失意の果てにこそ・・・

@yasnagano

失意の果てにこそ・・・

失意の果てにこそ・・・                    小田 晃

(1)辻中潤一の場合 その㈠

 ネット事業もやっぱりダメだった。健康食品を中堅どころの卸しから購入し、ネットで売ってみようとしたが、同じような商品が潰し合いのように価格を下げて、オレのところの商品が売れても殆ど利益が出ない。これでは生活もままならない。政府の働き方改革とやらで定年延長してあと5年働けるはずだったが、辻中潤一は定年延長を蹴って永年勤めた会社を60歳で辞め、人生の再出発のために独立起業をしようとしていろいろ手を出してきたのである。

 幸いなことか、不幸なことかはわからないが、オレには家族というものがない。独身を貫きたかったわけではないが、一度も結婚の経験がないのは、結局自分が女心をつかめなかっただけのことだ。好きで独身を貫いたわけではない。両親も早くに亡くした。兄弟姉妹もいない、この世界に独り放り出されたような孤立無援の人間だ。誰も助けてはくれないし、誰も助ける必要もない。退職金を取り崩しながらの損失補填の生活にも、もう、後がない。

 ネットビジネスの道に足を踏み入れるまで、学習塾フランチャイズ、大手コンビニのフランチャイズ経営にも手を出してはみたが、すべてが成功の兆しさえ感じることなく、その痕跡すら気泡のように消えてなくなった。同時にみるみるうちに手持ちの金は底を尽き、退職金は自分の人生を象徴するかのように訳もなく空中に飛散し、消失してしまった。もうすぐオレの人生そのものが底をつく。

 想えば、絶望という名の退職だった。本音を言えば、定年退職後の5年間を契約社員として会社に居座ることなど出来なかったのだ。そうするにはオレは上司からも同僚からも嫌われ過ぎていた。いや、嫌われるほど存在感があればまだいい方だ。要するにオレは存在感のない透明人間そのものだった。だから常に職場では透明人間としての仕事をしながら何とか生き抜いてきたし、当然のことながら、あらゆることに消極的にならざるを得なかったわけだ。こういう態度が同僚たちに余計な負担をかけ、当然の結果として上司からも疎まれた。だからオレみたいな職場のお荷物が定年延長という道を選択出来るはずもなかった。職場のみんながオレの退職を待ち望んでいたはずだ。同僚の期待に応えるには、定年退職こそがオレのとるべき唯一の選択肢だったのである。

 オレのサラリーマン生活の終焉劇は予定調和のごときものだった、と思う。退職後は、負け惜しみのように入門ビジネス書の何冊かを買いあさり、いっぱしの経営者になれるのではないか?と云うタチの悪い思い込みの虜になった。自分の頭の中で独立起業という言葉だけが独り歩きをし始めるのに時間はかからなかった。いくつかの「起業のためのセミナー」には定年の2,3年前から高い受講料を支払って参加し、自分には人から雇われるには才能があり過ぎて、職場で受け入れられなかったのだという、セミナー講師たちのマジックに簡単に引っかかった。彼らのマジックは、能力のないオレにもそれなりの才能、勿論実体なき才能という幻想を抱かせるには充分だった。起業なんて明日にでも出来ると思わせるのが彼らのマジックの実体だったのだ、と辻中もようやく理解出来るようになった。

有名セミナー講師たちの中には、いまにして思えばフランチャイジーを募る企業の回し者たちもかなりいたのではないか、と思う。ほんとにこの世の中、いろんなあくどい仕組みだらけだ。ある意味、オレのような身寄りもない能なし男が陥る貧困ビジネスの一つが、世の中に余多ある「起業ビジネスセミナー」という罠である。

 「ビジネスの仕組みづくり」という言葉を聞くと、もはや虫唾が走る。勤めている頃から、社長以下、経営陣に属する上司たちがまるでオウムの物まねのように、「わが社の未来を創るために、事業の新たな仕組みづくりについて、みなさんのお知恵をお借りしながらわが社の発展にお力を貸していただきたいのです!」と慇懃にぶちまけるのが、会社主催の飲み会の席での彼らの常套句だった。オレはそんなときどうしたかと言うと、アイツラはバカだ!と心の中で雄叫びをあげていたというわけだ。いや、それくらいしか出来なかったとも言える。

とは言え、会社のお偉いさんたちが口にする言葉を聞くと、必ず思い出すのが、子どもの頃に観たテレビの再放送映画だ。クレイジーキャッツの植木等が「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ、ああ、こりゃー!」というふざけたセリフこそ、実はサラリーマンの日常を戯画化した深い洞察が含まれているようにも感じるわけだ。映画の中の植木等は自由奔放だった。当時の親父の世代のリアルなサラリーマンたちは、植木等のサラリーマンシリーズを観て、映画館で腹を抱えて笑ったことだろう。しかし、親父たちの世代の現実の労働実態は、植木等のように午後5時きっかりに退社して、お気楽に飲み歩き、綺麗なお姉ちゃんたちと悪ふざけ出来るようなものとは縁遠かった。彼らの日常は残業に次ぐ残業で、靴をすり減らして駆けずり回る日々だった。疲れ果てて帰宅して来る親父の姿が今頃になって生々しく思い起こされる。靴底をすり減らしてこそ優秀な刑事だというダサい刑事ドラマようなプロトタイプよりもずっと当時の時代が凝縮されているように思う。過酷な日々の仕事の後、立ち寄る居酒屋のコップ酒がどれほどうまかったことだろうか?一杯の安酒が腹の底に沁み渡ったことだろう。

 親父たちの世代のサラリーマンは、庭と呼ぶにはあまりにも貧相な地べた付きの家を、土地付き一戸建て住宅と呼びならわしていた。一生涯かけて支払わなければ買えないので、銀行で住宅ローンをへーこらしながら申し込み、毎月の高すぎるローンを支払いながら、子どもの教育費や習い事の費用を捻出するギリギリの給料で生活をまかなっていたのである。これが当時のサラリーマンのリアルな姿だったと思う。残業は当たり前、帰宅すると、見慣れた女房の、何本ものカーラーという巻きもので髪を巻き付け、その上にネットをかぶり、首から下は透け透けの足首までピラーと開いたネグリジェ姿。ネグリジェから躰に合わない小さすぎる下着が透けて見える。クーラーは高くて買えず、当然寝苦しく、女房は布団を蹴飛ばしてアラレもない寝姿で、夫よりもひどい高いびきの毎日である。女房に迫るには萎え過ぎて男根とは到底表現出来ないほど情けなく垂れ下がったイチモツを、会社の若い女性社員の躰を想像しながらシゴクのである。枕元のティシュペーパーで後始末をそっとして、出来るだけ女房から躰を離して希望のない明日のために身体を休める。これが親父たちの日常生活のリアルな姿だったと思う。

 やってられない日々だからこそ、植木等の「無責任男」シリーズを映画館で観ながら、そして映画の中の職場が現実とかけ離れていればいるほど笑えたのではないのだろうか?「無責任男シリーズ」は、リアリティのなさゆえに彼らの笑いを超えた「泣き笑い」の複雑な心境の具象化だったとも言えるのではなかろうか?親父たちの実直な「泣き笑い」に想いを馳せ、オレも笑えもしない泣きの涙を流しながら、これから自分のねぐらに帰るのだ。

 辻中潤一は、定年退職したいまとなっては、親も身寄りもなく、親の遺してくれた要解体の「庭付き一戸建て住宅」を不動産業者の言い値で買い取られ、両親の命の値段がたった数百万だったのかという、虚しさよりも自分のいまの状況を上回ってしまうほどの惨めさが、かえって黒い笑いを誘う。もはやニヒルな笑いなどという余裕はない。腹の底から湧き出て来る、この笑いは死と隣り合わせの全身の引きつりだ。辻中はトボトボと小雨の中を、薄くなった頭頂部に直接降りかかって来る雨粒の冷たさを感じながら、いつものネットカフェに入った。

 辻中が愛用しているネットカフェは、京都を中心に数店舗を展開するなかなか居心地のいいところで、彼は正会員登録者として堂々と?寝泊りしている。入会金はたった350円だし、いくつか使い方があったが、辻中に都合がよかったのは、ナイト8時間会員だった。午後8時から午前4時までなら、入店した時点から8時間居座れる。シャワーは無料。モーニングサービスも無料。ドリンクは飲み放題。甘いものが欲しいときや、夕食を食べ損ねたときは、ソフトクリーム食べ放題に挑戦する。パソコンにとPUレザーの、最大倒して150゜程度の一人用の古びたソファだけの狭い空間だけれど、途中外出も出来るし、フリーWi-Fiも使えるとなれば、保証人もいない天涯孤独の辻中みたいなおっさんにも、ここは慣れれば麗しの我が家である。

シャワーを簡単に済ませ、備え付けの洗濯機で洗い置きしておいた下着類は、会員の特典としての同部屋に居座れる権利を行使して、そこに吊るしたビニールヒモに掛けて乾かしてある。乾いたかに見えてしっとりと湿気を感じる下着に着替えると、わざとらしいオーガニック柔軟剤の香りに騙されて、パソコンに向かってしばらくエロ中のエロ動画を観る。その後は決まって「世界の車窓から」というDVDをパソコンに差し入れて、自分がついに行けなかった世界中の美しい風景の中を、優雅に電車に揺られているかのような疑似体験を想像の世界で創り出すのだ。30分もすれば、辻中は心地よい眠りの中に落ちる。「世界の車窓から」を鑑賞しながら眠りに落ちる、この一瞬こそがいまの辻中のたった一つの幸福のカタチになった。

(2)瑞樹有紗の場合 その㈠

 瑞樹有紗は、幼い頃から並外れた能力を発揮した。勉強は常にトップで、大学は地元の京都大学に大して苦労なく入った。友達からもてはやされて育ってきたせいか、何でも自分中心でなければ不機嫌になる。まわりの人間たちは、有紗が勉強は出来ても容姿に欠陥を見出せる程度の女なら、目に余る高慢ちきさを嫉妬と優越感の微妙な均衡の中で許すことも出来たのだろう。あるいは、彼女を可愛いいが性格が悪い女というベールに包めたのかも知れないが、有紗は、顔の造作もスタイルも、背の高さもモデル並み。頭脳も彼女に抗える人間はまずいなかったと言っても過言ではない。男子学生たちは完敗ゆえの無視の嵐を彼女に浴びせることで留飲を下げた。その結果、完全に彼女は男子医学生たちの視野から外されることになった。

しかし、京大生ともなると、これまで男なんて自分の奴隷的存在だとタカを括ってきた輩とは随分違っていることに気づかされた。いろいろなサークルを入っては辞め、辞めては入りしてきたが、どこのサークルにも無条件に自分にひれ伏すようなタイプの男たちは少なかった。有紗も人を人とも思わない傲慢さがあったが、京大の中でも医学部まで辿り着くと、自由な学び舎どころか、かえって男尊女卑の世界だ、ということが身に沁みて分かった。それだけでなく、これが世の中の常識的な男優位の典型なのだと思い知らされた。ここまでこの現実を知らずに生きて来られたのは、自分の視野が狭かっただけだ。それに勉強もひと際目立って出来て、それだけで両親も自分のわがままを受け入れていたからに他ならない、といまにして思う。

病院長の、京大医学部出身の父が典型的な男尊女卑の、イヤな男の代表格だと思って育ってきたが、ここには父のミニチュアがいるわいるわ。一皮むけばそんなのばっかりだった。 

