卵の殻理論 桜漬けの青年

@suzuawo111

第1話 夏の絵画

夏の油絵とは、これ如何に。

 開け放った窓から入ってくるのは湿気ばかりじゃない、時雨とも思える蝉の声、風の吹く音、微塵の如き微かな涼しさ、そして芝刈り機の騒音。

 素晴しい、まったくすばらしい状況である。

 教室内は空気が滞っているのか、溶剤のテレピンノこれまた素晴しい匂いが俺の鼻孔を突き刺していくのだが、あの何とも形容しがたい香を嗅いでいると、体調がこれまた素晴らしい具合に崩れていく。

 カンバスを筆で撫で続けている。

 夏の大気がむんむんと俺の体にまとわりつく。

 その作業を行っているだけで、俺の身体からはとめどなく汗が流れ続けた。

 上半身タンクトップ一枚、下半身はツナギというラフなのだかそうでないような、酷く中途半端な格好になりながら、誰もいない教室で一人黙々と誰を顧みるわけでもなく筆を走らせている、このいかにも夢を追い求める青年らしい青々とした俺が、こんな淋しい場所で絵を描きつづけていると次第に滅入ってくる。

 タンクトップはすでにぐしょぐしょだし、額から流れ出る脂汗はさながら油絵の具の粘度である。

 絵の具を塗り重ねていくこの作業も、終わりが見えてこない。

 髪をかきあげると、汗が手伝ってワックスをつけた様にオールバックで固まった。

 蝉の声が、やたらと挑発的に聞こえる。

 精神の限界も近いか。

 そう思ったとき、ふいに教室のドアがガラガラと開かれた。

 みると、女が立っていた。

 なんのことはない、ヨシノである。

「なんだ、まだ書いていたのかい」

「おう、ちょっと待っちくれや。今終わっから」

「今すぐ終わらせてくれよ。下で皆まっているんだ」

「はいはいはいはい、わかりましたよ。ヨシノ、イーゼル戻しといて、おれ筆洗っちゃうから」

 美術室内にある水道で、筆を石鹸に擦り付ける。なまあたたかい、濁った色がさらさらと流されていく。手をいくら洗っても、絵の具の色が落ちることはなかった。結局、青あざのように見える手をそのままに、カバンを手にした。

「おいおい、松葉。ひょっとして、その恰好のまま変えるつもりじゃないだろうね」

 汗にまみれて塗れ雑巾のようになったタンクトップ、板金屋のようにアウトロー感満載の絵の具まみれツナギ。人ごみに紛れようものなら、即座に怪訝な表情で摘まみだされそうな格好だった。

「いや、ツナギは置いてく。着替えっから表出ててくんね?」

 いかにヨシノとは言え、女子に着替え姿を見せるほど、貞操観念が壊れてはいない。そう、たとえ、男女を絵にかいたような吉野であったとしてもだ。

「何でもいいから、早くしてくれよ」

 ぶつぶついいながら、ヨシノがドアを閉めるのを見て、着替えた。汚れ切ったツナギを見ながら、さすがにそろそろ選択しないとカビが生えるよなぁと思った。


「持ち帰らなくてよかったのかい?」

「生乾きだったしなぁ。月曜日取りにくりゃ、それでいいさ」

「でも、コンクール近いんだろう?キャンパス合わせて固定するやつなら、手伝ってやっても構わないよ」

「いいよいいよ。来週、ソッコーでキメっから」

 帰りの廊下。

 夏シャツの下、何も来ていないからスースーする。

 風遠しが、美術室よりもずっといい。空気が流れてるのがじかに分かる。人気のない廊下を二人歩いていると、なんだか取り残されたような気分になってくる。

 蝉の声も遠い。

 横を歩くヨシノを見た。

 見たというよりは、少しばかり見上げた。

 女だというのに、俺よりも4センチばかし背が高い。腰がほそくて、足が長いから余計に高く見えやがる。

 横から見るとよくわかるが、身体の凹凸がやけに少ないため、余計男らしく見えてくる。

 短く切った黒髪を個気味良く揺らし、颯爽としている。

「ん?なんだい、じろじろ人の顔みて…」

 猫のように大きく、そして黒目がちな眼と視線が合った。いつ見ても思うが、茶色の部分がやたらと濃い、キリリりとした薄い口元が微かに笑っていた。頬はいつも見ても、微かに桃色である。

