも加味して仮組みしておく。大体3~4日で翌月分のシフトが完成するが、当時の僕は42歳。つまり、パートさんもそんな歳なので、「保育園の都合」とやらで突発休みすることもある。病欠だって当然あるので、そんな状況になった場合のバックアップも考えておく。15人を「控除内」で回すと、割とギリギリであった。
仕事は増えたが、元々「過分な給与」を貰っている。当然社長に恩義だってある。昼間は相変わらず週4~5日は警備員のアルバイトをして、夜勤もするダブルワークが成り立つのも社長のお陰だ。
「なあ安もっちゃん?」
「なんでしょう?」
「なんでしょうじゃねーよ、お前、女が出来ただろ」
「ナンノコトデショウカ?」
「とぼけんなよ、何ならアレか?金返すか?」
「すいません、好きな女が出来ました」
「パートさんの勤怠管理を任せるから主任になれ。手当を1万円付けるから」
僕は内心(1万円かよ・・・)と突っ込んだが、今は1万円でもありがたい。この工場での稼ぎを全て病院の返済に回してお釣りが出るのだ。警備員のバイトだけでは生活するのが精いっぱいだった。日勤は安いのだ。
「さっさと仕事を憶えろ。年内には生産管理も任せたい」
小さな工場なので、生産管理と言っても難しくは無い。材料の発注や生産数のバランスを取るとか、納期の管理ぐらいで、コレは今でもやっている。
「で、相手はどこの子だ?」
「病院でナンパされました」
「誰よ。同じアラフォーだろ、素直に吐け」
「それがさー、21歳の可愛い子」
「あーあ、犯罪だけは犯すなよ?」
「相手は大人だ。犯罪じゃねーよ」
「あの安もっちゃんがねぇ・・・女に狂うとは、おじさん悲しいよ」
「狂ってないし。まだたまに会うだけで、何も進んでいない」
「やってないの?」
「お前、あの子の前でソレを言えたら褒めてやるわ」
「ふーん。女のために仕事に燃えてるってか」
「いいじゃねーか、あっちから声をかけてきたんだから」
「どーせ、そのうちセミナーとか集会に誘われるんだぞ」
「そうなったらその時の話だ」
そう、僕はまだ渚への「警戒心」を解いていない。壺だのラッセンだの家庭用洗剤なんて事態も想定していた。若い頃、久しぶりに連絡してきた可愛い子はマルチの女だったし。その女はムカついたので、とことん尽くして、アッシーにメッシー君に徹して、抱いてからポイ捨てした。いや、もっと若い子に乗り換えた。渚がもしも「その手の女」だったら、若い頃のような情熱で「抱くまで勝負」を挑む気は無い。サッサとフェードアウトした方が賢い。
でも、そんな素振りが無いんだよなあ。僕は渚をどう扱っていいか分からずにいた。勿論、僕は渚が好きだ。あと半歩踏み込んでしまったら愛してしまうだろう。だからこそ、僕は警戒心を解かない。
僕の勘違いでしたなんてことになったらダメージは甚大である。
渚とのメールは不定期だった。1週間音信不通の時もあれば、毎日のようにやり取りすることもあった。ソレはまるで「会えない日」を埋める行為にも思えた。渚は必ず「そこにいる」のだ。
メールをリアルタイムで受けることは無かった。ふとチェックすると受診ボックスに「渚」の文字がある。僕もすぐに返事をしないで、1日ぐらいは放置したりしていた。メールには「既読」の文字は付かない。とは言え、やはり惚れた相手であるから、時間があればすぐに返信をした。渚もこんな関係が好きなのだろう。返信してもすぐには返ってこない。1~2日空けて返信が入る。内容はあまり憶えていない。「今日食べたご飯」とか、「安元さんは犬派?猫派?」みたいな、本当に他愛のない話題ばかり。その中に「今度はいつ会おうか?」と言う大事な話が混じるような・・・凄く安心できる関係だった。渚は仕事で忙しく、僕は僕で掛け持ちアルバイトをしてるので忙しい。会える日も限定されてくる。
月に2回3回会えれば上出来だろうと思えた。7月は夏の始まり。僕は「夏の渚」も見たかった。
「今度はいつ暇?」と僕。
「えーと、14日とかそのへん」
このやり取りだけで3日かかっている。それでも渚の希望日が分かればいい。「忙しくて今は無理」なんて返事を頂いてしまったら、僕の人生の1/100ぐらいは暗鬱とした日々に変わるだろう。