 有紗は父の跡継ぎになるために医学部を受験し、合格したが、医学部こそ、男の、自分ではそれとは知らず、女を見下す決定的な場になっているのだと悟ったとき、彼女は両親に内緒で文学部に転部した。どうせなら金儲けと最も縁遠く感じられる文学部哲学科に籍を置いてみようと思ったのである。両親にこの間の事情を知られたのは半年もしてからのことだった。当然のことながら、有紗は父の激昂に遭い、大学入学祝いに父が勝ってくれた左京区の3LDKの快適だったマンションを追い出され、生活費も仕送りされなくなった。授業料だけは何とか払ってくれていたようだが、大学に行くのにアルバイトをしなければならなくなった。同じ学部の先輩女子学生がキャバクラでバイトすれば何とかましな学生生活が送れるわよ、と言ってくれたのを真に受けて祇園のキャバクラの面接を受けたらすぐに採用となり、面接の日から酒飲みのオッサン連中を相手に、意味のない会話に、ぶっきらぼうにつき合ってやったら、ぶっきらぼうさで、かえって人気が出てすぐにその店のNo.1になった。男尊女卑の金持ちのオッサンたちには、マゾヒズムも芽生えるらしい。男尊女卑のマゾヒストなんて身の毛がよだつが、父だって例外ではないだろう。祇園で接待されるときには、私のような女に疑似的にひれ伏すのだろうと想像すると背筋が寒くなった。

 いまや両親が与えてくれたマンションより高級な鴨川沿いのマンションに移り住み、哲学書とマンガを半々くらいの割合で夜の出勤まで読みふけった。大学にはレポートの提出と試験を受けにいくだけだった。それでも有紗は大学の単位を楽々とっていった。生活費も住居も取り上げれば、心を入れ替えて再び医学部に戻ると両親は期待していたようだが、有紗に世界をまったく違う角度から視ることに手を貸したのは、他ならぬ両親だったとは何とも皮肉なことだった。父と同じくらいの年かさの男との味気ないセックスの後で、タバコをふかせている時にそう思った。最初に大枚の金を受け取って、相手の好き放題な変態的なセックスをさせたのはどこかのIT企業の社長だったように記憶しているが、どうしてもその男の顔が思い浮かばない。有紗はどんな性的志向の持ち主も受け入れたが、金のない男は一切相手にしなかった。

 セックスにおける否定的な常套句は「ただれた性の営み」だとか「性に身を売り渡した女」だとか言うようだけれど、有紗にはまったく当てはまらないと感じられた。性という快楽を、武田泰淳の作品のように「快楽(けらく)」と敢えて呼びたいのは、性によって馬鹿になる人間も大勢いるけれど、性によって自分という人間が何ものなのかを知ることが出来る人間だっているのではないか、と有紗は思っているからだ。性行為はそのための意義ある人間的欲動の発露だと有紗は感じる立場の人間なのだと思おうとした。心のどこかで違和感を抱きながらも、これが金持ちと金銭的関係だけで自分の躰を開く正当な理由だと有紗は自分に言い聞かせた。

有紗に入れあげて、平凡なサラリーマンも時折入店して来るが、彼らの方が金持ちよりもエセ物のきらびやかさに弱い。カードローンの自転車操業で私に入れあげ、挙句の果ては自己破産の憂き目に遇う。それも自己責任でしょう?と有紗は割り切った。彼らの多くは家庭崩壊し、路上生活者になっていった。有紗は、路上生活者としての世界観を想像しながら、ドストエフスキーの「地下室の手記」ふうにダラダラと書いて、ある変わり種の出版社に持ち込んだら、これが予想を裏切ってかなり売れた。その後の思い付きで書いた数編のエロ・グロ満載の作品で、一部のコアーなファンは、彼女こそ性の享楽の意義について濃密な性の営みを描き切る天才的作家だともてはやした。しかし、有紗は頭のどこかで、これは自分の望んでいた生き方ではない、とはっきりと理解していた。

 キャバクラで稼いだお金と印税で、鴨川沿いの広いマンションを購入したが、徐々に何も書けなくなってしまった。京都大学生であり、キャバクラのNo.1であり、陳腐な処女作がヒットした「作家先生」もついに行き詰ってしまった。マンションに帰っても、編集者に次作をせっつかれる電話が執拗にかかってくるので、最近はタクシーを飛ばして四条大宮のネットカフェに通う日が多くなった。何日間か通ううちに、澱んだ空気と、不潔な男の体臭に辟易していた自分の感覚に化学変化が起きた。この澱みこそが自分に安息を与えてくれることに気がついた。自分には想像も出来なかった世界がここにあると感じたからなのだろうか?

ブランド物のスポーツバックに数日分の下着とユニクロで買ったスウェットの上下(これは何より適度に貧相な居心地の良さを与えてくれるから好きだ)を入れて、タクシーから降り立つと雨がコートを濡らしたが、敢えて傘はささなかった。自分の体臭と混じって解き放たれる蒸気が、ネットカフェの澱んだ空気を自分好みの汚泥の臭いに変えてくれる。そのためには適度な不潔な湿気が今の自分には不可欠だと考えたからだ。

 有紗は、グッチの財布から会員証を出し、受付で自分用の特別室を別料金を支払って、たいして他の部屋と代り映えのしないいつもの部屋に入った。自分の部屋はいくつか並んでいるレギュラー部室の端っこだったが、薄い壁の向こうからエロ動画の喘ぎ声が聞こえ、規則的な摩擦音がしばらく続き、その後、静寂が訪れる。その後は、「世界の車窓から」のDVDのガタゴトという列車の音だけが聞こえる。ものの30分もすると隣の住人は軽いイビキをかいて寝てしまう。お隣さんとは何度か出会った。後頭部のハゲ具合はまるでずっと昔に日本にやって来た宣教師のようだ。客観的には冴えないオッサンだけれど、もはや女に悪さも出来ないほど世の中に疲れた様子が見てとれる。この私を見ても大した興味を示さないのはどうかと思うが、それがまた宣教師を彷彿とさせるから不思議だ。

 このオッサンはもうDVDの中の、人形みたいに男の言いなりになるAV嬢にしか異性を感じられなくなってしまったようだ。妄想の中に身を任せて、ネットカフェの狭い空間で自分のイチモツをしごくのが日課になっているこのオッサンの、これまでの人生を覗き見してみたくもなる。

 次の作品が書けるとしたら、こういうオッサンの人生なのかも知れないと有紗は根拠もなく漠然と思うようになった。自宅のマンションのジャグジーでゆっくりと躰をほぐしてきたので、あとは薄い毛布に包まって、「あしたのジョー」シリーズのボクシングマンガの世界にのめり込むしかないな、と有紗はパソコンの横に積み上げたマンガの一冊に目を通しながら眠りに落ちるのだった。最近の有紗にとっての、この瞬間が至福のひとときとなってしまった。眠りに落ちた有紗の顔にはきれいな笑みが浮かんでいた。

(3)平戸良平の場合 その㈠

 新幹線が米原を過ぎたあたりから雨がひどくなった。間もなく京都だ。平戸良平は、グリーン車の窓から横なぐりの雨の向こうに目を凝らしていると、永らく見ていなかったライトアップされた京都タワーが迫って来た。良平は「なんであんなのを駅の真ん前にオッ立てたのだろう?」とたいして意味のない言葉を呟いた。28才、たぶんオレにとって最後のボクシングの世界タイトルマッチだったはずだ。しかし、ライト級の歴史上最強チャンピオンと呼び声の高かったメキシコ人選手の執拗なボディブローと顔面への鋭いストレートを何発ももらって5ラウンドでノックアウトされた。倒される直前の最後の一撃はお手本のような右アッパーカットだった。意識が遠のき、マットに倒れ込む瞬間、結局オレは自分に負けたのだと思った。

誰もが25戦全勝、23KOのオレがチャンピオンになると予想していた。誰よりオレ自身がそう信じていた。東京ドームで大々的に行われた注目の一戦だったが、試合がはじまって、こちらに向かって来る30才を過ぎたサントス選手の目力の強さからオレは思わず目を逸らした。オレだってボクシング以外に飯の種はないにしろ、このユルイ日本に生まれ育った人間と明日の食い物をどうして手に入れるのかが生活の原点だと自覚しているチャンピオンとの気迫の差は歴然としていた。決してボクシングのテクニックやパンチ力や体力でオレが劣っているとは思わなかったが、勝敗以前に「生き抜こうとする」力の、明確な差異が勝敗を分けたのだといまのオレは感じている。

 オレのことを誰よりもガッツがあると言ってくれる人たちはたくさんいるが、正直、今夜のオレはリング上で、向かってくる敵を心底怖れた。第一ラウンドのゴングが鳴り響き、自分のコーナーから飛び出し、チャンピオンとグローブを合わせた瞬間に、すでにオレは敗北していたのではないだろうか?そんな気がしてならない。日本人選手のすべてがヤワなのでは勿論ない。現実に日本人チャンピオンも数人いる。が、オレはヤンチャで喧嘩はめっぽう強かったにせよ、心はヤワだったとお思う。喧嘩相手の顔面にパンチを打ち込むことが殆どなかったのは、そうしなくても喧嘩には勝てたという自信の結果ではない。相手の目の奥から透けて見える憎悪や悲哀の現れを直視することが出来なかったのだ。だからオレの喧嘩の攻め手は、主にケリと腹部へのパンチだった。躊躇なく打ち込んでくる相手のオレの顔面へのパンチをうまくかわせないときは、その痛みに耐えてケリを入れた。オレが中学校時代のケンカで負けなしだったのは、相手から受ける攻撃に対する痛みを我慢する忍耐力と同時に、休みなく攻め続ける根気ゆえだったのだと思う。

 マンガの「あしたのジョー」に憧れて、中学卒業と同時に京都を出て、東京の何人も世界チャンピオンを輩出しているボクシングジムの門を叩いた。食うや食わずのアルバイト生活だったが、そのせいか、減量の苦しみには悩まされることが少なかったように思う。喰らうことにたいして興味がなかったせいもある。幼い頃から貧しかったが、喰らわねば命がない、というほど追い詰められたことはない。むしろ食うことに執着が少なければ、空腹にも耐えられる。そんな貧困の乗り切り方で良平は今日まで耐え抜いてきたのである。今日の試合を決した最大の要因は、喰らうことへの執念の強さ、弱さの結果だったのではなかろうか?良平のボクシングテクニックも、打たれ強さもこれまでの試合で証明済みだ。その意味では今日のタイトルマッチは内面の勝負そのものだった。良平は自分の内心の脆弱さに敗北した。チャンピオンの眼球の奥底に宿る生き抜こうとする胆力に負けたのだ。

 試合に負けて控室に帰って来た時、ジムの会長がまだやれる。次の試合であいつを負かしてやろうじゃないかと励ましてくれたが、会長の目がおまえはもうダメだな、と言っているような気がして、会長が控室から出て行ったのを見計らって、シャワーを浴び、私服に着替え、腫れ上がった目元を隠すために濃いサングラスをかけて外に向かって廊下を駆け抜けた。目の前を走り抜けようとするタクシーを止めて、新幹線の品川駅に辿り着いた。人目につかぬようにグリーン車に乗り、京都を目指した。負け犬がしっぽをまいて逃げるとはよく言ったもので、良平の京都への逃避行は、まさに負け犬のそれだった。

