第5話 運命(前編)

 僕は矢島隼人。川渡楽器に勤めるピアノ調律師で、彼女いない歴=年齢。そんな僕のところにある日、天使が舞い降りた。


「矢島さん、お店にお客様が見えてます」

 ピアノ売り場担当の宣川祥子さんが事務所までやってきて、僕に知らせてくれた。僕はドキリとして浮き足立った。

「はい、すぐいきます!」



 一昨年、音大ピアノ科を卒業して我が社に入社した宣川祥子さんは、たちまち職場の花となった。その美貌と屈託のない明るい笑顔と物腰のやわらかさで、男性だけでなく女性からも好感を得た。


 当然お店のほうも彼女を看板娘として立てていた。おかげで売り上げも伸びていった。美しい上に仕事もできて……僕ごときにはとても手の届きそうにない、高嶺の花だった。




 店頭に出ると、宜川さんは楽譜を閲覧中の婦人を指差した。ひどい厚化粧とどぎつい香水。その匂いは数メートル先からでもプーンと漂ってきた。

「お待たせしました、矢島です。僕にご用とのことですが……」

 その婦人は僕を見ると、満面の笑みを浮かべた。

「まあ、あなたが川渡中央駅のピアノを調律して下さった調律師さん!? また随分お若いのね!」

「ええ、まあ……」

「ホント、ボロボロのピアノだったのにこの前弾いてみたら、すっかり良くなって! どんな腕のいい方かしらって思ってたの!」

「それは……恐れ入ります」

 彼女はきっと、駅のピアノを調律するきっかけとなった〝酔っ払い女性〟に違いない、僕はそう思った。

「それでね、もしよかったらお礼も兼ねてお茶でもご馳走したいんだけど、いかが?」

 正直なところ勤務中でもありあまり気が進まなかったが、無下に断ると取り持ってくれた宜川さんに迷惑がかかる気がした。

「少しばかりの時間でしたら、おことばに甘えてお供させていただきます」

「嬉しい! 近くにアップルパイの美味しい店があるの。そこにいきましょう!」

 そして僕は婦人に引き摺られるようにして〝アップルパイの美味しい店〟に連れて行かれた。ところがそのアップルパイは、想像を遥かに上回って巨大だった。一回の食事分としても充分な量だ。

「正確にはアップルパイというよりアプフェルシュトゥルーデルね。私、ドイツでよく食べていたの。あの頃が懐かしくて、たまにここに食べにくるのよ」

 婦人は市崎美和子と名乗った。彼女は若い頃、音楽留学でドイツに滞在していたが、その時に知り合ったドイツ人男性と結婚してしばらくドイツに住んでいたらしい。ところが、ヴィーガンかぶれになった夫とそりが合わなくなり、離婚して日本に帰ってきたとのことである。

「だって、アプフェルシュトゥルーデルに生クリームつけたら怒るのよ、あの人。そして彼に連れて行かれたヴィーガンの店で食べたスイーツのまあ、まずかったこと、まずかったこと。一生こんなものしか食べられないんだったら、死んだ方がましだと思ったわ!」

「……それは大変でしたね」

 彼女の話にあまり興味が持てない僕は、適当に生返事をした。一方で市崎女史は生クリームをたっぷり盛ったアプフェルシュトゥルーデルにガツガツ喰らい付いた。まるでヴィーガンの元夫への当てつけのように……。そしてすっかり平らげてしまうと、グイと僕に顔を寄せてきた。

「ねえあなた、彼女いる?」

 化粧と香水の匂いにむせそうになりながら、僕は答える。

「いえ、今はいませんけど……」

 今は、というより生まれてこのかたいなかったのだが、ついちっぽけな見栄をはる。

「私みたいなおばちゃん、どう?」

 今度こそ本当にむせ返った。そしてどう返答したらいいか迷ってオロオロした。

「す、す、すみません。実はひそかに思っている人がいまして……」

 すると市崎女史はカラカラと笑いだした。

「やだ、冗談よ。ホホホ」

 痛烈なイジリにタジタジとなる僕に、市崎女史はさらに畳みかけた。

「あなたの好きな人って、お店にいた宜川さん?」

「え……」

 僕は耳まで顔が真っ赤になった。

「ふふふ。見ていたらすぐにわかったわよ。おばちゃんはね、そういうことには鋭いんだから」


 そう、僕は宜川さんに恋をしていた。身を焦がすほどに……。


 || |||  || ||| 


 川渡中央駅のピアノを調律した日、ピアノ販売をぽしゃったことで重山課長から大目玉を喰らった。すっかりしょげ返った僕は、ひとり給湯室でコーヒーを淹れていた。

「矢島さん……」


 僕を呼ぶ声にその時は気がつかなかった。営業はやっぱりむいていないなあ、などと考え事をしていた。


「矢島さん?」


 あれ? 呼んでる、宜川さんだ! しまった、ぼーっとしてた! 

「ごめんっ! 考え……」


 と言った途端、頭がガツンと何かにぶつかった。


「いたたた……」


  見ると前方の上側に食器棚がある。


「矢島さん! 大丈夫ですか? ごめんなさい!」


 僕は食器棚の真下に頭を入れてコーヒーを淹れていたのであった。宜川さんがそれを見て “あぶない” と思って僕に教えてくれようとしたのだった。結局、僕は反射的に頭を上げて食器棚にぶつけてしまったのだが……



 宜川さんは心配そうに僕の方を見て言うのだった。


「本当にごめんなさい……。痛くないですか……?」


 なんて優しい……。僕はこの瞬間、彼女のことを好きになってしまった。いや、好きだったことに気がついたと言うべきか……それ以来、僕は寝ても覚めても宣川さんのことばかり考えている。


 || ||| || |||




「それで、気持ちは伝えたの?」

「そんな、彼女みたいな素敵な人、僕なんて見向きもしませんよ」

「あのねえ、『どうせ僕なんて』なんて言ってる人に運命は味方してくれないのよ。当たって砕けるくらいの勢いがなくっちゃ」

「はあ……」

「まあ、私の見たところ、脈はあると思うわよ。だってさっき私があなたを呼んだ時、彼女、わざわざ事務所まで呼びに行ったでしょう。内線電話ひとつで済む話なのに」

「それは彼女の性格が律儀だから……」

「とにかく、勇気を振り絞ってアタックしてご覧なさい。このアプフェルシュトゥルーデル、ごちそうして差し上げたら? 女はね、男の勇気と美味しいものには惹かれるものよ。あ、それ食べないんならもらっていい?」

 市川女史は僕が食べ残したアプフェルシュトゥルーデルを手元に引き寄せて、またガツガツと食べ出した。女は男の勇気と美味しいものに惹かれる……果たしてそれが宣川さんにも適用できるのだろうかと、市川女史を見ながら考えた。


第5話後編につづく

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