「お前、いつもおかっぱだよな。何処で切ってもらってんの」

「家のばあ様だよ。松葉も今度切ってもらえばいい、きっと五分刈りにしてもらえるよ」

「遠慮しとくわ」

「だね」

 

 他愛のない会話を挟ませながら、校門の方へ向かった。グラウンドを横切りながら、二人が待つ方へと足を急ぐ。

 校門脇に生える大きな欅の木、その下にあるベンチに座る二つの影が目に入った。

 一人は、一人はやたらとガタイが良く、まくった腕からのぞく盛り上がった筋肉が特徴的な茶髪の男だった。長い髪の間からのぞく瞳には少し険がある。

 もう一人はやたらと小さかった。

 形容するとすればそれはふわふわのイチゴ大福のような奴だ。

 女の子らしいともいえる。

 か細い手足に、小さい顔。いかにもである。

「わり。待ったか?」

「いいや、そんなことないぞ。それより、絵をもって帰らなくていいのか?コンクール、近いんだろ?」

「さっきヨシノにも同じこと言われたぜ。ダイジョブダイジョブ、全然間に合うし、それにほぼほぼ完成してるしな。来週やりゃらくしょうよ」

「…そういうなら…そうか」

 作馬は眉間にしわを寄せた。

 野太く、そしてガラガラハスキーな声は、歳を一回りも上回っているように聞こえる。

 茶髪な髪もそうだが、少し長い目つきや薄い唇など、どこかゴールデンレトリーバーのような印象を与えてくる。

「圭司くんも心配しすぎだよ。花菱くん、いつもギリギリで終わらせてるし、大丈夫だよ」

「そ、大丈夫なのよ。わかってくれんのは小夜だけだぜ?」

「ともかく早く帰ろう。日に焼けてしまうよ」

 

 

 山の街と説明することが出来る。無論、俺が住む町のことである。

 県北西部の端も端、隣あう県ととの間にこんもりと盛り上がりたる山脈のふもとに囲まれるようにして形成されたこの街には、夏になるとあつさとともに冷涼なる風が吹いてくる。

 街の北側へ行けば行くほどに標高が高くなっていく。

 北端の間際に、俺が通っている北白川高校がある。

 一般的な地域であればあちらこちら、高校がてんざいしているのだろうが、この街には県立の高校が一つしかない。そのほか、私立の高校が一つあるのみであり、たいていの輩はこの県立高にかようとになる。私立高校の方は、来年取り壊しが決定であるがため、不良連中のたまり場となることは確定事項である。

 もゆる若葉うつりし清涼のなんたることか

 この街をうたった詩である。

 過去に若山牧水やら、北山青洲やらがうたったとかなんだとか言われているが、同にも調べてみると眉唾の話らしく、その起源をさかのぼると詩人になり損ねた北白川の校長が突けたというのが有力の説である。

 だが、詩の通りであったりする。

 両流から流れる川は、工場がある街の南端にくるまではかなり綺麗である。都心や他の県からのアクセスが壊滅的にわるいために、キャンプにくる輩や、土地を買いたいという人が全く来ないのである。

 しかしながら遺憾にも、驚くほど旧時代的な空間でもある。

 ある日の事である。

 学校帰り、仲間内の一人である飯仲圭司が

「なあ、映画を見に行かないか」

 と言い出してしまった。

「それって、dvd借りてみんなで圭司君の家で見ようってこと?」

「いいやちがう、映画館に行こうってことだ」

 皆ギョッとした。

「圭司。それはあんまりじゃないのかい?」

「どうしてだ?」

「朝から行くんならまだしもよぉ、もお夜だぜ?駅まである気じゃいけねぇし、そもそも行ったとして帰りの電車が通ってねぇよ」

 俺たちのいる場所から駅までは徒歩で約1時間20分程の場所に存在しており、当然のことながら本数も少ない。一日に15本程度出ているが、夕方の5時を回ってしまうと、帰りの電車が亡くなってしまうのだ。

