纏う者
小坂健司は会社のデスクで頭を抱えた。
探偵を名乗る男に脅されていたのだ。遊びを家族にバラされたくなければ金を払え、と。
手渡された茶色い封筒には写真が束ねられていた。健司と長い黒髪の少女が手を繋ぐ、または肩を抱き合う、或いは唇を重ね合う写真の数々。万が一にもそれが白日の下に晒されれば私の人生は終わってしまうだろうと、健司は薄い髪に指を食い込ませた。
汗ばんだ指をポケットに突っ込む中年の男。取り出した名刺には業者登録のなされていない金融業者への番号が書かれている。銀行員である健司は定期的なチェックが入る為にカードローンを組めなかった。金を借りるならば闇金以外にない。
名刺と携帯を手に立ち上がる中年の男。健司は少し慌てたような動作でオフィスを出ていった。
水島幸平は手を握り締めた。薄暗い小部屋。目の前で眉を顰める肩の広い警察官。繰り返される言葉の応酬に幸平は疲れ果てていた。
「万年筆を購入された事は覚えているんですよね、水島さん?」
「はい……」
PARKERの万年筆。写真に収められたその黄金色のペン先は赤黒い。幸平は骨張った自分の拳をジッと睨んだ。
「では、いつこれを購入されましたか?」
「で、ですから昨年の10月頃だと……」
「10月の何日です?」
「は、はっきりとは覚えてないんですって、確か20か21か……は、半年以上も前の事ですし、あの頃は忙しかったから、お、思い出せないんです……」
「はぁ、では何故、この万年筆を購入しようと?」
「ですから……」
思い出せなかった。幸平は、何故自分が買う必要もない万年筆を買ってしまったのか、思い出す事が出来なかった。
「ですから?」
「で、ですから……思い出せない、と何度も……」
「水島さん、この万年筆、それこそ町の文房具屋で買うような安物買いではないでしょう? それに貴方、これを購入された店でギフトラッピングを頼まれていますよね。いったい、この万年筆を誰の為に買ったのか、思い出しては貰えませんか?」
「それは……その……」
「隠すのはお前の為になんねーぞ、水島」
警察官の声色が変わると、幸平はビクリと全身の筋肉を硬直させた。
「なぁ、おい、人が死んでんだよ、お前が買った万年筆で、人が一人死んでんだ。分かってんのか、お前?」
「は……は、はい……」
「分かってねーんだよ! 分かってたらそんな他人事みてぇな態度が取れるかよ! いつまでこのやり取り続けるつもりだ、テメェ!」
「す、す、すいません……すいません……」
「……あのね、水島さん、何も貴方の事を疑ってるわけじゃ無いんだ。ただ、貴方が誰にこれをプレゼントされたのか、我々はそれが聞きたいだけなんです」
柔らかな笑みを浮かべる警察官。幸平は肩を震わせたまま俯いた。
昨年の10月28日に起きた殺人事件。被害者である木之本英二もまた殺人犯であった。木之本英二は殺害される前日、唯一の肉親である母をバットで撲殺している。そして、その死体の拳に残された打撲痕と、下ろされたズボンの跡から、木之本英二は何者かに刺殺されるその直前までの間、誰かを襲っていた可能性が推測された。
襲われた本人が刺したか、通りかかった誰かが刺したか。それは被害届の出ていない事件だった。事件性はあれど重要性はない。最悪の放火殺人事件が起きる以前から、既に捜査は下火となっていた。
「……すいません、どうしても、思い出せないんです」
消え入りそうな声。ため息をついた警察官は腕を組むと目の前で項垂れる若い男を見下ろした。
思い出せないのではなく、言えないのだろう?