 新幹線は京都駅のホームに着いた。良平は、京都駅正面改札口とは逆の八条口の方へ向かった。八条口近くの、昔ながらの火鉢に網を載せて肉を焼く自宅兼店舗の中は焼肉が焼け焦げる煙が充満していることだろう。良平は試合に負けた自分が家族に慰められている姿を想像すると、身体全体に寒気が走って思わず目の前のタクシー乗り場のタクシーに乗り込んだ。長期間の減量が、京都に着いてやっと人間としての自然な空腹感を感じさせた。慣れ親しんだ焼肉がいいし、特に小さい時から慣れ親しんだ仕入れ値の安いホルモンが無性に食いたかったが、実家以外であっても、焼肉は自分の敗北感が余計に心の傷を抉るように思えて焼肉屋に入るのを避けた。そんなことを考えているうちに、窓の景色は阪急四条大宮駅周辺に変わって行った。タクシー運転手にはともかくしばらく西に走ってくれ、と頼んでいたが、さすがにこのあたりで降りようと思った。タクシー代を払い、車を降りると小降りの雨の向こうに中華料理店が見えた。京都中にある店舗の、ここが本店だったことを思い出す。店に入り、焼き餃子を5人前平らげ、ニラレバとチャーハンを無心に食べ終わったら、試合に負けた自分のことをもう一度見直そうか、という気になった。闘争心と減量による飢餓感が自分から人間らしさを奪い去っていたことに気づいたからだ。

 今日のねぐらは?と自問した途端、ネットカフェの看板が目に入った。ホテルも何となく人の目が気になった。どうせ今日一日のことだ。ネットカフェでいいではないか、と思い、中華料理屋から歩いてすぐのネットカフェのドアを開けて受付で広めの部屋がいいんだ、と告げた。正会員になれば、連泊も出来るというので、連泊などする気もなかったが、店員に勧められるがままに安い会員費を支払って、案内された部屋に入った。すえた臭いの部屋で、「あしたのジョー」でも全巻読もうかと思って、部屋を出て本棚の「あしたのジョー」を探すと前半の数巻が借り出されてしまっていた。店員に聞くと、どこかの部屋の女性が借り出しているらしい。仕方がないので棚に残った数巻を借り出して、自分の部屋に入った。ペラペラとページを繰っていくうちに、現実のボクシングはマンガのような恰好よさとは無縁の、ただただ過酷な世界なのだと思い知った。身体が徐々にぐったりとなり、もしかしたら隣の部屋には「あしたのジョー」を読んでいる女がいるのだ、と思うと、長い禁欲生活のせいか、薄い壁の向こうに女がいるかも知れないと想像するだけで、自分のモノを数回しごいただけでピュッと白い液体が目の前のパソコンまで飛び散った。良平は、オレの中の試合に出せなかった、これがすべてなのか?と妙に神妙にパソコンの画面に飛び散った白い半透明の液体を愛おしく拭った。

(4)池内宏子の場合 その㈠

 大阪から阪急電車に乗って京都の左京区の自宅に帰る途中で、池内宏子は今日もたぶん面接で落とされるな、と感じていた通りになった。もうコートが必要な季節になっているのに、仕事は一向に決まらない。

 私が輝いていたのは小学生までで、中学の後半頃から成績は下がる一方だった。その原因は同級生の平野大輔くんに私のことが好きだと告白されてから、平野くんの大きなお屋敷のような自宅で一緒に勉強するようになってからだと思う。夏のある日、大輔くんが私の唇を奪った。それだけでなく、大輔くんは私の前で素っ裸になり、私にもそうするように求めた。私たちは怖々、男と女のすることを、その日から毎日するようになった。私は放課後、大輔くんの部屋に行き、大半の時間をセックスに費やした。段々と私の方が大輔くんを強く求めるようになった。秋口あたりには私たちの躰の関係は底のない深みにはまっていった。

 男の子っておかしなもので、私の方から彼を求めるようになってから大輔くんは徐々に私を遠ざけるようになった。いまにして思えば私のことが重くなったのだと理解出来るけれど、当時は意味が分からずただ哀しいだけで、それでも躰の欲求は確かにあり、大輔くんに会わなくなってからは、独りで自分の躰の火照りをなだめる術を知った。一日にクリトリスの疼きは何度も訪れ、学校にいる間もトイレの中で自分を慰撫する毎日になった。

 大輔くんはセックスで、体内のもやもやを晴らし、頭がクリアになったのか、京都市内でも一流の進学校に合格し、私は評判のよくない中高一貫の女子高校に通うことになった。その後、彼は東京大学に入ったと噂で聞き、私は同じ学園の大学の家政学部に入った。詳しくは知らないけれど、大輔くんは大手商社に就職が内定したらしく、当の私はと言えば、秋口になってもまだ就職先が決まらない。両親の、関西圏で勤めなさいという命令を破れず、毎日のように来る日も来る日も大阪と京都の間を、勤め先を求めて行ったり来たりというありさま。今日もダメだと感じた。私のダメ予感は絶対的に当たるのが悔しい。

 いつもと同じように四条烏丸駅で阪急電車を降り、市バスで左京区の両親と兄夫婦が同居する家に帰るのだ。玄関のドアを開け、リビングに入ると、いまや彼らの私を見る目は落胆を通り越して、むしろ残酷な優しさに溢れたものになった。自分だけが実家の余計者であることを実感させられる瞬間だ。この種のルーティーンに耐えられる人間はそうはいない。私はとりわけ中学のときの大輔くんとのことを直接聞かれはしないが、私の躰が子どものそれから大人の女の線を帯びだしたことを母親は見逃さなかった。母は父には何も告げることなく、中学生の私に男の人って何にもなしでしたがるけどね、ダメよ、あなたが気をつけなければ、と意味深なことを言うだけだった。そんな心配はしなくても、私より大輔くんの方が避妊の知識には詳しくて、どんなに興奮しても、絶対にコンドームをつける冷静さを失うことはなかった。大輔くんは、性を放出することで頭の働きをクリアにしたい、という目的を逸脱することはなかったのだと、ずっと後になって理解出来た。頭をクリアにした大輔くんは京都の超一流の進学校に入り、東大に進学して一流企業に入社した。絵に描いたようなエリート路線の人生だけれど、どこかでコケろ!と密かに私は念じている。

さすがに今日もいつものように就職試験に惨敗して、自宅の空々しく慈悲深い視線に晒されることに嫌気がさして、四条大宮駅で意味なく下車してしまった。一人カラオケで、懐かしのメロディーに入っている井上陽水の「傘がない」を絶唱しようか、と思ったが、君に会いに行くのに傘がない~!と言う趣旨の無意味な歌詞がやけに自分のいまの心境を言い表し過ぎていて、かえって辛くなり、駅前のカラオケボックスに入るのをやめて、隣のネットカフェに入った。今日は独りで寝たかったけれど、ホテルに泊まるお金もなかったので、消去法で入ったのがネットカフェだったというだけの理由だった。初めて入って、正直びっくりした。料金表とサービス内容を眺めて、ネットカフェほど価格破壊に挑戦しているところはないと驚嘆した。これだけ安くても、私のような客が途絶えることはないわけで、この世界のあり方を底の底まで見抜いたある種のスマートな貧困ビジネスだと思う。ナイト8時間料金を支払って、指紋がベタベタくっついたパソコンを触る気はしないけれど、除菌ペーパーで指をくるんで、アメリカテレビ番組の「シャーロックホームズ」を観ながら寝ることにした。ワトソン役が女性であることも斬新だけれど、ワトソン役が時代に取り残されたようなおかしな服装のリューシー・リューなのがいい。顔もスタイルも私並みによくないのにドラマの中では妙にモテ女なのが現実離れしていて、気が楽になる。これは字幕スーパーものより、日本語吹き替え版の方が、登場するすべての役者を生かしている稀有な作品だと思っているのは私だけなのだろうか。疲れているのか、二話目の途中で意識が遠のいた。

(5)辻中潤一の場合 その㈡

 今朝はやけに腹が減って目が覚めた。辻中潤一は今日もけだるい一日のはじまりかよ~、と呟きながら朝食バイキングコーナーにトボトボと歩を進めた。まずまずのホテルの朝食バイキングと比べると、料理の選択肢は約半分くらいの貧祖なものだったし、野菜は微妙に萎びているし、スクランブルエッグはそもそも好みでないのは、何より見た目が嘔吐物のようにしか見えないからダメだ。インスタントコーヒーよりまずいエスプレッソマシンから噴き出てくる濃すぎるコーヒーをちびちびと喉に流し込む。卵も大切な栄養源だ、とここに通うようになってやっと認識出来た一つの成果なのかも知れない。スクランブルエッグは嫌いでも、いまはむしろ敢えて皿に多めに盛り付ける。歳をとると、見た目や味より滋養のためだ、と辻中は心の底で念仏のように唱えながら、スクランブルエッグの次にシワシワのゆでソーセージを嚙みしだく。

 目覚めが遅いせいか、バイキングコーナーにはもう殆ど人がいない。常連たちも通常この時刻には出払ってしまう。今日のバイキングコーナーに座っているのはオレを含めてたった4人だけだ。

 一人は男なら誰でもそそられる女性だ。トイレに行くために部屋を出たときにたまに出会う、ネットカフェにはあまりに不似合いな、小ぎれいで、スタイル抜群、外見だけで判断するのは大抵間違っているとは云うものの、たいしたインテリ顔の年齢不詳の美形に辻中には見える。無理して安物のスウェットを着ているのが透けて見えるほど、彼女は絶対にオレが経験したことのない世界を歩き続けている女性だろうとも思う。たとえると、泥沼から咲き出てくる蓮のような場違いな美しさだ。と、感じた瞬間に、綺麗な花はたくさんあるのに蓮の花が連想されるなんて、何となく自分に死が訪れかけているのか、あるいは極楽往生を願っている深層心理が働いているのかも知れないと感じて深いため息が出る。

 もう一人の女性は、地味なリクルートスーツに身を包んでいる。辻中にはまだ熟していない果物のように素朴に見えるが、妙に色気を感じる。高級な果物とは言い難いが、食えば果汁がたっぷりと出そうな女だ。彼女はイチジクが熟す過程の、色の薄い目立たない貧層さに似ている。しかし、顔立ちは悪くない。もし自分にこんな娘がいて、嫌われていなければ、休日には家族で買い物に出かけ、女房のものはさておき、娘の身のまわりのものは存分に買ってやりたい、と思うくらいの可憐さが見てとれる。

 服の上からでも分かるほど体躯のがっちりとした、余計な脂肪を削ぎ落したようなギリシャ彫刻のような若者が、粗末な朝食の一つ一つのメニューをこれでもか、というくらいに自分の皿に大盛にして、がっついている。ご飯の盛り方は、昨今まず見なくなった茶碗の上に山型が出来るほどの芸術的なものだ。炭水化物が糖質の大きな要素であり、糖質制限することで、おなかの出っ張りをとりましょう、という風潮に反抗するように食いまくっているのである。その様は自分の境遇に反抗しながら食っているようにさえ見える。反抗という論理をかざして見れば、オレは勿論だが、朝食バイキングコーナーにいるオレを含めた4人ともに、世の中にそれぞれのカタチで抗っているように思われてならない。

