怒る者
思い出すのは、白いカーテンを背景に流れる黒い髪だった。
焼けた校舎の窓。顔を上げた新実三郎は目を細める。
初夏の陽気を遮った長い黒髪。白い肌に浮かんだ桜色。その濡れた唇は雪に散る純血のように赤く煌めいていた。
「先生、私……」
まだ生まれたばかりの平成の夏。白いカーテンの靡くF高校の空き教室は花の香りに満たされていた。
「どうしたんだい?」
背の高い新任教員。青年は鋭い一重を柔和に細める。
「怖いの……怖いんです、私」
「怖い? 何かあったのかい、宮野クン?」
「先生、私、自分が自分じゃ無くなっちゃうようで、怖いんです……」
女生徒の口腔が桃色に光った。鼓動を速めた青年は慌てて身を引く。罪悪感が胸を走ったのだ。上目遣いに白い肌を近づける女生徒の瞳に、彼は引き寄せられるような欲情を覚えてしまった。
「……先生、先生は、私の事、どう思っていますか?」
女生徒のか細い指の先が青年の指に絡む。
「み、宮野クン、君の事は、活発で才気溢れる素晴らしい生徒だと、僕は思っているよ」
「……先生、あのね、違うの、私、そういう意味で聞いてるんじゃないの」
「ど、どうしたんだい、いつもの君らしくないね? 何かあったのだろう?」
「先生、私、怖いんです……。自分を、自分を抑えられないの……」
「み、宮野クン?」
「ねぇ、先生……私の事、一人の男としてどう思っていますか?」
首筋を撫でる甘い吐息。ふわりと肩に絡み付く細い黒髪。艶かしく光る赤い唇は青年の視界に入らない。青年の黒い瞳は、女生徒の漆黒の瞳と重なって動きを止めていた。
初夏の花の香り。初夏の夜空の星。初夏の浜辺の白。
女生徒の瞳に呑まれたまま固まった青年の唇を濡らす何か。はっと息を吐いた青年は、唇を重ね合わせる女生徒の長い黒髪を見た。
「先生……」
甘えたような女生徒の吐息。そっと離れた唇がまた青年の唇を包み込む。生暖かい血の躍動。女生徒の柔らかく湿った唇。
浮かび上がる感情の波。情痴と愛情。恐怖と罪悪感。そして、怒り。
「やめないか!」
青年の手のひらが女生徒の頬に当たると、バシンと鋭い音が空き教室に響いた。驚いて目を見開く女生徒。罪悪感と怒りに呼吸を乱した青年は、額に浮かぶ汗を拭うと、女生徒の行為を叱りつけた。
「宮野! 何をやってるんだ、君は! ふざけるんじゃないよ!」
カーテンを揺らす初夏の風。窓を揺らす青年の怒鳴り声。向けられた激しい怒りの感情に唇を震わせる女生徒。
「いいか、宮野! それはな、そういう行為はな、軽々しくやってはいけないんだよ! それが分からない君じゃ、ないだろうに!」
「あ……」
「宮野、宮野クン、よく考えたまえ! それは、それは子供がすべき行為では無いんだ。いや、違う、違うぞ、そういう話じゃない。それは、それは簡単の話では無いんだ! 異性に抱く感情が悪だと言う訳じゃない、だがね、それは軽々しく向けていい感情でも無いんだよ! 人はそれぞれがそれぞれの感情というものを持ってるんだ。お互いをよく見て、お互いを理解し合って、そうして初めてお互いの感情に触れ合えるんだ! いきなり踏み込んでいい領域では無いんだよ!」
「せ……?」
女生徒は、宮野鈴は、困惑していた。震え続ける細い肩。恐怖に歪む赤い唇。その漆黒の瞳はまるで突然別の世界に訪れてしまったかのような動揺の色に揺れていた。初めて感情を知ってしまったかのような驚愕の色がその漆黒の瞳に浮かんでいた。
「……宮野クン、手を出してしまった事は済まなかった。でもね、君がやった行為は、それほどいけない事なんだ。男女の仲というのは難しい問題だよ。難しい、難しい。いや、男女で括ってはいけないね、そう、人間関係ってのが難しい。人によって思考が違う、感情が違う、想いが違う。何が良くて何が悪いか、その行為が相手にとって善行となるか悪行となるか、分からないんだ。本当に難しい問題なんだよ。それを理解し合うには長い時間が必要となるんだ」
「せ、先生……?」
「よく話し合あって、よくお互いの感情を見つめ合って、相手の良いところも悪いところも全部見て、そうして初めて笑い合えるんだ、手を握り合えるんだ、唇を重ね合わせられるんだ。僕の話を分かってくるかい、宮野クン?」
「は、は、はい……」
宮野鈴は涙を溢した。震えの止まらない体。制御出来ない感情。瞳を濡らす想いが宮野鈴の頬を濡らし続けた。まるで生まれて初めて涙を流したかのように。
青年は、新実三郎は、微笑んだ。肩を震わせて嗚咽する宮野鈴の背中をそっと撫でる。
黄金色のマリーゴールド。それは初夏の出来事だった。
その年の夏の終わりに、屋上から見上げる青空の下で、宮野鈴の儚い命が散った。
「あのさ、太田くんって卒業したらどうすんの?」
「……あ?」
「いや、ごめん急に……」
梅雨晴れの風に混じる湿った土の匂い。教室の空気は生暖かい。背中に汗を感じた中野翼は制服の裾を掴んでパタパタと動かした。
