黄昏
チュッとリップ音が響く。啄むように角度を変えて触れるだけのキス。下唇を緩く噛まれて甘い吐息がこぼれた。添えられた手のひらから頬に熱が伝わる。左手で頭を押さえられた。
──もう、後戻りは出来ないや。
少しだけ口を開いて、舌を擦り合わせて、絡ませる。
貴方の存在を覚えていようと。全部全部俺の物だ、と。
酸素を欲して離れる。銀色の糸が引く。
伏し目がちな彼の瞳はいつもより、ずっと艶っぽかった。
──睫毛、女の子みたいに長かったんだ。
そんなどうでもいいことを考えながら、ワイシャツのボタンをされるがままに開けられる。
食べられる様にして唇が塞がれる。
酸素が足りなくて目の前がチカチカする。頭がぼーっとして、苦しい。それでもどこか心地良さも感じる。
耐えられず、相手の胸を弱々しくトン、と押す。
「へぇ。もう苦しいんだ」
いつもより低い声にドキリとする。
細められた目が余裕そうで悔しい。
呼吸は定かじゃない。それでもこの瞳に真っ赤になった俺を映されるのは癪だった。
ちう、と子供みたいなキスをお見舞いしてやる。
──知ってる。どうせ俺が食べられちゃうんだろ?
どうしようもない熱に浮かされていたんだと思う。
春の夜に見る夢のように、温くなった空気に二人揃って溺れてしまっていたんだ。
***
「カオルちゃん、俺どうしよう」
上がらない成績。伸びない点数に呆然として、唯一縋れる幼なじみに不安をぶつける。
「俺もなかなか苦しんだよー。霞、大丈夫だって」
けらけらと笑ってあやす様に背中を叩く。
「でも、でも」
「だぁいじょーぶ。俺が行けたんだから」
カオルちゃん。
昔っから頭が良くて、運動もできて、俺とは違って友達もいっぱいいるし、彼女も美人。そんなカオルちゃんも花の
「霞はさぁ、昔っから考えすぎなんだよな。こんなふらふらしてる俺が現役で医学部合格出来たんだぜ?」
「いや、でも……」
でも、じゃないぞーって言いながらカオルちゃんは俺の頬をむぎゅうって掴んだ。
「ふはっ、タコみてぇ」
「ッ…かおるちゃっ、やめっ」
ケラケラと笑いながらほっぺたをくにくに弄る。
自然と俺もおかしくなってきた。
「こんなにバカ面さらされて、霞は何を不安に思ってるわけ? 何も心配いらないよ」
顔をつかまれた手がするりと離れて、慈しむように頬を撫でる。
俺の大好きなカオルちゃんの手。優しくてあったかい、いつでも安心させてくれる大きな手。
「俺はさ、大庭の病院継がなきゃだからさ、どうしても医者にならないとだめなんだよ。将来が決まってるっていうことに不満はないけどさ、それでも、それでも」
「息苦しい?」
キャラメル色の髪の毛の隙間から覗く瞳に、俺の顔だけが映っていた。
「俺がさ、その苦しさ忘れられるくらい──」
真っ直ぐに俺だけを見ていた。
「──お前の息、止めてやろうか」
心臓が跳ねた。今までないくらい鼓動が速まった。
彼の言葉の意味を理解しようと、理解しようとするけれど、脳が思考を放棄してしまっている。
「──かすみ」
本能が言った。食べられてしまう。
それもまた
「いいよ」
捕食された。
「息を止める」なんて優しいもんじゃない。
触れた唇。角度を変えながら何度も何度も。
酸素が欲しくて薄ら口を開けると、お互いの唾液で糸が繋がっていたのは一瞬、二人の距離はゼロセンチ。
貪るように俺の唇は彼に甘噛みされて、口内は舌で犯されていた。
涙が滲んだ目で彼を覗けば、余裕そうに伏せ目がちな瞳と目線が交差した。
ぞくぞくした。
身体の奥がきゅうっとして、熱くて、自分が自分でないみたいだった。
息ができない。苦しい。
それでも、もっと、もっとと貴方が欲しくなる。
きっとこれは春の夢。
朧気な記憶のまま、ぬるい空気に浸っていたい。
──カオルちゃん、貴方になら俺、食べられてもいいって思ってるよ。
そんなことをベッドに押し倒されながら考えていた。
きっとこれは春の夢。
憧れに似た俺の歪な初恋の終着点。
朝起きたら全て思い出せなくなればいいんだ。
荒々しくワイシャツのボタンを外されていく。
俺も首に腕をまきつけて、顔も一緒に埋める。
汗とほのかに香水の匂い。男物にしてはいくらか甘すぎる香りが鼻腔をくすぐった。
体全身が彼の存在で満たされる。
細くて、それでも節々だけはしっかりしてる綺麗な手。触れられた皮膚が爛れるように熱く、熱を帯びていた。
彼の吐息、心臓の音。
さらさらと揺れる柔らかな前髪。
ちらちらと光る耳元のピアス。
視界に彼が映る限り、俺はずっとこの熱に浮かされたままだ。
将来なんて、明日のことなんてどうだっていいんだ。
窓の外の桜は咲いてもすぐに散ってしまう。
今だけを見つめてくれればいい。
不安も息苦しさも、全部貴方に会うためだけの口実なんて、口が裂けても言えやしないけど、
「好きだよ」
と、いつか口走ってしまいそうなんだ。
俺に逃げ道を与えたいが故に、不器用な貴方が教えてくれる快楽の大きさは、はっきり言って間違ってる。
女も酒もタバコも。俺は満たされないんだよ。
貴方だけ。カオルちゃん、貴方だけが欲しい。
貴方の偽善なんて求めてない。
届かないのならいっその事。
春に見た夢のように、君への想いも朧気に消えてしまえ。
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