「15日なら休める。どう?」
「いいよ。じゃ、またお昼に駅で」
かなり素っ気ないやり取りだが、僕は渚にメールをする時はドキドキものである。デート費用はまだ大丈夫だ。前に社長から借りた3万円が残っている。僕は渚との「お付き合い」が始まった頃から、風俗遊びは控えていた。軽蔑されたくなかったからだ。黙っていれば分からないだろうと思われそうだが、僕が黙っているはずがない。確実にブログに書いてしまう。「ウケ」狙いだが、僕のブログの記事テーマには「風俗」があるのだから仕方がない。勿論、パチンコは控えるようになった。大抵は負ける。勝てば遊びに使ってしまうので、結局は赤字になるのだから。
雨が降っていた。もうすぐ梅雨明けだろうと思わせるような土砂降りだった。電車に遅れが出るほどでは無かったが、駅に着く頃にはジーンズの裾が濡れて重くなっていた。3回目のデート。今回はバスの遅れで待ち合わせ時間の10分前に着くのがやっとだった。これでもかなり安全を見込んで家を出たのだが。
ベックスでお茶でも飲みながら待っているのだろうと勝手に合点していたが、渚は改札の正面前で僕を待っていた。そして隣に誰かを連れていた。渚は僕を見つけると手を振ってきたが、いつもより控えめである。隣にいる人に遠慮しているのだろうか?遠目には女性に見えたが、母親には見えない。そもそも母親が出てくるのは2年後とかかなり先だろう。それも、付き合いが続いていればだが。
近づくと、その女性は渚と同年代に見えた。かなり美人だ。なんでこんなに「美人濃度が高い世界」に僕は紛れ込んだのだろう?
近くで見ると、渚よりも化粧が濃い。渚はナチュラルメイクなのだ。しかしこの女性はかなりがっつり化粧をしている。僕はすぐに感づいた。「夜の店の子」だと。渚が僕をその女性に紹介する。
「この人。安元さんって言うの」そう言うと、なんだか「ご意見伺い」みたいな雰囲気でその女性を見ている。
「あ、この子は親友で京子って言うの」と紹介してくれた。
「初めまして。安元と言います」僕も挨拶をする。
京子と呼ばれた女性は、遠慮の「え」の字も無しに僕をじろじろと見てくる。苦手なタイプだ。たっぷり30秒は観察した後、「いいんじゃないの?」と渚に告げた。何が「いい」のか分からないが、渚は心底ほっとしたように「良かったぁ」と答えていた。
「あ、渚。ちょっとあっち行っててくれる?」と、京子と呼ばれた女性は僕と二人きりになろうとした。渚はちょっと不満げな顔をしたが、ゆっくりと僕と京子の傍を離れた。
「用件だけ言うね。今度この店に来て。私は”あゆ”って名前で出てるから指名してね」
幕府の名刺を渡してきた。いい国作ろうキャバクラ幕府である。裏を見ると、出勤日が蛍光グリーンで塗られたカレンダーが印刷してあった。
「高い店じゃないから。1セットでいいから来てよ。待ってるから」
これだけを言うと、すぐに渚を呼び戻した。
「邪魔しちゃ悪いから帰るね」と言い残して雑踏に消えていった。
なんなんだ、あの女・・・
「びっくりさせた?京子がどうしても会いたいからって無理やり・・・」
「親友なんだろ、会わせてくれて嬉しいかも」
「ホントっ?良かった」
渚はまた嬉しそうにはにかんでいる。僕はこの子を守るためなら人類を敵に回してもいいと思った。勿論、ハンデは貰うけど。
「どうする?ベックスに入るかい?」
「私、スタバがいいっ!出来たんでしょ、この街にも」
「すいませんね、田舎町なもんでスタバも無かった」
「やだもー、私だってこの街が大好きになりました」
「前は嫌いだったの?」
「いいことも悪いことも沢山あったから忘れてた」
スタバまで、駅を出て少し歩く。数分だけれど。僕は駅を出てすぐに安いビニール傘をさした。いつもは僕の右半歩後ろにいる渚の気配がない。振り返ると、真顔で僕を見ていた。そしてなんだかため息の聴こえそうな雰囲気で自分の持ってる傘をさした。白黒で控えめに花の意匠を凝らした綺麗な傘だった。あのため息は「相合傘じゃないの?」と言う意志表示だったと言うのは僕の考え過ぎだろうか?