 とは言え、彼らはオレとは違い、いっときの人生の迷いの中を彷徨っているだけなのだろうから、朝食を済ませ、互いに自分の部屋にもどってしまえば、ナイト8時間の決まりに従って、それぞれがここを出ていくのだ。インテリ顔のフェロモンたっぷりの彼女とだけは何度か会ったにせよ、彼ら三人と顔を合わせるのは、たぶん今日が最後になるのだろうと思うと孤独感が深まった。やれやれ、孤独感ってやつは、どこの角度からもオレを狙い撃ちするように胸の奥底に刺さってくるやっかいな存在だな、と辻中は呟きながら部屋に帰り、時間ギリギリまで粘ってから、ネットカフェを後にした。

(6)辻中潤一の場合 その㈢

 辻中の服装はいつもとは大違いな、かなり端正なスーツ姿である。洋服の青山で買った吊りスーツの中では値段が張った代物だ。今日は辻中の人生最後ともいうべき挑戦の日だ。両親が残してくれた少なすぎる家の売却代金の相続分と、深い考えもなく手をつけては失敗して、殆ど使い果たした退職金の残りの金の全部を次ぎ込んで、京都の北区にある破産しかけた介護福祉事務所を買いたたくのだ。改装費を浮かし、持ち帰り中心の弁当屋を開業する計画である。京都の北区の高級住宅地も外観はともかく、いまや住民は老人が殆どだ。かつてこの地に50坪から100坪程度の庭付き一戸建ての注文住宅を建てられる人々は、京都市内でもかなり裕福な人々だった、と聞く。大抵は一家の主(あるじ)は小さくても伝統ある事業主でがっちり儲けているか、会社員でも多くは京都に地盤を置く大企業の役職者たちだったらしい。しかし、大抵の事業主も、大企業の役職者たちも年老い、かつての地位を退き、年金生活者として生きている。銀行預金は平凡なサラリーマンなど比べようもない程の額が通帳に記載されているが、この先の長きに渡る老いを考えると、浪費を避け、ひっそりと暮らすことで、精神の安定を得ているように見える。何十年かの風雪のせいで、お屋敷のあちこちが痛み切っているが、そこには目が向かないように辻中には見える。外からは見えないが、老夫婦が食すための料理も、いきおい手抜きになりがちだろう。北区に両親だけが住んでいる辻中のかつての同僚が知らせてくれた話だ。オレはこの事務所を買い取って、最後の勝負に出るのだと萎えた自分を辻中は叱咤激励して、ターゲットの介護福祉事務所の経営者との事務所譲渡に関する話し合いに入った。

 辻中には、この事務所を、少し割高にはなるが手の込んだ持ち帰り弁当屋として再生させる青写真があった。この地区に住む人々が何を望んでいるのかをあれこれ考え抜いて結論に達したのだ。福祉介護事務所を安値で買い取るためにかつての経営者に辻中はねぎらいの言葉を多用した。オレは、これまで散々だまされ、ないがしろにされてきた人間だ。今回こそは昨日までの自分の立場を逆手にとって、この介護福祉施設を安値で買いたたくのだと辻中は心に固く誓っていたからである。

「ここはですね、場所がいいのでね、まあ、大手の介護施設が入り込んで来たことと、何せ人手が集まらなくて、こういうお話をさせていただいているのですが。敷地面積も広いですし、どのようなビジネスをなさるにもなかなか条件はいいと思うわけですけど」と現在の経営者はぼそぼそと言った。

 ならば、何故続けなかったのだ?要するに改善策も思い浮かばず、もうお手上げ状態のまま成り行きにまかせたからだろう?まあ、そういう意味ではオレだって偉そうなことを言える立場ではないが、少なくともいまは違う!辻中は要領の得ない話し方をする現経営者にうんざりとしながら言った。

「お聞きするところによりますと、現在の介護の契約件数は20件足らずですね。これはさっきお話にあった大手の介護施設に顧客を持っていかれたということですね。私はこの状況下で、介護福祉事務所としての将来性を見出せませんが、違うビジネスならば、十分ではないにしても経営は成り立つのではないか、と思っています。大幅に利益が見込めないという私なりの試算からは、出せる資金はお目通しの契約書に記載させていただいている金額が精いっぱいなのです。いろいろとお腹の探り合いはしたくはないので、その契約でご不満があれば、この話はなかったことにしてください。」辻中は強気で押し通した。

 辻中にとっては勝負の瞬間だった。買い手にとっては買いたたき物件だが、交渉相手にとっては、これまでの損失をいかに小さくするかの見極めどころだ。数分の沈黙が辻中には永遠に続く無言の時間のように感じられた。神さま、仏さま、アラーの神、やおよろずの神々さま、オレの最後の人生の挑戦なのですよ。お力をお貸しください!と辻中には最も似合わぬことを念じている自分に驚いた。そして、どうやら今回は、オレ、本気なんだな、と、何ともおかしな感覚の只中にいる自分にむしろあたふたとした。

「分かりました。契約成立と行きましょう。辻中さん、あなたのご成功をお祈りしていますよ。この条件で契約書を取り交わしましょう。」と今度は不動産屋が現経営者にあらかじめ打ち合わせしていたかのような目くばせをしながら言った。

 よし、これでよい。オレは確かに少し手の込んだ持ち帰り弁当屋が大当たりするとは思っていない。とはいえ、人の集め方、人の育成の仕方にすべてがかかっているように思えるのだ。また、この地域はプライドの高さだけは多分京都でも一二を争う地域だ。そういうことを総合的に考え、どのような類の弁当屋が需要に見合うのか?ざっくりとしていてもそれなりの青写真が必要だ。辻中は心の声を聞きながら、すでに経営を始める具体的なあれこれを頭の片隅で考え始めていたのである。辻中は売買契約書を精査することもなく取り交わして、その日のうちに売買代金を指定口座に振り込んだ。ともかく辻中は売買契約に関わることは一刻も早く済ませてしまいたかったのである。

 ともあれ腹がへった。周りを見回してもなかなか定食屋のような店さえ見当たらない。定食屋があるところまで歩き、丼ものでも食って、それからパチンコでもして、ヒートアップした頭を冷やすことにしよう。今夜はネットカフェでエロ動画なんか観ないで、高級っぽく見える持ち帰り弁当屋をどのように経営していくのか、その青写真を描いてみようか。うん、そうしよう。オレの人生の仕上げのためだ。頑張らねば、と辻中は心の中で呟いた。

 パチンコで散々負けて、辻中は、朝食バイキングが食べられるように時間を逆算してナイト8時間コースで、いつものネットカフェに入った。夕食はコンビニ弁当だ。今夜は記念すべき日だ。コンビニ弁当に加えて缶ビールを二本買った。缶ビールを二本買ったのは、頭をクリアにしておくためだと都合のいい理屈をつけた。現実的にアルコールが頭をクリアに出来るのかどうかは別にして、彼は本気だったのである。

 辻中は会社員時代、その殆どを人事部で過ごした。会社の外から見ていると分からないのだろうが、人事部は一部のエリートのいっときの止まり木であって、辻中のような万年人事部社員が多かった。要はどこの部署に行っても使い勝手の悪い人間たちの吹き溜まりの場と言ったら言い過ぎだろうか?御多分に漏れず辻中も退職時は、とってつけたような実体のない名称だけの役職者だった。彼の役職は、人事部課長代理であった。定年時に課長代理というのはいかにも冴えないサラリーマン人生だった、と辻中自身が誰よりも自覚している。

しかし、辻中は密かに人事の本質を見抜いた人間だったのである。それはこういうことだ。どの会社にも社員の評価がついてまわるが、そもそも評価の在り方が人間の本質の真逆であるというのが辻中の胸中にある永年の想いなのである。大抵の会社の評価は予め社員に課したノルマ達成の指標としてしか機能していないと彼は感じ取っていた。もっと言えば、人間を数値的達成度だけで、出来る社員か、そうでないかを選別していくシステムが、人事評価の要になっていて、それが一部のやり手社員を除いた大半の社員のモチベーションにまるで繋がらない悪循環を生み出しているのである。辻中は、そう云った人事評価から何の刺激も受けることがなかったし、やる気も出なかった。当然彼は自分が見抜いた人事評価の本質のどおりに、使えない社員として位置づけられたのである。

とはいえ、よほど小さな会社でない限りは、大雑把に言うと、景気が極端に悪くならなければ、表面上は給与体系が出世系とそれ以外の二本立てに分かれているだけで、リストラにさえ遭わなければ、いくら物凄い高得点の評価を上げた社員の給与と辻中のそれとは昇進で追い抜かれない限り、給与の金額だけをとり上げれば、大して変わらないのである。辻中の人事部職員としての呟きは、オレの会社は社会主義国のそれか?と思ってしまうほど非効率で人のやる気を削ぎ取る人事評価をしていたことになる。それにしても辻中のような出来ない社員にとっては幸運だったとは言える。辻中より下の世代になると、そうはいかなくなるだろう。働き方改革という美名の陰で、辻中のような無能な社員は脱落者という烙印を押され、早期退職を促されることになるだろうからである。

 ネットカフェで考えはじめ、具体的に青写真を描きながら、老人相手の、散歩がてらに少しのプライドを満たせる弁当屋ビジネスは、思っていたほど困難なものではないことに気づいた。人事部で鬱積していた想いの数々は辻中にとって、いまとなっては大切な経営的視点として動き始めたのである。彼の胸中は次のようなものだった。

 まずは内部の構築だ。雇用する人間のやる気を出させる評価方法の確立だ。誰が監督指導し、その指導によってはじめようとしている小さなビジネスに対して、将来に期待を抱ける組織づくりが事業の成功に繋がるのである。そのための中核は、正しい評価とそれに基づく給与体系のあり方、ただその一点にかかっている。賃金そのものは安くとも数人の雇用者全員を正職員とするのである。自分が一個の人間としてはっきりと認知されている自覚がなければ、雇用者から想像的なアイディアは得られない。そんなことを一気にノートに書き付けた瞬時、辻中はにんまりとした。

 とりあえず調理師資格のある調理責任者を一人、責任者として雇い入れる。性別は問わない。給与は基本給を設定し、その後は店の売り上げ高に応じて上下させる。働き手に売り上げを上げるための知恵を絞らせるのだ。辻中には、本来ありふれた発想が、とてつもなく斬新な経営方針であるかのように感じられるのだった。辻中はじんわりとした幸福感を感じた。いったい何年ぶりの感覚だろうか?と想いを馳せた。

 明日、ハローワークに雇用条件を明記した応募をかけよう。すぐに何人も応募してくるだろうから、買い取った介護福祉事務所を面接の場としよう。それにつまらない介護用品をガラスケースに展示するような空間を取っ払い、かなり広く調理場に改装しよう。数種類の弁当を当面合計して200食程度作れる弁当づくりの調理場に改築する。両親の雀の涙ほどの一戸建て住宅を売った金ですべてまかなえると思うと辻中自身が段々と浮き浮きした気分になって来るのだった。あとは、料理担当の腕のいい家庭の主婦と、栄養士の資格を持ちながら、子育てのために仕事を辞めて家庭に入ってしまい、その後子育てが終わった主婦をターゲットにする。ともかくうまい料理が作れる人でなければならない。これで大手介護福祉事業者が提供する粗末な食事に飽き飽きしている老人たちを満足させることが出来る。弁当の値段は大して安く抑える必要はない。安価を売りにするより、誰でもうまいと感じるものを提供しよう。

 経営に関わることにも積極的に参加すると云うのは、辻中の考え方では、雇用者自身が高い評価を得られるような仕事をし、給与が上がるような仕組みをつくればよいということになる。間接的にでも褒めて育てる。これが会社員時代決して褒められたことのない辻中の求めて止まぬことでもあり、確固たる信条であった。この事業は確実に伸びると辻中は確信を抱いていた。