 そのため、我々学生の主な移動手段は、親に車で連れてってもらう、あるいは原チャリで移動する、あるいはママチャリで爆走するか、である。このために、田舎の女子高生の足は高確率でふとましいのだ。

 だが、小夜はかなりほそい。ヨシノもどちらかというと、スポーティーな細脚だ。

「この時間だと、俺の親車出してくんねぇし。俺、原チャリ持ってねぇし、どうすんだよ?」

「うーむ、じゃあチャリで」

「片道3時間かかる事をわかっていっているのかい?学校帰りに洒落たところによりたいのはわかるが、田舎の高校生には無理なんだよ、圭司」

 ヨシノはそう言ってせせら笑った。

 以上のことからだいたいのことはわかるだろうが、おおよそ娯楽と呼べるものはないというのが実情である。

 他にも、新曲の更新を三年前に終わらせたカラオケ屋が存在し、CDよりもカセットテープの多い楽器店が存在する。

 東京やら大阪やら、若者でごった返す地域とは真逆で、あちこちでお年寄りがたむろして井戸端会議論争を繰り広げている。それが時折家の中で繰り広げられているのだから、鼻も恥じらう笑われ男児としては、はなはだ迷惑なこと極まりないのであるが、其れに口を挟もうものならおばさま方の嘲笑と母様の足蹴を喰らう事はわかり切っているがために、おいおい泣きながら知りすぼむことしかできないのである。

 ともかくとしてここはそう言った場所なのである。

 そんな場所でヨシノと出会ったのは、ほとんど偶然としか言えないであろう。

 ―――本当に。

 

 ヨシノは誰が言ったか、いわないか。

 いや、だれもがいわずもがなヨシノであった。

 ヨシノのことを下の名前で呼ぶ人物をついぞ見たことがない。もちろん家族は別であるが、其れ以外の人物がヨシノのことを祖霊以外の名前で呼ぶのを聞いたことがないのだ。

 ヨシノがこの街に訪れたのは今から約10年以上も前のことだった。

 あれはたしかそう、この俺が桃色のもちもち肌を誇っていた小学二年生のころのことである。

 朝、さわぎたつ教室に教師が一人の少女を連れて入ってきた。見慣れない顔を、皆きょとんとした顔や、にやにやとした顔で迎えた。

「はい、みなさん。今日から新しいお友達が増えます。自分で挨拶できる?」

 ヨシノは頷くこともなく、一歩足を前に出した。

 その少女の眼の勝気なことと言ったら武将さながらであり、猫のように大きな釣り目は見ていると少しひるみあがりそうなほどでもあった。

「ヨシノッっっ!」

 声高に叫ぶ。

 一瞬の正逆ののち、教室内はごった返したように沸き立った。皆が皆腹を抱えて笑い出す、先生はそれをみて慌てながら静かにしなさいと叫んだ。だが、其れに耳を貸す奴は誰一人としてなかった。

 それみてヨシノも笑った。

 思うと、このころと比べヨシノは随分と可愛らしくなったと思う。

 男勝りなヨシノは女子のグループには混ざらず、男連中と泥にまみれながら鬼ごっこ夜景泥で遊んでいた。なんなら、男子よりも男子であったと思う。

 だが、その血気盛んなところが災いすることがあった。

 ある日、ヨシノは欅の木の上の辺りにカブトムシがいるのを発見した。一緒に遊んでいた奴らが、怖気づいて昇らないでいると彼女は手に唾をつけてよじ登り始めた。まるですいすいと去るように昇っていき、とうとうカブトムシの真で来た。てをのばすと、それを見計らっていたかのようにカブトムシは飛び立ってしまった。

 咄嗟に手を広げたヨシノはバランスを崩し、そのまま地面に落下した。鈍い音が響いた。だが、ヨシノは何でもないように立ち上がった。だがしかし、ヨシノの腕はぷらんとぶら下がっていたのだった。

 恐ろしくなって皆逃げ出した。

 だが、俺は逃げなかった。

 きっと激痛が走っているはずなのに、事もなさげなヨシノの顔が、そのとき那須与一のように二枚目だった。

 俺はヨシノを担ぎながら、病院に直行した。

 それからは、てんやわんやだった。

 このことが起こってから、俺とヨシノは仲良くなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る