警察官は、彼の援助交際を疑っていた。恐らくは未成年との交際。であれば思い出せないの一点張りも納得出来る。
腕を組んだまま居眠りを始める警察官。たとえそれが法律違反であろうとも、被害届の無い若者同士の交際まで問い詰めようという気は彼には起きなかった。
幸平は俯いたままギュッと目を瞑った。消えた記憶は戻らない。殺人に関与したという噂で職場から孤立した男。幸平に出来るのは元の日常を願う事だけであった。
加藤仁の葬儀が静かに執り行われる。
僅かな参列者の視線の先。死装束に隠された刺青。棺で眠る大柄な男は、薬物中毒死したとは思えないほどに穏やかな表情をしていた。
何でぇ、薬なんぞに手ぇ出しちまったんだ……。
白髪の老人が唇を結ぶ。かつての加藤仁は義侠心に溢れたような清々しい熱血漢であった。そんな男が薬に溺れる姿など彼には想像もつかなかった。
棺に並ぶ写真。男の隣で微笑む和服の女。その首元に覗く青い墨に老人は手を合わせた。
セツさんも浮かばれねぇな……。
白いユリの花。棺布団の上の夫婦。背を向けた老人はポケットに手を入れると、春の夜に消えていった。
暗い体育倉庫は石壁の地下が如く肌寒い。長い間放置されていた為であろうか、梅雨が訪れたにも関わらず倉庫内の空気は乾燥していた。
何かを求めるように冷えた指を擦り合わせる女性教員。野村理恵は包装された錠剤を足の不揃いな机に並べていった。
超短時間作用型のマイスリーから長時間型のドラール。厄災によってPTSDを抱えた生徒の多い校舎で時間を掛けて集められた睡眠薬の数々。
理恵は顔を歪めて微笑んだ。やっと「いたみ」から解放されて自由になれるのだ、と。
20Lのゴミ袋の上に輪ゴムの箱を置いて手を合わせた理恵は、体育倉庫を出るとガチャリと扉の鍵を閉めた。
白髪の天使が歩くと端に避ける生徒たち。彼らは「いたみの会」の為に体育館へと向かっていた。暗がりで開かれるこの会は何度目であろうか。生徒たちの表情に感情は見えない。
報いの完遂は近かった。29年前の夏の罪。山本恵美への報いは今年の夏に終わりを迎える。その前に先ず、やっておかねばならない事があった。このF高校において生徒の存在はもはや不要である。罪を背負い罰を受けた彼らに早く死の幸を与えねばならなかった。
梅雨が終われば青い夏が始まる。それまでに山本恵美の存在を完全に孤立させねばならない。孤立させて強く思い出させるのである。孤独の中で強く感じさせるのである。憧れ嫉妬し愛した姉の存在を。傲慢で利己的で邪悪だった姉の存在を。
かつての完璧な女生徒。宮野鈴は邪悪であった。
その異性を惑わした微笑みも、同性を恐れさせた冷笑も、宮野鈴という存在を示す証とはならない。
宮野鈴の表す感情、表情、秋の夜に響く声、織り成される絹が如く白い指、紅い唇に艶かしく光る唾液の線、風に流れる細長い黒髪の香、その全てに込められた二つ以上の意味。宮野鈴に憧れた者も、宮野鈴を恐れた者も、彼女の存在が作り出す微笑の先を窺い知る事は出来なかった。
宮野鈴の妹。怪物の視線の元に育った人。宮野恵美は虚ろだった。
愛し、崇拝し、嫉妬するように育てられた人形。醜悪に、滑稽に、惨めなさまに作り上げられたレリーフ。その醜い外面と陰気な内面はどうにも、宮野鈴の手によって導かれた結果であるように思えた。光を際立たせる為の影。宮野鈴にとって、妹の存在理由はその程度であったのだろうと、新実和子は考えている。
宮野鈴が歩くと生徒たちは端に避けた。その長い黒髪を一目見ようと、その甘い香りの一端に触れようと、なんとか宮野鈴の漆黒の瞳から逃れようと、生徒たちは道を開けた。
教員たちもまた、宮野鈴の存在を愛し、恐れた。美貌の微笑に欲情を抱く男性教員。魔性の笑みに恐れを抱く女性教員。
白髪の天使、否、当時は夕暮れの影のような黒い髪を靡かせていた新実和子は、宮野鈴の存在を最大限に警戒した。それは、自分が目を掛け続けてきた少年の息子が、不幸にも、彼女を受け持つ担任となってしまったからだ。いったい宮野鈴という存在が、まだ教員となったばかりの青年にどんな厄災をもたらすか。純粋無垢で清廉潔白な青年の未来にどんな影をもたらすか。
宮野鈴の排除を真っ先に考えた。報いではなく排除、否、その存在の排除こそが、健気な青年への幸に繋がると新実和子は考えた。だが、それは難しかった。宮野鈴という完璧な女生徒は、その天真爛漫の衣を纏った魔性の少女は、異常なまでに他の気配に敏感だったのだ。
宮野鈴は気付いていた。この世に縛られた天使の存在を。学校を徘徊する新実和子の存在を。
それでも新実和子は動いた。排除の為の罰を、他を躙る唯我独尊の罪に対する報いを。
それは急を要する作業だった。宮野鈴が犯す罪の中で最も新実和子を警戒させたのが、その微笑から生まれる淫奔の業だったからである。宮野鈴という存在は、本来人が持つ筈の共感性や罪悪感といった感情を持ち合わせてはいなかった。罪を自制する心を持たない宮野鈴は異様に淫乱だったのだ。
宮野鈴はその魔性の笑みを、担任である新実三郎に、新実和子が見守る青年に向けていた。
ショートボブの天使。田中愛はもがいた。
白い煙を漂わせる岸本美咲が腕を掴んで離さないのである。
私立Y高校の花壇で揺れる花々。春の陽気に煌めく校舎。本来の職場であるF高校の花壇の手入れをしなければならないのだと、田中愛は白い煙の天使を睨み上げた。
説得。もはやF高校において花壇の手入れなど意味を持たないと説得を始める白い煙の天使。岸本美咲は片手で田中愛を押さえ付けたまま、咥えタバコを口元から離した。
意味のない事などないのだぞ、と田中愛は目を細めた。ヒナギクの白い花弁が春の終わりの風に流れる。
「行かせてあげなよ」
天使を認知する人の声。浅葱色の瞳の女生徒。雨宮伊織は新品の軍手の束を両手に抱えて微笑んだ。
二対一だと掴まれた腕を振る田中愛。白い煙を吐いた岸本美咲はやれやれと頭を掻いた。
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