第2話 スケルツォ(後編)

「ねえお父さん、この曲知ってる?」

 家に帰った私は、父にことの顛末を話し、あのストール君が置いていったと思われる楽譜を手渡した。

「素人はんの作曲はな、本人も知らんうちにパクっとるもんなんや。そやから結奈が聞いたことある気がするのは不思議やないで」

「もう、そういうのいいから、ちゃんと見て!」

「はいはい……」

 と、父は叱られた子供のようになり、じっくり楽譜に目を通した。

「これは僕も知らん曲やな」

 父は老眼鏡を外した。「そやけどこれ作ったん、若月先生の生徒やと思うで。随所に彼女の手グセが出とる」

「若月先生って、あの?」

 若月真智子先生は、川渡楽器の音楽教室の講師で、私も子供の頃、そこで彼女に指導を受けていた。若月先生はジュニア選抜コースで作曲を教えていたから、幼い頃のストール君はその生徒だったのだろうか。


 || |||  || ||| 


 私は久々に川渡楽器の音楽教室を訪ねた。もう何年もご無沙汰しているので、スタッフもすっかり入れ替わっている。若月先生に会いたい旨を話すと、レッスン中なので終わるまで待って欲しいとのこと。

 座る場所は充分あったので、私はそこに腰掛けて若月先生のレッスンが終わるのを待った。音楽教室独特の雰囲気……楽器や教室を宣伝するポスター類、あちこちから漏れ聞こえる電子オルガンの音、煮詰まったコーヒーの匂い……なんだか子供の頃に戻ったみたいだ。

 やがてレッスン終了の時間となり、若月先生がレッスン室から出てきた。

「まあ結奈ちゃん!? すっかり大きくなって!」

「お久しぶりです、先生。実はお聞きしたいことがありまして……」

 そう言うと若月先生は私を個人レッスンの部屋に案内した。

「なあに、聞きたいことって」

「これなんですけど……」

 私は例の楽譜を手渡した。「この曲を書いたの、もしかして若月先生の生徒さんかと思いまして……先生なら誰かわかりませんか?」

「んーと、どれどれ」

 と若月先生は楽譜を眺め、しばらくして答えた。

「これを書いたの、きっと梶坂貴司君よ。作風もそうだけど、彼の筆跡、独特だからすぐわかるわ。結奈ちゃんは貴司君のこと、覚えてる?」

「いえ……覚えていません」

「結奈ちゃんが幼児科にいた頃、貴司君はジュニア選抜コースにいたのよ。だから同じ発表会にも出ているわ」

「そうだったんですか……」

「貴司君もね、結奈ちゃんと同じように音大のピアノ科を目指したこともあったのよ」

「今は違うんですか?」

「練習のしすぎで、〝バネ指〟になってしまったの。本当はしばらく練習を休んで治せばよかったのに、無理に急いで治そうとしたのね。手術したんだけど不幸にもうまくいかず、ピアニストの道は絶たれてしまった。それでも音楽の道を捨てられなかった彼は音大の作曲科に進んだと聞いたわ」

 私はなんとも言えない気持ちになった。ピアニストとしての道を閉ざされた彼にとって、私の演奏はどう見えたのだろうか。

「若月先生、いちど私の演奏聴いていただけますか?」

 先生が頷いたので、私はスケルツォ2番を弾いた。終わると先生は大きな拍手をしてくれた。

「完璧よ。これならコンクールだって上位狙えるし、音大も通ると思うわ」

「でも、梶坂さんは酷評したんです。どうしてでしょうか」

「さあ……もしかしたら、貴司君は昔の結奈ちゃんの演奏を覚えていたんじゃないかしら。あの頃のあなたのピアノ、おてんばさん丸出しで何回もヒヤヒヤさせられたけど、不思議な魅力があったわ。その頃に比べたら、今の演奏は少しお行儀よすぎるのかも」

 そういえばあの頃、誰かに「結奈ちゃんのピアノ、お父さんに似て浪花節みたい」と言われたのがトラウマになったたんだっけ。それ以来、父のピアノは私にとって反面教師だったんだ。



 川渡楽器を出ると、雨がポツリポツリと降り出していた。どうしよう、傘を持ってきていない。でも駅は遠くないし、これぐらいの雨ならあまりぬれなくて済む。私は意を決して駅までスタートダッシュ。


 ……と数メートル走ったところで、水道工事用の鉄板の上で見事にスリップしてしまい、華々しく転倒。無様に倒れ込んだ私の上に容赦なく降りかかる雨。助けてよいものやら戸惑いつつ無視して通り過ぎる通行人の視線。そして、ぬれた鉄板から伝わる氷のような冷たさ。

