黄昏

 チュッとリップ音が響く。啄むように角度を変えて触れるだけのキス。下唇を緩く噛まれて甘い吐息がこぼれた。添えられた手のひらから頬に熱が伝わる。左手で頭を押さえられた。


 ──もう、後戻りは出来ないや。


 少しだけ口を開いて、舌を擦り合わせて、絡ませる。

 貴方の存在を覚えていようと。全部全部俺の物だ、と。

 酸素を欲して離れる。銀色の糸が引く。

 伏し目がちな彼の瞳はいつもより、ずっと艶っぽかった。


 ──睫毛、女の子みたいに長かったんだ。


 そんなどうでもいいことを考えながら、ワイシャツのボタンをされるがままに開けられる。


 食べられる様にして唇が塞がれる。


 酸素が足りなくて目の前がチカチカする。頭がぼーっとして、苦しい。それでもどこか心地良さも感じる。


 耐えられず、相手の胸を弱々しくトン、と押す。


「へぇ。もう苦しいんだ」


 いつもより低い声にドキリとする。

 細められた目が余裕そうで悔しい。


 呼吸は定かじゃない。それでもこの瞳に真っ赤になった俺を映されるのは癪だった。


 ちう、と子供みたいなキスをお見舞いしてやる。


 ──知ってる。どうせ俺が食べられちゃうんだろ?


 どうしようもない熱に浮かされていたんだと思う。

 春の夜に見る夢のように、温くなった空気に二人揃って溺れてしまっていたんだ。



 ***



「カオルちゃん、俺どうしよう」


 上がらない成績。伸びない点数に呆然として、唯一縋れる幼なじみに不安をぶつける。


「俺もなかなか苦しんだよー。霞、大丈夫だって」


 けらけらと笑ってあやす様に背中を叩く。


「でも、でも」


「だぁいじょーぶ。俺が行けたんだから」


 カオルちゃん。月下つきしたかおるくん。俺の三個上の幼なじみ。俺の高校から五駅先の六畳間に住んでる現役医大生。

 昔っから頭が良くて、運動もできて、俺とは違って友達もいっぱいいるし、彼女も美人。そんなカオルちゃんも花のかんばせを体現したような美青年。


「霞はさぁ、昔っから考えすぎなんだよな。こんなふらふらしてる俺が現役で医学部合格出来たんだぜ?」


「いや、でも……」


 でも、じゃないぞーって言いながらカオルちゃんは俺の頬をむぎゅうって掴んだ。


「ふはっ、タコみてぇ」


「ッ…かおるちゃっ、やめっ」


 ケラケラと笑いながらほっぺたをくにくに弄る。

 自然と俺もおかしくなってきた。


「こんなにバカ面さらされて、霞は何を不安に思ってるわけ? 何も心配いらないよ」


 顔をつかまれた手がするりと離れて、慈しむように頬を撫でる。


 俺の大好きなカオルちゃんの手。優しくてあったかい、いつでも安心させてくれる大きな手。


「俺はさ、大庭の病院継がなきゃだからさ、どうしても医者にならないとだめなんだよ。将来が決まってるっていうことに不満はないけどさ、それでも、それでも」


「息苦しい?」


 キャラメル色の髪の毛の隙間から覗く瞳に、俺の顔だけが映っていた。


「俺がさ、その苦しさ忘れられるくらい──」


 真っ直ぐに俺だけを見ていた。


「──お前の息、止めてやろうか」


 心臓が跳ねた。今までないくらい鼓動が速まった。

 彼の言葉の意味を理解しようと、理解しようとするけれど、脳が思考を放棄してしまっている。


「──かすみ」


 本能が言った。食べられてしまう。


 それもまた


「いいよ」


 捕食された。

「息を止める」なんて優しいもんじゃない。


 触れた唇。角度を変えながら何度も何度も。

 酸素が欲しくて薄ら口を開けると、お互いの唾液で糸が繋がっていたのは一瞬、二人の距離はゼロセンチ。

 貪るように俺の唇は彼に甘噛みされて、口内は舌で犯されていた。

 涙が滲んだ目で彼を覗けば、余裕そうに伏せ目がちな瞳と目線が交差した。


 ぞくぞくした。


 身体の奥がきゅうっとして、熱くて、自分が自分でないみたいだった。


 息ができない。苦しい。

 それでも、もっと、もっとと貴方が欲しくなる。


 きっとこれは春の夢。

 朧気な記憶のまま、ぬるい空気に浸っていたい。


 ──カオルちゃん、貴方になら俺、食べられてもいいって思ってるよ。

 そんなことをベッドに押し倒されながら考えていた。


 きっとこれは春の夢。

 憧れに似た俺の歪な初恋の終着点。


 朝起きたら全て思い出せなくなればいいんだ。


 荒々しくワイシャツのボタンを外されていく。

 俺も首に腕をまきつけて、顔も一緒に埋める。

 汗とほのかに香水の匂い。男物にしてはいくらか甘すぎる香りが鼻腔をくすぐった。


 体全身が彼の存在で満たされる。

 細くて、それでも節々だけはしっかりしてる綺麗な手。触れられた皮膚が爛れるように熱く、熱を帯びていた。

 彼の吐息、心臓の音。

 さらさらと揺れる柔らかな前髪。

 ちらちらと光る耳元のピアス。


 視界に彼が映る限り、俺はずっとこの熱に浮かされたままだ。


 将来なんて、明日のことなんてどうだっていいんだ。

 窓の外の桜は咲いてもすぐに散ってしまう。

 今だけを見つめてくれればいい。


 不安も息苦しさも、全部貴方に会うためだけの口実なんて、口が裂けても言えやしないけど、


「好きだよ」


 と、いつか口走ってしまいそうなんだ。


 俺に逃げ道を与えたいが故に、不器用な貴方が教えてくれる快楽の大きさは、はっきり言って間違ってる。

 女も酒もタバコも。俺は満たされないんだよ。


 貴方だけ。カオルちゃん、貴方だけが欲しい。

 貴方の偽善なんて求めてない。


 届かないのならいっその事。


 春に見た夢のように、君への想いも朧気に消えてしまえ。




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