第31話
今は何時だろうか?
ベットの中でトイレに行きたくなった。隣の丸椅子で座ったまま寝ている丸っこい母さんを一人残して、ぼくは床のスリッパを履いた。
窓の外は真っ暗で、時々悲しそうな風の音が聞こえてくる。
点滴を腕に刺したまま廊下へと歩くと、階下から人の話し声が聞こえた。
ぼくは何故か胸騒ぎがして、静かに歩いてこの診療所に一つしかない階段に近づいて行った。
「もう。あの子を襲うのは止めてくれ!」
「そうじゃな」
一人は村田先生のテープレコーダーのような声だ。
襲うのは止めてくれと言っているのだし、ぼくは緊張して尿意が激しくなった。
「ほれほれ、ほれほれ」
この声は解らない。
男性の声で何かを被っているようなくぐもった声がする。
その声を聞くと、なんだか人じゃないみたいだ。まるで、人形がしゃべっているみたいに生気がまったく感じられない。
ぼくはその声音にゾクリとした。
怖くて仕方がなくて、体中から尿意がすごい波になって襲いだした。
たまらなくなって、トイレに急ごうとしたら、階下からの声が急に途切れた。
ぼくは「しまった!」と思って階下を覗くと、二人の足音がすでに二階に上がって来ていた。ゆっくりゆっくりだけれど、ぼくはトイレが我慢できなくなって、この階のトイレに急ぐしかなかった。トイレは階段の近くだし、中へ入って鍵を閉めれば大丈夫だとその時は思った。
「ほれほれ、ほれほれ」
人形のような硬質な声が階段から近づいてきた。
ぼくは一気に点滴を持ってトイレへと走った。
トイレの中も当然、真っ暗だった。
木製のドアを閉めて鍵を掛ける。
カチッと音がするドアノブに付いた鍵は、心細い音だった。
廊下が静かになった。
これからどうしよう?
村田先生も事件に関係しているんだ。
そして、もう一人の男性も。
一体、この事件はなんなのだろう?
大勢の人たちがおかしくなっている。
それも、僕の周りで。
ぼくは朝までトイレの中に閉じこもる決心をした。
「ほれほれ、ほれほれ、母親は? どうなるか? 命は短いな……」
ぼくはドア越しの生気のない声を聞いて、急に全身から冷や汗が流れ出した。
「止めてくれ! もうたくさんだ!」
村田先生のテープレコーダーのような声は壊れて鳴った。
「私は歩君を助ける! もういいだろう! こんなことは!」
村田先生が泣いていた。
嗚咽がドア越しに聞こえてから、もう一人の人形のような声の男性が後ろを振り返るような気配がした。
ぼくの心臓はドクドクと脈打っている。
張り詰めたような緊張が真っ暗なトイレを支配した。
呼吸がかなり苦しくなって、目が閉じられない。
こんな時、普通は目を固く瞑るはずなのに、ぼくは母さんが心配なんだ。
怖くて仕方がないけど、裏の畑の子供たちのことを考えて勇気を持った。
「……そうじゃな……。わしは村のためにしか動かんからな……」
人形の声が急に途切れた。
ぼくは脱力して床に座った。
足音が遠ざかる。
気が付くと、おしっこが漏れて床が盛大に濡れていた。
翌朝。
ドアを激しくノックする音と母さんの叫び声で目が覚めた。
「歩! 歩! どうしたの?! ここにいるんでしょ!! 具合悪いの?! 早く出てきてちょうだい!」
そうだ。ぼくはトイレで寝ていたんだ。
白の患者服の下半身には大きな染みが窓の明かりで見える。鋭い太陽光のお蔭で狭いトイレを見回せた。
水洗式のトイレが一つだけあった。
ピンク色のトイレの内装で女の子用だと解った。
ぼくは恥ずかしくなって、ドアノブのカギを開けると、母さんが飛び込んできた。
「もう! 心配したんだからね! 大丈夫! 大丈夫よね!?」
「大丈夫だよ……。ちょっと、夜中にトイレに行ってそのまま寝てしまったんだ。そういえば、鍵をかけてしまったんだね。ごめん……」
丸っこい母さんはぼくの顔を撫でて、階下へ連れようとした。ぼくは村田先生に会うことになるけど、あまり気にしない。
助けてくれたことは感謝するけど、相手は殺人犯の仲間だもんね。
母さんが一階の診察室のドアを開けると、村田先生が複数の看護婦さんたちと笑顔で迎えた。
「やあ、歩君の具合はどうだい?」
村田先生は至って上機嫌で母さんと話していた。
母さんも笑顔が漏れ出しそうだったけど、時々涙声を聞いた。
「歩が元気なのは……でも、仕方がないですよね。先生……」
「そんなにも、悲観的だと治った後が大変では? 大丈夫ですよお母さん」
村田先生のテープレコーダーのような声は至って元気よく話していた。
窓の外は雨雲が覆っているけど、村田診療所の立派な広い庭には小さい花を咲かせた花壇が幾つもあった。ぼくはそれらを見て、不思議に思ったことがある。
ここは、御三増町の外れにあって、ぼくの家から遠く離れていた。
裏の畑からもかなり離れているし、犯人はどこから来るのだろう?
目の前の村田先生とあの人形のような声の男性。
御三増町に本当にそんな異様な人たちが住んでいるのだろうか?
「歩君は、これから大きな病院へ行くんだ。すぐに良くなるからね。今は安静にしているんだよ」
村田先生はぼくに向かってニッコリと笑う。
こんな善良そうな人が殺人事件の犯人たちの仲間?
考えられないけれども、それが紛れもない現実なのだと思う。
羽良野先生から負った傷がなくなったり、ぼくの周辺で人々がおかしくなったりと、裏の畑でのバラバラにされても生きている子供たち。一体どういう事件なのだろうか?
「そろそろ、村田先生。予約した患者さんたちが来ますよ」
どこかいそいそとしているが、優しそうな看護婦の声に村田先生は少し項垂れ、真夜中に聞いた悲しそうなテープレコーダーのような音を発した。
「先生?」
周囲にいる看護婦たちの顔を見回して村田先生は、悲しそうなテープレコーダーのような声で言った。
「歩君。不死があるんだ……。この町には……」
ぼくはニッコリと笑って、凍りついた。
不死……?
死なない人たち……?
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