昼休みの教室に残った二人の生徒。黒板の文字を消していた太田翔吾はピタリと腕の動きを止めると、教壇前に立つ男を振り返った。暗い瞳の色。翼はゴクリと唾を飲み込む。
「……ほら、僕たちもう今年で卒業じゃん? だから、来年どうするのかなって思って」
「……来年?」
翔吾は困惑したように眉を顰めた。卒業も、来年も、今の翔吾には想像の枠を外れた未知の単語である。
窓の外の濁った青い空。横目にそれを見た翼は、ポリポリと頭を掻くと、翔吾の暗い瞳を見つめ直した。
「来年だよ、来年。僕たち一応受験生だよ? 就職するんなら関係ないけど、もしも大学進学するつもりならさ……まぁ、ちょっと遅すぎるけど、勉強しなきゃ」
「勉強って……はは」
「太田くんって就職するの?」
「……さぁ」
「さぁって……どうするんだよ、これから?」
「……さぁ」
「進学も就職もしないってマズいでしょ? 太田くんの親はなんて言ってるの?」
「……さぁ、知らねーって」
「知らないじゃ済まないって、一生に関わる問題じゃん?」
「知らねーつってんだろ!」
カッと目をギラつかせた翔吾は拳の裏で黒板殴りつけた。響き渡る衝撃音。驚いて飛び上がった翼は、万が一に備えて逃げる準備をした。
「……あのさ、太田くん。アンタさ、一生親に養われながら生きるつもり?」
「何だと?」
「一生親のすねを齧って生きるのかって聞いてんの。恥ずかしいぜ、そんな生き方」
「テメェ、ぶっ飛ばされてぇのか!」
ダンッと一歩踏み出した翔吾は、翼の胸ぐらを掴んで持ち上げた。逃げる間もない速度。翔吾は元柔道部である。
もう逃げられない。いや、元々逃げるつもりなんて無かっただろ。
深く息を吐いて覚悟を決めた翼は震える指を強く握り締めると、翔吾の目を睨み返した。
翼はイラついていたのだ。かつてはその陽気さで、そして今はその陰気さで翼をうんざりとさせる太田翔吾の存在に。
「は、反論出来ないと、暴力かよ!」
「いちいちうっせぇんだよ、テメェ、何様だ?」
「べ、別に何様でもないさ、ただどうすんのかって聞いてるだけだろ?」
「テメェにそんなこと言われる筋合いはねーよ」
「あ、あるさ……アンタの陰気な顔見てると、こっちの気が滅入るんだ」
「うるせーよ」
「なぁ、そろそろ顔上げろって」
「うるせーっつってんだろ!」
「ずっと下向いたまんまでさ、そんなんでこの先どうすんだよ」
「テメェ、何なんだよ! ……ほっとけよ、クソが」
「太田くん、いい加減にしろよ」
「……あ?」
「アンタ、自分をどうするつもりだ?」
「知らねーって、そんなの……」
手を離した翔吾は滲み出る涙を制服の袖で拭った。真っ直ぐ此方を見つめる翼の瞳に、自分の瞳が映ったのだ。それは、未だ意識の戻らない吉沢由里が怒りに震えていた時と同じ瞳の色だった。
鏡のようだ。
翔吾は嗚咽した。心配しているからこそ口煩くなるのである。翔吾が吉沢由里の身を本気で案じたように、中野翼は翔吾の身を本気で案じていたのだ。それに気が付いた翔吾は涙が止まらなくなった。
「おい、太田くん、大丈夫か?」
「ご、ごめん、翼くん、ごめん。お、お、俺さ、ど、どうすればいいか分かんねーんだ。どっちが前か、分かんなくなっちまったんだ……」
翔吾は素直な男だった。自分の非に気が付いた男の真っ直ぐな思い。ひねくれ者の翼はその急激な態度の軟化に激しく動揺した。彼には翔吾の心情が全く理解出来なかった。
「そ……そうなんだ。いや、うん、そういう事もあるさ、うん、大丈夫だよ」
「お、お前は、わ、分かってくれるのか? お、俺の事、分かろうとしてくれるのか?」
翔吾は衝撃を受けた。由里の怒りを分かろうともしてやらず、ただただ口煩く叱っていただけの自分。それと比べてこの男は、なんと器が大きいのであろうか。
ブワッと涙を溢れさせた翔吾に若干引いた翼は、苦い微笑を浮かべながら後ずさった。
「えっと、うん、分かるよ、分かる分かる。分かんなくなる事ってよくあるよ……ね?」
「うっ……ぐっ……。そ、そうなんだよ、ちくしょう……うっ……分かんねーんだよ、俺、どっちが前か、分かんなくなっちまった……」
「うんうん、あるよね、そういう事」
「何で……何でお前は、分かんなくなっちまう事を、分かっちまうんだ?」
「哲学だねぇ」
「な、なぁ、お、俺……ど、どうすればいいんだ?」
「うーん……取り敢えず、顔上げなきゃ、前がどっちか分かんないでしょ? 顔を上げたらいいんじゃないかな?」
晴天の霹靂。目を丸めた翔吾は、微笑を浮かべながら後ずさる翼に抱き付いた。有段者の速度である。涙と鼻水に顔を歪めた大柄の男の力強い抱擁に悲鳴を上げる男。中野翼の叫び声が青い空を濁らす梅雨の大気を震わせた。
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