(7)瑞樹有紗の場合 その㈡

 瑞樹有紗は、遅い朝食をとりにバイキングルームに行ってみたら、自分の次の小説の題材にするかも知れないと密かに考えていた冴えないオッサンは、今朝はもう朝食を済ませバイキングルームから出て来るところだった。面と向かって鉢合わせたカタチになったのは初めてだったが、今朝は明らかにいつもの様子とは違う。

 ドブネズミ色のジャンパーと、たぶんサラリーマン時代に着古した、時代のトレンドに逆らうようなダボっとしたズボン(もはや、パンツとは言い難い代物だ)に、ジャンパーのチャックをだらしなく開けているものだから、ジャンパーの中の、いつ買ったのかも分からない日曜日のお父さん風の、毛玉が目立つセーターが見え隠れする風体がこれまでの有紗にとっての、オッサンの強い印象だった。

 どうせ洋服の量販店の吊るしだろうが、今朝は初めて目にするスーツ姿にネクタイと云ったいでたちだ。孫にも衣装とはよく言ったもので、オッサンにもスーツだな、とフッと笑いが有紗の口許から漏れた。隣部屋のオッサンは、スーツを身に着けたせいか、猫背の背中が幾分シャキとして見える。靴下は、いまどきどこに売っているのかも分からない、スケスケのナイロン製だ。靴は直接見てはいないが、新聞広告に出ているような質の悪い皮か、PU製のスリッポンみたいなものだろう。何となく想像がつく。何から何まで、自分がかなりの額のお小遣いを頂戴していた60代の金持ち連中とはかけ離れた存在だ。しかし、有紗の心のどこかでこのちぐはぐさに惹かれるというか、おもしろさを感じる自分がいることだけは確かだった。

 今朝、鉢合わせした瞬間に見せた、はにかんだような軽い笑みが不思議に初々しい。私を高級ホテルのベッドに誘うオッサン連中は身体中をブランドモノで固めているが、それが私には、勇気のない戦国武将の甲冑のように感じるときが時折ある。金で女を買っているのに、外面だけは経営者ヅラしている連中には、あなた方からお金をとったら、何も残らないのではないの?とつい問いかけたくなる時があるが、そういうことは水商売では御法度だから口にはしない。けれど、作家の端くれ、哲学部の学生としては、言いたいことはたくさんある。その多くは父親に対する批判と重なることが多いことに気づいて、たとえ反抗していても、結局は親の影響の強さに辟易とさせられる。

 自分はこれからいったいどうすればいいのだろう?見かけの選択肢はたくさんある。医学部にもどる。あるいはこのまま哲学をやって卒業して、親の言いなりになって、お育ちのいいボンボンの医者を養子にでも迎えて、父親の満足を得る。なんてことをぼんやり考えてもみる。どれもすぐに手がとどくことばかりだが、自分の本質とは最も遠く離れたもののように感じられる。瑞樹有紗は人生の迷いの只中にいる自分を少しだけ好きで、また同時に大嫌いでもあった。

 ともかくあの今朝のオッサンの生きざまを大仰にアレンジした、大した金も稼げなかった中高年の再生の物語を書いてみようか、と有紗は思う。どうせ、嘘っぱちなんだけれど、そういうところにしかいまの自分が「再生」する道はなさそうな気がする。でも、もう一方で一行も書けないようにも思えて、情けなさに身もだえる。

(8)平戸良平の場合 その㈡

 平戸良平はあくる日の朝、遅い朝食をとるためにバイキングルームに入ると同時に身体に合わないスーツで正装した冴えないオッサンが足早に出て行くのとすれ違った。オッサンはオレの顔は見ていない。それが幸いだ。何よりもし自分の顔をまじまじと見られたら、ひょっとすると、一応世界ライト級チャンピオン選を戦い破れた「ジョー平戸」だと見破られて何やかやとうるさいことになりそうだからである。オッサンが外出してから、皿に盛った粗末な食事をただただ顔を伏せて食っていたが、近くから視線を感じた。おかしなもので、人から観察されているな、という感覚は膚感覚で分かるものらしい。良平は斜め横からの自分に向けられている執拗な視線の方をチラッと見た。その瞬時、思いもかけないため息が出たのである。あんな綺麗な女は見たことがない、と心底思った。美しい女性はたくさんいるだろうが、要はあらゆる点で良平好みの女だったのだ。

 女はこちらに近づいてきた。習い性になっているのか、良平は思わず身をかがめた。「あなた、サングラスをかけているけれど、サングラスの隙間からあなたの瞼が腫れ上がっているのが見えるのよ。それに裂傷もあるようだし。よければ私の部屋に来てくれないかしら?」「何でそんなことが分かるわけ?」良平は敢えて心の叫びとは真逆に素っ気なく聞いた。「私ね、元医学部生。メスとか傷口を縫合する用具がつまった医療キットを持っているわ。何だかそれだけは捨てられなくて、どこにでも持ち歩く習慣があるみたい。自分でも論理的な理由なんて見当たらないんだけど。ねぇ、ねぇ、ちょっとサングラスを外させてね。」その行為は有無を言わさぬ素早さだった。まるでERの医者並みだな、と良平は為されるがままに呟いた。「右の瞼の腫れが特にひどいわね。左も似たり寄ったりだけど、右は深い裂傷がある。これはすぐに縫わないと、血はとまっていても傷跡が深く残るわよ。それにあなたボクサーなんでしょう?このままだと軽いジャブですぐに傷口が開いてしまうわ。すぐに縫いましょう。麻酔がないから少し痛むけど、せいぜい6,7針程度だからあなたなら我慢出来るでしょう?」

 恥ずかしいことだが、良平は縫われている間、子どものような悲鳴を上げた。打たれて腫れ上がった皮膚に針を刺されると、痛みは倍増する。「この状態で麻酔なしはキツイよ」と良平は小さな叫び声を上げた。有紗は傷口を縫合しながら、この人なかなかの美男子だし、いい声だわ、という自分の心の声を聞いてむしろ驚いた。異性にこんな感情を抱いたことがなかったからである。お金で躰を開いたとき、かなりの年寄りでもこれだけさまざまな性的欲求を持っているのか、と驚かされ、彼らの要求にはどんなことにも応じたが、繰り返すうちにセックスの無意味さを認識するばかりだったのに。有紗には、目の前の顔の相が、こぶしで殴られて原型を留めないほどに傷んだ男の本来の涼やかな顔が見える。たぶん、私はこういう人が好きなのだ、と思うのだった。

 傷口の縫合と恥ずかしがる男の身体全体をチェックしながら、その他の無数の傷と打撲の治療で1時間くらいかかっただろうか。男は途中から観念したのか、すべてを有紗に委ねていた。「昨夜は痛くて眠れなかったでしょう、あしたのジョーさん?」「ありがとう。ほんとに。白状するよ。オレ、ジョー平戸。今朝の各社のスポーツ新聞にはたぶんデカデカと、ジョー平戸、世界タイトルマッチに敗北して行方不明って載ってるはずだよ。」

 「そうなんだ~。あなたがジョー平戸なんだ。私、案外ファン。でも、熱狂的なファンというわけではなかった。攻めに甘さがあるから、あなたが最終的に勝っても、ホッとしてしまって、勝利の熱狂が湧かないのよね。でも、案外ファンだというのは、あなたが闘いながら相手のことを気遣っているのが分かるから。ボクサーにはあってはならないことだけど、私は、一人くらいこういう人がいてもいいのかな、って思って、やっぱり案外ファンというわけ。そういう意味で、あなたはボクサーには向いていない気がする。優しすぎるのよ。」

 良平は、自分には学歴もないが、誰にも理解出来ない複雑な心的風景の持ち主だと自負していた。しかし、ネットカフェで出会ったばかりの、この女に自分の心を解剖するかのように見抜かれ、すべてを言い当てられた気がして反論するどころか、最初の印象よりももっと好きになった。それが幻想であっても、これが運命の人との出会いなのだ、と信じようとする自分に気がついた。

 「僕は平戸良平と言います。あなたがおっしゃったことはすべてあたっています。こんなことを言うのは生まれて初めてなのですが、あなたを見た瞬間から、僕には正確に分析出来ませんが、なんというか、絆のような強い繋がりを感じました。あなたがどのような人かもよく知りません。でも、いまの僕の素直な気持ちは、あなたに愛のようなものを感じているということです。あまりにも安易に愛という言葉を使うと思うのでしょうが、僕が愛しているかも知れないと告白したのはあなたが生まれて初めてなのです。こんなことを会ったばかりの女性に告白するのは馬鹿の象徴みたいな人間だと感じられると思いますし、また、僕が試合会場から逃げ出してもどることも出来ず、心細くなってすがる想いでこんなことを言っているのだろうってあなたは感じていると思いますが、そういうことではありません。」

 「素直にありがとう、と言うわ。でも、私のこれまでの人生っていってもたいして永く生きているわけではないけれど、あなたがそこまで言ってくれるなら、私も正直に言わざるを得ないわね。いいわ、それじゃあ、私が喋り終わるまで黙って聞いていて頂戴ね。」有紗は、自分がいまこのネットカフェに来た理由や、この場所に辿り着くまでの経緯を余すところなく語った。そんな義理は有紗にはなかったが、全てを語りつくしたい、という強い衝動に突き動かされたのである。彼女にもこの人に語りつくすことによって救われたいと想う気持ちが強くあったというべきだろうか。私の話を聞いて、引くならそれでいい。有紗はそれでも語り尽くしたい、救われたいという気持ちの方が勝ったのである。

(9)池内宏子の場合 その㈡

 結局、池内宏子はまる二日間、このネットカフェから一歩も出られなかった。ナイト8時間の料金を超える分の料金を支払い、朝食バイキングを済ませ、今日も一応面接に応じるという会社に出向こうかと努力しながら服装を整えたが、どうしても身体が重く、気分も沈んでしまった。ネットカフェは出たものの、何度か信号がかわっても動けない自分の肩を軽く叩かれた。親しみを込めたものだとすぐに分かったので、自然に面接用に身についてしまった笑顔で振り返った。見覚えのない中高年のオッサンだったが、決して怪しさは感じなかったので、どこかでお会いしましたか?と丁寧に尋ねた。オッサンは、「ほら、あなたが出て来たネットカフェの朝食バイキングで今朝初めてお見受けしたものでね、何だか元気がなさそうなので失礼を承知でお声をかけました。」とオッサンは気さくに答えた。声も立ち振る舞いも嫌味がなかったので、どうやら自分の心がこのオッサンを受け入れていることに気がついた。

 「就活かい?気が重いだろうなあ、さぞかし。僕は会社というところから退職した身だけど、今になってみると、よくもまあ、あんなところに定年までいたものだ、と思うからね。ああ、いや、ごめんね、これから就職しようとしている人にこんなことは言うべきじゃなかったね。自己紹介が遅れましたが、僕は辻中潤一と申します。」とオッサンは言った。

 この人、意外いい人かも知れない、とすぐに気を許してしまう自分の悪い癖を意識しながらも、宏子はそう思った。この人に下心があってもいいや、今日は就活に大阪に行くのも気が進まないし、お茶にでも誘われたらのっかってやろうかしらん、と、うだうだ考えていると、案の定、「どう?そのあたりでお茶でも一緒に?」と言ったので、「いいですよ。」と即答してしまった。軽い女だと思われたのかも、と思ったが、こんなオッサンとどうこうなるわけもないし、まあ、いいか、と自分に言い聞かせた。