「痛い……冷たい……」

 私がしばらく動かずにいると、ふと暖かい何かが私を包み込んだ。と思うと、そのままヒュウっと持ち上げられた。

「……?」

 誰かに抱き起こされたのだ。振り向くと、ストール君、すなわち梶坂貴司(かもしれない人)だったので、心臓が止まりそうになった。

「あっ、あっ、あっ!」

 私はすっかり気が動転して、ただ彼を指差してアワアワしていた。

「助けてやったつもりなんだがな、礼もないのかい。それとも、セクハラで訴えるか?」

「あ、その、いえ、すみません、どうもありがとうございました!」

 すると冷たかった彼の表情が少し優しくなった。

「そんなずぶぬれじゃ風邪ひくだろ。とりあえずそこのユニクロで着れそうな服でも買って着替えとけ」

 といって彼は一万円札を差し出した。

「そんな、見ず知らずの人にお金をいただくわけには……」

「誰がやると言った。ちゃんと後で返せよ」

「はい、ちゃんと返します……」

 私はユニクロで服を選び、試着したまま会計した。店を出ると、梶坂貴司(かもしれない人)がそこで待っていた。

「待っていてくれたんですか?」

「言っただろ、ちゃんと返してもらうって。連絡先も知らせないでバックレるつもりか? それにこの雨だ、傘も持たずに濡れて帰るのか?」

 そう言って彼は折りたたみ傘を差し出した。相合い傘ではないけれど、一緒に傘をさして駅まで歩くのはなんだか気恥ずかしい。


🚉



 駅につくと、ATMがあったのでそこで一万円おろした。

「はい、これでお返ししましたよ」

「ああ、確かに」

「それと……」

 私はバッグから例の楽譜を取り出して返そうとした。ところが先ほど転んだ時に雨水に濡れて、インクも滲んでしまった。「ご、ごめんなさい! 大事な楽譜を!」

「そうか、君が持っていたのか……」

「で、でも、私、暗譜してますから!」

 私はピアノの前に座り、記憶を頼りに彼の曲を弾いた。弾き終わっても彼は無反応でちょっぴり薄気味悪い。

「あの……どうでしたか?」

「デタラメもいいところだ。楽譜にない音まで弾いて……」

 やっぱりダメか。シュンとなっていると、彼は笑った。

「でもそれでいいんじゃないか、その方が百瀬結奈らしい」

 いきなり彼の口から私のフルネームが出てきて驚いた。

「もしかして、音楽教室にいた頃の私を覚えてたんですか?」

「忘れられるわけないだろ、あんなはっちゃけた演奏。……この間ここで君が弾いているのを見た時は驚いたよ。あの百瀬結奈が弾いてるって。でも、ガッカリした。あんなに杓子定規な演奏するようになってしまって……」

「それでこの間はあんなこと言ったんですか?」

「別に君を責めるつもりはなかった。ただ、自分自身と重ね合わせてしまってね……」

 梶坂貴司はこれまでのことを少し話した。手を傷めてピアニストの道を断念した貴司は音大の作曲科へと進んだ。ところが、その音大の作曲科は俗にいう現代音楽を極めるための場所であり、彼の目指す音楽はそこにはなかった。

「初めは自分を押し殺して教授たちが要求するものを作っていた。だけど、ホラー映画のBGMみたいなのばっかり作ってるうちに、気がおかしくなりそうになった。それで大学をやめた。この間の君のスケルツォ聞いて、自分を押し殺しておかしくなっていく俺の姿と重なったんだ」

「大学をやめて、どうしたんですか?」

「今は尊敬する作曲家のアシスタントをしながら勉強しているよ。その方が自分のやりたいことが見つかりそうだからね」

「よかったです。私が言うのは生意気かもしれませんが、梶坂さん、作曲の才能あると思いますから」

「本当に生意気だな。人の心配よりまず自分のピアノを何とかしろ」

「わかってます。でも、音大にいって私のピアノが何とかなったら……梶坂さんの曲、弾かせて欲しいです。私、あなたの手になりたい……」

 私はそう言って彼の目をじっと見つめた。彼も目を逸らさず、ゆっくりとうなずいた。

「精進もいいが、自分を大切にしろ。俺の一番の傑作を弾くその日まではな」

 私もうなずき、「それじゃあ、また」と言って彼に手を振った。


 駅を出ると、雨はすっかり止んで晴れ間が見えていた。雲の切れ間から差し込む光を見ていると、私の心にほのかな温かいともしびが宿り、甘い予感がじんわりと湧いた。


第2話 終わり

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