それよりも喫緊の課題は「スタバ」である。噂に聞くに、注文方法が複雑らしい。「アブラマシマシカラメニンニクマシ」みたいな感じだろうか?とりあえず、渚はスタバをよく知っているようなので、人柱にしよう。
傘を畳んで、薄いビニールの傘袋に入れる。街中の店に「傘立て」は無い。傘立てに入れられた傘は「ご自由にお持ちください」だと勘違いしている馬鹿が多いからだろう。店に入った渚はカウンターで「フリチンのペペロンチーノのグランドマザー」みたいな呪文を唱えていた。さあ僕の番だ。
レジのお姉さん(年下だが)が微笑んでいる。
「アイスコーヒーで」蒸し暑いから当然の注文である。
「コーヒーは何になさいますか?お勧めの(聞き取れない)、本日のコーヒーはスペシャルなんちゃらですが・・・」
「普通のアイスコーヒーで」
「サイズはいかがなさいますか?ショート、通る、グランドスラム・・・」
「普通のアイスコーヒーを普通のサイズで」
押し切った。
レジのお姉さんはちょっと機嫌を損ねたようだ。「お前にような田舎もんが来る店じゃ無いです」って意味だろう。僕だって、渚のリクエストが無ければ、こんな「お高くとまった店」に興味は無い。
渚は先に置くまで行って席を確保していた。こんな土砂降りの中でも賑わっている。いや、雨宿りと言う目的で賑わっているのか?
「安元さん、注文が雑~」だそうだ。ニンニクぐらいは入れてもらった方がよかった?
渚はいつものバッグ、かなり容量の大きなバッグを隣の椅子に置くと、テーブルに肘をついて顔を近づけてきた。
うわ、近い!近い!僕は若干身体を引いた。
「ね、京子ってどうだった?」
「どうだったって・・・怖そうな子だね」
「優しくていい子なのよ。今日も心配して付いてきたみたい」
「何が心配だったのかな?」
「多分、安元さんが悪い人かどうかじゃないかな?」
「俺が?いい人じゃないけど悪い人でもない」
「ね?京子と何を話してたの?」
また真剣な目で僕を見る。この目には勝てない。
「京子さんって、キャバクラの子でしょ。今度店に来てって言われただけ」
「お店?」
「キャバクラ。営業じゃないかな?指名してって言ってたし」
隠しても仕方ないし、京子は別に口止めをしなかった。
「ふーん。行くの?」
「金があれば。キャバクラ遊びとか、もう10年はやってないし」
「ハマらないでね?」
「あり得ないっす」
「今日はどうする?」
「雨が凄いしなぁ。うろつくのは嫌だしなぁ」ホテルはどう?なんて言えない。
「ゲーセン、行こっか?」
「それでいいか。予定は決めてなかったし」
僕は渚が「対戦型の格闘ゲーム」をやりたがるのを断って、1Pプレイする渚を見たり、ワニワニパニックを叩いて遊んだ。ゲーセンは不得意だ。僕の中でゲーセンは「インベーダーゲームとギャラクシアン」で停まっている。もしもまだインベーダーゲームがあれば、得意の「名古屋撃ち」を披露するのだが。
ゲーセンは得意ではないと言っても、2時間ぐらいは簡単に過ぎて行った。この日は雨が一向に止まないので、渚は早めに家に帰っていった。
いつもの挨拶、「メールする、メールしてね」と。
さて、京子は何で僕を店に呼んだのだろうか?
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