 フルーツパーラーの二階で、フルーツサンドイッチとコーヒーをおごってもらい、そのお礼と言っては失礼かとも思ったが、しばらくこのオッサンの話に付き合うことにした。「自己紹介が遅れて申し訳ありませんでした。私、池内宏子といいます。只今就活中の身で、この時期に至ってもまだ採用が決まっていません。自分がこれまで何をしてきたのか、と反省している毎日です。」とやたらとすらすらと自分の裡に燻ぶっている感情が言葉になったことに彼女自身が驚いた。

 辻中は宏子の言葉を継ぐように、「あまりに時間が経ちすぎて記憶も薄れているけどね、やっぱり就職の頃は神経がすり減った感じがしますよ。そういえば大学入試もそうだった。でもね、どっちも終わってしまえばどうってことないし、その後は結構ダラダラと生きて行けるものなんだと、いまは思いますね。いまのあなたには実感がないかも知れないけれどね。実際そうなんだなあ、これが。ところで、あなたの学部はどこなの?」「家政学部です。この時代、家政学部の受け皿は小さいです。苦労させられています。一応栄養士の資格だけは持っていますけど、こんな資格を持っている人はごまんといますから、大して意味がありません。」それを聞いて、もしかしたら、オレのビジネスに誘えるかも知れないと辻中は心密かに思った。何せ栄養価だとか、素材にうるさい昨今だ。オレの目指しているビジネスは、販売する弁当の素材表示を明示して客に信用を売る仕事でもある。そんなことを考えながらも、若すぎる女とこんなに身近にいる機会が殆どなかったので、辻中の躰に予期せぬ反応が起きた。日頃は萎えている下半身がムクムクと起き上がっているのに我ながら驚いた。射精さえしかねないほどだと感じ、思わず両足に力を込めて自分のオトコを悟られまいと懸命になっていたら、両膝が触れんばかりの距離に座っている池内宏子が、「どうかしました?辻中さん、何か気を悪くされました?急に黙ってしまったので、私のせいかと心配しています。」と問いかけてきた。

辻中はヒロコ、もうはや村中の胸中では、池内宏子ではなく、ヒロコという語彙の転換がなされていて、ちがう、ちがう、オレはヒロコに欲情してしまって、久々の自分の股間の隆起をヒロコに悟られまいと必死なんだよ、と心の中で必死に訴えていたのである。

「池内さんがどこの企業に入ろうとしているのかは分かりませんが、僕はね、京都の北区のかつての高級住宅地をターゲットにした介護福祉事務所を居抜きで買い取ってね、そこを僕なりに考えた経営方針で持ち帰り弁当屋を始めてみようとしている最中なんですよ。コンビニ弁当よりもずっと味わいの深いお弁当を提供したいと思っているんです。単価はコンビニ弁当よりも少し高くなりますが、人はその時々、いろんなものが食べたくなるでしょう?その一助になれば、と思っています。とにかく、ありふれたものにはしたくないというのが僕の考え方です。価格の安さだけでもなく、栄養価だけでもなく、美食だけでもない、調和のとれた弁当屋をつくろうとしています。」

「そうですか、私、辻中さんのお話の中で一番感心させられたのは、生意気なことを言うようですけれど、限度のある中で最高のものをつくってお客さまに提供しようとしている気概みたいなものですね。辻中さんのお話をお聞きして何だかすっきりとした気持ちになれました。ありがとうございます。それにこんなにおいしいもの、ご馳走になってしまって。」

 辻中は心の中で、ヒロコはなかなかしっかりしているな、と感嘆してしまった。頭もいい。これまで企業面接で散々な目に遭ってきたのは、ヒロコがありふれた面接試験用の応答集を繰り返してきたからだろうな。肩の力を抜いて日頃考えていることを端的に、堂々と面接官に向かって言ってやればいいだけなのに。それに今どきはすぐにセクハラだと非難されることだろうけど、ヒロコは決して美人とは言えないが、この若さにはないエロスの香に、面接官は意外に弱いものだ。ヒロコは自分で自分の良さが分かっていない。この子はそのことに気づけばどこにでも受かるはずだ。辻中はヒロコの潜在能力の高さを嗅ぎ分けている自分に酔った。オレは会社員時代、こんな気持ちになったことは一度もなかったな、と感慨深く自分の過去を振り返った。しかし、その一方で、自分の娘のようなヒロコを何とかしようなんていう気持ちは、自分のこれから始める事業のことを話し、ヒロコの就活の現況を聞くうちに消えてなくなった。これを理性や良心の目覚めというような馬鹿げた精神論では片づけられないだろう。辻中は、ただ、怖気づいたのだ。そりゃあ、何とかヒロコが弱っている間に優しい父性を装って、ヒロコのあたたかく、毛穴すら発見出来ないようなスベスベした躰をこの手の中に感じ、ヒロコの溢れんばかりの愛液の中に自分を押し入れることが出来ればどれほどいいかと考えない方がどうかしている。

 しかし、同時に話をすればするほど、辻中は、ヒロコは、池内宏子という確固とした人格として認識されるべき女性なのだ、と思わざるを得なかったのである。金や地位を使って、若すぎる女をモノにするジジイはたくさんいるだろうが、むしろしたり顔で、娘のような女には興味がない、と装うジジイの心境が、いまの自分のそれだろう、と辻中は心の奥底で諒解したのである。オスとして使い物にならなくなったジジイは別にして、まだまだ現役のオレの欲情の抑え方は半端ではないな、と今更ながら思うのだ。今夜もAV女優という役割を背負った女優のあられもない姿を見ながら自分のナニをしごくことにしよう。いや、それが年老いた自分の理性?というべきだろう。今日は一度実家に帰って来るという池内宏子の後ろ姿をバス停で見送りながら、彼女とはもう二度と会えないのだろうと思うと、一瞬だが、ひどく切ない気分になった。

 ノートパソコンを抱えてコーヒー一杯で粘れる喫茶店に鞍替えして損益計算書のシュミレーションをつくることにした。辻中は、「オレは辛抱強く出世も出来ない会社で黙って働いて来たが、この種の事務的能力は意識して磨いてきたつもりだ。オレの人生最後の大勝負の助けにしないでどうする?」と辻中はニンマリしながらパソコンを開き、エクセルを立ち上げた。

(10)平戸良平と瑞樹有紗 その㈠

 平戸良平と瑞樹有紗は、ナイト8時間のギリギリまでネットカフェの自販機の前のキャンプ場の板づくりのようなテーブルを挟んで座り、互いの身の上を話すきっかけを探るように語り合った。良平も有紗も人と対等に向き合ってこれだけ真剣に語り合おうとした経験はなかったが、それが二人にとって自然で気持ちがよかったのである。

 ネットカフェを出る時刻になり、二人は揃って出かけることになった。着替えを取りに帰るために有紗の鴨川沿いの豪奢なマンション向かった。阪急電車に乗るのもよかったが、それよりも自分たち以外の人間には出来るなら顔を合わせたくない、という気持ちからタクシーで四条大宮から有紗のマンションまで向かうことにした。近くのコンビニで必要なものだけを買い、歩きながら自然に手が触れ、そのまま手をつないでマンションに入った。有紗の部屋は最上階で、窓から見える鴨川が流れる景色は京都という概念を切り取ったように良平の目の前に厳然と広がっていた。自分が産まれ育った京都とは何一つ共通点がなかった。有紗の部屋には生活感があまり感じられなかったが、それでも趣味のいい家具が整えられ、息苦しさを感じることはなかった。むしろ清潔な生活を営んできたのだろう、有紗の人柄を良平は感じ取っていた。良平は自分の身体が要求するがまま、深く息を吸った。ささくれ立った気分がほぐされていくのを自覚し、有紗の入れているコーヒーの香りが心地よい、と思った。

 真っ白な皮のソファにゆったりと座っていた良平は、目の前のガラス製のテーブルにコーヒーカップが置かれるのを意識の中で捉えていたが、カップが置かれた瞬時に、有紗を腕の中に抱きしめた。女の躰がこんなにも自分が求めて止まなかった存在であったことを、そして有紗でなければたぶんずっと得られなかったであろう、直情的で、直截過ぎるほどの溢れるような感情を良平は自らの躰で感じとった。二人は言葉など必要ないとでもいうように、有紗に導かれるようにベットルームへ向かった。

 二人の愛の営みは決して激しく狂おしいものではなかった。むしろ互いの愛を確かめるようにひとつひとつの動作に意味があり、意味あることを出来るだけ永く味わい尽くそうという意図を互いに認識し合っていた。二人にとって口づけは口づけそのものではなかった。それは二人の唇の感触の味わいの確認であり、互いの舌は絡まって一つの有機体であることを確かめ合うように永く、永く、絡みつき、重なり合い、舐り合った。口の中で二人の唾液は交じり合い、交じり合うことで光合成のように有意味に混ざり合った粘液の粘りが、二人の愛の営みを徐々に深化させる躍動力に変化していった。二人はどちらかが愛の営みの主導権を持つのか、という概念自体が無化するほどに入り乱れ、混在しながら、重複する役割を自然に、躰の中から湧き出る欲求のままに良平は有紗を求め、有紗も良平を求めた。二人の性はとどまるところを知らなかった。有紗の首筋から柔らかだが、弾力ある乳房、肌色に近い乳首を良平は舐めまわし、味わっていくと、有紗も良平と同じようにあたかも良平が自分と同じ女のように愛撫していくのであった。良平は、有紗の腿からふくらはぎへ、女性の脆さと同時によく鍛え上げられたアキレス腱を舐めまわし、足の指を根っこから口の中で転がすように舌で愛撫すると、目の先には有紗のヴァギナから愛液が溢れ出ているのが見てとれた。良平は、ふくらはぎの内側から腿を舌で舐め上げながら、有紗の溢れ出る愛液を愛おしむように味わい、飲み干すように吸い尽くした。ヴァギナのまわりから奥深くへと良平は舌を優しくこじ入れ、有紗の体内の繊細なヒダの感触を飽きることなく味わった。しっかりと刻まれたヒダの感触を良平の舌は敏感に感じとり、それとともに有紗という女への愛が止めどなく深化して行った。ヴァギナから舌を抜き、愛液を引きずりながら、有紗の精巧な機械のようによく締まったアヌスに自分の舌の先を差し入れて、奥へ奥へと分け入った。有紗も、良平と同じ愛撫を返してくるのだった。有紗のフェラチオが良平のオトコをさらにそそり立たせた。こうして二人は無言のうちに、お互いの喘ぎ声を聞き取りながら、性のあらゆる体位というものを二人の共同作業のように突き詰めて行ったと言っても過言ではない。二人は何度も何度も交わり、その度に愛撫の極限まで行き着き、果てることなき性の饗宴の中で悶え続けた。カーテンから朝日が指して来るのに気がついた。二人は一睡もせずにお互いの躰を確かめ合い、それ以上に、人間的な絆の深さを分かち合いながら、光の中で深い眠りの中に落ちて行った。

(11)池内宏子場合 その㈢

 池内宏子は、辻中との喫茶店での会話を反芻しながら、その日の実家での夕食を就職浪人寸前の自分の境遇をいつもよりも穏やかに済ませた、両親とまだ子どもに恵まれない兄夫婦との4人の会話を自分に対する慰めだと僻むようなこともなく、久々に穏やかな気持ちになって食事を楽しんだ。宏子は長く荒んだ日々を送っていたのに、自分だけが社会に認められないという被害妄想から自由になれたのだと心の奥深くで諒解していたのだ。あと一歩のところで、ホームレスになるだろう崖っぷちで踏ん張っている冴えない男から聞かされた話によって、自分の中に巣くう自己憐憫のいやらしさに気づいてしまったことがその要因かも知れない。宏子にとって幸運だったことは、恐らくだが、辻中潤一というオッサンは、ウソ偽りのない話を私にしたのだ、という確信がどういうわけか揺るがなかったことである。

 人間なんていい加減なもので、天使と悪魔が同居している。機会と場所によって、何の脈絡もなく、いずれかの顔が姿を現すのだ、と宏子は大輔くんとの、幼いけれど果てしのない欲情の中に溺れてしまったときのことを思い出す。大輔くんに自分の心が反映されて、時折自分に投げかけられる侮辱的な言葉や、セックスの行為の中に現れ出る行為から宏子は大輔くんに限らず、勿論自分も含めて、人間っていうのは皆それぞれ醜悪な心がどうしようもなく潜んでいるのだということを学んでいたのである。だから、大輔くんが男の性を私の躰の中に放出して、勉強に勤しんだことを別に自分が利用されたとか、恨みに思ったことはない。私は、大輔くんが好きだったし、彼が望むなら思い切りやらせてやろうと思った。自分では大輔くんを慰撫する聖母のような行為なんだと言い聞かせていたけれど、実際は私自身が大輔くんの愛撫をいつだって求めていたし、彼との交接の凄さに抗えなかっただけだといまは心底思う。大輔くんを必要以上に性的行為にのめり込ませたのは、実は私自身の悪魔的な性に対する執着(しゅうじゃく)だったのだと理解している。次第に大輔くんが私から離れていったのは、彼が私の性への激情を過剰なるものと認識したからではないかと思う。しばしば、「過剰なるもの」はジャンルを問わず、他者を怯ませるのだ、と大輔くんと別れてから何かの本で読んだ。恋愛指南の本ではなく、哲学書(だったかな?)それをペラペラと浅く読んでいたときに、「過剰なるもの」に対する定義を自分なりに理解した。多分間違っているだろうけれど、それがあの頃から現在に至るまでの私の裡の「過剰なるもの」の定義と解釈だと信じている。

 辻中のオッサンも私をお茶に誘った当初は、完全に私の躰狙いだったと確信がある。私は世間に、どう見えている?私には結構正確に自分の姿がどう見えているのかが分かる。パッと男の目を引くタイプではないけれど、まあ、十人並みの器量。躰だって男の気をそそるほどには女のフェロモンが出ている。それに大人しそうに見えるから、男にやられてもギャーギャー騒ぎはしないと勝手に思われるタイプ。私は男たちにこんなふうに評価されがちな女だ。躰の芯に火がつけば望むように喘いでいるさまが男たちには想像出来るだろう。ある意味、これは私のもともとの持ち味というよりも大輔くんとの「過剰な」までのセックスのせいだ。俗な言い方をすれば、大輔くんが私をオンナにしたわけだ。

 私は鈍い女じゃあない。辻中のオッサンの股間が私に反応していることは、喫茶店の席に向かい合って座った瞬間から分かっていた。そういうとき、男の目線はうつろだ。辻中のオッサンも例外ではなかった。心の中で、この弱った若い女だったら何とかモノに出来る、と確信したはずだ。私はフルーツサンドを食べながら、早く誘えばいいのに、と心の底で呟いていたのに、どこでどう間違えたのか、辻中のオッサンはこれから始める仕事のことを延々と語り始めた。それも就活中の、どこにも受からない私に対して、実に細かいところまで自分の計画とその実施のためのプロセスまで披歴した。正直驚いた。たぶん、辻中のオッサンの中の、何としても目の前の適度に落としやすそうな女を口説き落とすことから、就活連敗中の女に対して、希望を与えようと急激に舵を切ったのだ、と思う。何がそうさせたのかは私には分からない。辻中のオッサンにも分からないだろう。良心の呵責?いや、そんなものではないことだけは分かる。人間なんて、結局のところ天使と悪魔の間を行ったり来たりしながら生きている存在だ改めて想う。いつ、どのような動機でどちらに振れるのかは本人にも確固たることは分からないはず。でも、あのときの辻中のオッサンが語る姿を思い出すと、生きる意欲が出たことは確かだから辻中のオッサンには感謝、感謝である。

 数日就活は休むことにして、家でお昼間のテレビ番組を観て暮らしたが、あまりにもつまらなくて、そろそろ活動したくなってきた。でも、いまの私にとっての活動とは、大阪で受かる見込みのない面接を受けるというより、例のネットカフェに出向くことしか頭に浮かばなかった。気がついたら、服装を整えて、出かける準備をしていた。両親はやっと元気を出して就活に励むのだろうと勝手に思っているのだろう。けれど、私は一路、四条大宮のネットカフェに向かった。バスと電車を乗り継ぐのも面倒なのでタクシーで目的地の玄関先に乗り付けた。玄関のガラス戸を押し開け、受付のお兄さんに会員証を見せた。今日は入った時間帯が前とは違ったので、お得なナイト8時間の特権は使えず、会員証の割引だけで入ることにした。幸い、前回と同じ部屋が空いていたのでそこに入ることになった。隣に辻中のオッサンや、反対側のお隣さんの鍛え抜いた細マッチョさんや、そのお隣の、たぶん実年齢は自分よりはだいぶ下みたいだけれど、色気は自分には到底敵わない、色気と美しさが両立した、あのエロさ満点のおねえさん(心的・肉体的には完全にお姉さんだからそう呼ぼう)がいるとも限らないのに、私は同じ状況のもとにもどってきたのだ、と不思議なくらい懐かしい気持ちになっていた。

(12)辻中潤一 その㈣

 辻中潤一の起業の目論見は、廃業した介護福祉事務所を安く買いたたいたところで頓挫していた。応募してきた何人かと面接もした。しかし、辻中が実現しようとするプレミア持ち帰り弁当事業に必要なのは、まずは優れた調理師と栄養士の確保だ。それに栄養計算に沿った料理をおいしく作れる料理上手なサポート役のおばちゃんたちが必要だった。しかし誰一人辻中のお眼鏡にかなう応募者はいなかった。事業計画の仕組みは辻中の頭の中では完璧に出来上がっていたのに、さて、目の前の現実と向き合うと実現不可能性ばかりが押し寄せて来るのである。辻中は焦っていた。

 面接に来る応募者の中でも、本当にこいつ働く意思があるのか?と感じる中年女性が混じっており、また、同時に辻中の男を刺激する女たちも混じっていた。女にもてるという経験がない辻中だったが、経営者という立場を振りかざせば、フェロモンムンムンの女たちには、オレが性をともにする男に感じられたのだろうか?辻中にはたとえそれが仮想であれ、肩書でなびく女たちがいるのだ、ということがこのとき初めて分かった気がした。オレのこれまでの人生、根本から手のひら返しもいいとこだ、と辻中は心の中で毒づいた。色気があっても、この種の女たちを雇うことはなかったが、安上がりに済む近くのラブホテルで何人かと心の通わない性をむさぼった。辻中は心の底でこれはお互いさまだな、と天に向かって唾したい気分のまま、これまで長きに渡って満たされてこなかった熟女系DVDそのままの世界に浸った。辻中は、世の中の異性にもてる男女の定義なんて、結構いい加減なものだということに60歳を過ぎて初めて理解出来た気がするのである。性的志向もさまざまで、中にはあなたの糞尿にまみれたいと泣きついてくる清楚に見えるスカトロジスト女がいて、勿論オレはサービス精神旺盛な男だからつき合ってやったが、途中で嘔吐してしまった。こういうのに限って身ぎれいな服装や洒落たセンスをしているわけで、世の中の裏側ってえげつないなと思うと同時に、オレはこの歳まで世界の何を見て生きてきたのだろうか、と辻中にしては珍しく深い疑問の中にいる自分に気づくのだった。同時にこのまま手をこまねいていてはオレはこのまま終わるな、と自省した。

 いつものネットカフェに帰る道すがら、立ち飲み酒場で安酒をあおったが、まるで酔えず、頭の中が妙に冴えているのだった。おかしなことだ。これまで仕事をしてきて、こんなに冴えわたることなどついぞなかったのに、ここに至ってこうなるか?と辻中なりの人生観に否応なき歪みが生じたのを感じたのである。ネットカフェには、ナイト8時間の特権が使えるように入った。マンガ本の本棚に初めて見る若い女性の後ろ姿を辻中は見逃さなかった。しかし、この時の辻中は、若い女が綺麗で清潔なのではない。精神的に汚れた自分の汚れ具合との比較で、そう見えるのだ、と屁理屈を捏ねる自分に気づいた。辻中は浅薄な悟りに似た気分になって、肉欲だけで性欲を満たし、心が沈んでしまった自分が、そのことがきっかけで浅い悟りにしろ精神の広がりを感じた。

(13)平戸良平と瑞樹有紗の場合 その㈡

 良平が目を覚ましたとき、すでに一日が暮れようとしていた。白いカーテンから透けて見える絵画のような景色には、深い色の濃淡が交錯した、濃密で熟成したさまざまな要素が鴨川の水面に映し出されていた。良平は美しいと思うと同時にそこにはベッドに横たわる有紗の色白の美しさが重なっているのだと感じずにはいられなかった。そのまま有紗の寝顔をずっと眺めていようかとも思ったが、良平は有紗の声が聴きたかった。そっと彼女の躰を揺すると、彼女はうっすらと目を開いた。そして、「良平、起きてたのね。コーヒーでも煎れようか?」と有紗は言ったが、「コーヒーはオレが煎れるから、そこにいてくれよ。」と良平は柔らかに言った。良平はまだ、ベッドの中でまどろんでいる有紗を眺め、有紗の美しさをもっと自分の目の中に焼き付けておきたかったのである。良平は心の中で、惚れちまったな、と呟いた。

 「ねぇ、ドライブしましょうよ。」と有紗は唐突に言った。

 「どこに行きたいの?レンタカー、借りないと。」とオレが言うのと同時に、

 「大丈夫よ、私の車がマンションの車庫にあるから。東にでも西にでも、高速道路をどこまでも走り続けるのよ。」と有紗は言った。

 マンションの地下駐車場から、有紗がブルーのルノーを運転して、良平の足元に車を止めた。綺麗なブルーだ。オレが美しいと思っていたルノーのブルーだ。有紗にはオレの考えていることが分かるのか?不思議な感覚に襲われた。車の中から運転席に座れとオレに言っている。彼女の声が車の中から小さく聞こえる。オレは有紗に代わって車の運転席に乗り込んだ。

 「さて、有紗、どちらの方角へ走ろうか?」

 「う~ん、西!西に行きましょう。」と有紗が言った。

 オレは、高速道路に乗るべく、車を南に走らせた。京都の南インターチェンジから高速道路に乗った。

 高速道路に入ってから、こんなに小さな車がよくもこれほど鋭い加速をしてくれるなぁ、と感心させられた。アクセルを踏み込み、スピードを上げれば上げるほどブルーのルノーは道路に吸い付くように安定感を増しながら加速する。速度規制など無視して走り抜いて、その間、二人はむしろ無言に近い状態で、ただ互いの躰に触れあった。それが安全と幸運にでも結びつくとでも言いたげに二人の躰は離れることがなかった。躰のどこかに彼女の手があり、彼女の躰のどこかに自分の手が触れていた。西宮インターチェンジから高速道路を降りて、地道を少しばかり走ると神戸の三ノ宮の繁華街に出た。彼女はこの当たりをよく知っているのか、カーナビより正確で分かりやすく行先の指示を出した。元町まで来ると、トアロードを山側に向かって走るように彼女は言った。良平は有紗の言葉に素直に従った。トアロードの突き当たりで道路は二股に分かれていて、そこを左に少し走ると、石造りの急な坂道が現れ出た。有紗は、その坂道を昇って行ってね、と言うので有紗の指示にしたがった。あまりに急な坂道なので大丈夫かと思いつつ、アクセルを吹かすと、エンジンが焼ける臭いが少ししたが、車自体もそれに慣れたように快適に走り出した。

 「ここからが六甲山麓の西の果て。山頂からはずっと六甲山麓に沿った道路が走っているわ。私、小さなときに父に連れられてここにドライブして以来、六甲山と云えば、このルート専門。六甲山には再度山(ふたたびさん)から登る。これが私にとってのフツウのドライブなの。いいわよ、良平さんも気にいるわ、絶対に。」と有紗は少し頬を紅潮させて言った。昇り始めるとすぐにレンガ造りの古くて短いトンネルがあり、トンネルを抜けた先に車を止められるちょっとした空き地があったので、有紗の指示でそこで小休止することにした。

 「再度山から登り始めたら、まずはここから神戸の街を眺めるのよ。」と有紗はうっとりとした表情で言った。まるで良平の躰全体を愛撫するかのように。

 登り始めてすぐのところだったから、たいした眺めではないだろうと良平は思っていたのに、眼下のトアロードがすでにかなり急な坂道だったことに気がついた。有紗の背中越しに見える神戸の街は夜景を楽しむというよりも、街から生活感が生々しく伝わってくる美しい風景だった。こういう経験はないなと良平は思い、有紗の肩にそっと手を置いた。有紗は後ろ向きに唇を良平に投げかけた。良平は彼女をいたわるように軽いキスを交わし、互いに向き合った瞬間から深い口づけを交わした。いまや、良平にとっての口づけの行為は、有紗の舌をまさぐり、舐めまわし、彼女の口の奥深くの粘液を吸い取る歓びを感じるようになっていた。

 良平には車にもどることが、一体になり切った二人の躰を引き剥がす行為に思えた。有紗から身を離す瞬時、良平の躰に身もだえるような戦慄が走った。有紗にはそれがよく伝わったはずだ。彼女の方をそっと見ると、うん、うんと頷くのが見てとれた。良平は車を再び走らせた。走り始めてすぐに急勾配のヘアピンカーブがあり、良平が思い切りハンドルを切ると、さすがのルノーも軋んだタイヤ音を出しながら昇って行った。そこからはグネグネと曲がりくねった道路を登り切ると、頂上と認識出来ないほどの平地と、京都の宝ヶ池よりもずっと小ぶりの池が良平の目に飛び込んできた。すでにあたりは真っ暗だったが、車のライトで周囲の光景が見てとれた。このまま比較的平坦な道路をひた走れば六甲連山を縦走出来るはずだ。

有紗が、「ここで、少し休みましょう。さっき休んだけれど、私、ここが好きだから、私たちのことを話したいの。私たち、お互いに直感的に大好きになってここにいるわけでしょう。今度はお互いに自分に纏わることを話し合うというのはどうかしら?私は私のすべてを話す。と言っても、あのネットカフェであなたに話したことと随分重複することがある。でも、そこからはじめないと無意識に自分を美化してしまうかも知れないから。良平さんには同じことを強要なんてしない。良平さんは話せることだけ話してくれればいいの。」という声を聞いて、良平は自分の全てを語り尽くそうと決心した。どうか、オレの育った環境や出自を聞いて引かないでくれ、と良平は心の中で願うばかりだった。

「私ね、あなたに話すのがとても恥ずかしいのだけれど、父が病院経営者で、小さい頃から勉強ばかりさせられたの。一人娘だから父はリスク分散したわけね。自分のお気に入りの医者を養子にとって、私にはまずまずの大学に行かせて、一二年は海外留学させて箔をつけておくという戦略ね。戦略なんていう言葉がそもそもおかしいけれど、父にとってはまさに戦略と云う言葉がぴったり。もう一つは、ガンガン勉強させて、自分と同じ大学の医学部に受かれば、万が一医者でなくても、養子候補の範疇は広がると考えたのね。経営手腕があれば医者でなくても病院経営は盤石だと父なりの将来展望だったと思うの。で、私は彼のリスク分散の最良の結果を出したというわけ。京都大学の医学部に入ったわ。でもね、少数にせよ、多分将来は患者想いの医師になるのだろうという人はいたにせよ、大半は父の焼き直しみたいなのばかり。人間ってその原型は結構若い頃に出来上がっているんだわ。それで、私は父への反抗もあったけど、医学に向かない自分を理解しようとした。自分も両親の影響を受けて随分と高慢ちきになっているはずだし、人間ってどう生きるべきなのか、あるいはどう死ぬべきなのかを見極めたい、という想いが強くなってしまったの。安易なんだろうけど、結局私は文学部哲学科に転部したわけ。半年は父に知られなかったけれど、それを知った父は怖かったわ。多分父にとっては自分の計算どおりに行かなかったことは生まれて初めての経験ではなかったかしら。それも自分の娘にいろいろとリスク分散まで考え抜いて、結果医学部に入れたと大安心したときに、娘がよりにもよって哲学なんてやり始めたわけだから。

父から与えられた3LDKのマンションを追い出され、友だちに相談したら、あんただったらキャバクラでも通用するから、という無責任な言葉に乗っかってキャバクラに面接に行ったら受かっちゃったの。入ってからは父みたいな男がたくさんやって来るので、ブスっとしていたら、それがいいという理由で自然にNo.1になってしまった。良平さん、あなたにこんなことを告白したくはないのだけど、私、男と何度かお金目当てで寝たの。お給料と貢いでくれたお金で鴨川沿いにマンションを買った。でも、すぐにそんな自分が嫌になって、ヤケになってのセックス山盛りの小説を書いて、ある出版社に応募したら、この本が売れてしまったの。そうしたら、続編のつもりで同じような本を書いてくれと執拗に編集者をマンションに寄こしたの、そこの出版社がね。私、自分の中の膿を絞り出すつもりで書いた作品だから、次の作品なんて書けるわけがない。出版社に追い回されるのが嫌で、あのネットカフェにたまたま逃げ込んだの。それがこれまでのいきさつです。良平さんには軽蔑されると覚悟して話したの。それでも私は人生を出直すつもりで、あなたを愛する。あなたと躰を重ねたとき、このままひとつになって別の何かになってしまうのではないか、とさえ思ったの。だから、良平さんが私を軽蔑しても私、あなたを忘れることなんて出来ない。もう出来ないわ。」 話しながら、有紗はなんて自分がありふれた凡庸な人間なのだろう、と改めて気づかされることになった。そう思った瞬時、恥辱の念に駆られるのだった。以前の有紗なら、自分自身に対して屈辱を感じ、厭世観に打ちひしがれたものだが、この時感じたのは良平に嫌われたらどうすればいいのだろうか、という戸惑いの只中にいる平凡な女の、か弱い姿だった。世界に対して毒づいていた自分が、いまは目の前の一人の男にただただ嫌われたくない、という怖れの中でもがいていることに、誰よりも有紗自身が驚いていた。

辺りはすでに漆黒の闇に包まれていた。目の前にはかすかに水面だと分かる池の表面が、風が強くなるにつれてさざ波立った。道路からだいぶ奥まったところに車を止めたが、時折思い出したように車のヘッドライトが光を放ち、ドライブウェイを通り過ぎて行った。

 有紗が語り終えた後、長く沈黙を保っていたのは、良平の裡なる怖れゆえだった。何を聞いたところで、自分が有紗を嫌いになどなるはずがない。しかし、有紗がオレのことをすべて知ったとき、果たしてあまりにも育ちの違う、この自分に対して有紗の気持ちが変わらないという確証がどこにある?有紗のようにうまく自己分析など出来ないにしても、オレは自分の出自を明かさないわけにはいかなくなったのだ。話をするときが来たのだと良平は心の奥深くで覚悟を決めた。

「有紗、オレはね、在日4世なんだよ。祖父母の代に八条口近くで焼き肉屋を開いて、何とか人並みの生活が出来るようになったとお袋から聞いた。曾祖父母の時代は日雇いの仕事で日銭を稼いで何とか生計が立つ程度だったらしい。オレの中に日本人の血は一滴も流れていない。それなのにオレは祖国に一度も行ったことがないし、朝鮮人であるというアイデンティに誇りを持つ前にいつも朝鮮人であるということでイジメられた。有紗みたいに圧倒的に勉強でも出来ていたら、ひよっとして一目置かれたのかも知れない。でもオレはバカだったから、小学校高学年になるまでイジメ抜かれた。オレは段々と身体が大きくなって、腕力も強くなり、気がついたときには小学校の高学年から高校時代にかけて、地域のボスになり上がってしまった。自分が成り上がったという意識はなくて、対抗する奴がいなくなっただけのことだとオレは思っていたんだ。それに何より切実だったのは、オレは自分がいったい何者で、何をやればいいのかがまったく分からなかったことなんだ。知的には凡人どころか、それ以下だろうし、地域ボスのままヤクザまがいのことをやって生きていくつもりも、そんな度胸もなかった。要するにオレは勇気も覚悟も知恵もなかった。喧嘩が強い奴が次々にオレに挑んできたけど、負けたことがなかったという理由で、いつの間にか評判になった。

しかし、実のところは、オレは相手の剥き出しの闘争本能に満ちた顔を見るのが怖かった。だから、いまでも向かって来る相手の目を見るのが苦手だ。何とか勇気を出して、東京のボクシングジムに入門したら、すぐにプロテストに合格してしまって、その後はトントン拍子で世界タイトルマッチまで漕ぎつけた。喧嘩のは蹴りを使って相手を威嚇し、ダメージを与えることが出来た。しかし、ボクシングは、拳(こぶし)だけで戦うわけだから、攻撃のときも防御のときも、相手の細かな動きを表情、特に目の動きから読み取って、とっさに捉えることが絶対に必要になる。

ジムの会長のオレに対する決まり文句は、相手から目を逸らすな!フックだけでは勝てない。相手の顔面にストレートを打ち込んでアッパーで決めろ!と再三言い聞かされてきた。オレが最もイヤだったのは、これで倒れるだろうという渾身の顔面へのストレートがヒットしても、相手がダウンせずに立ち向かって来た時だ。闘争本能が相手の目の奥にただならぬ妖気を放ったと感じ取った瞬間、オレの中に渦巻いた怖れを感じるわけだ。そして、実質的にオレは負けたと感じる。たとえ試合には勝っても、戦いには完全に敗北していたといつも思っていた。世界タイトルマッチのチャンピオンと試合直前にグローブを合わせた瞬間に、すでにチャンピオンにはオレには到底かなわぬ妖気が漂っているのを感じ取った。セコンドからの声は聞こえていた。勿論それは常々会長から言われている言葉どおりだったが、オレはただただチャンピオンの視線を避けた。年齢的には相手の方がとうが立っていたが、オレにとっても28歳という最初で最後の世界タイトルマッチだったのに、オレは無様にノックアウトされてしまった。正直、倒れ込んだマットの上でホッとしていた。あれは本当に奇妙な感覚だった。マットの上に沈んだのに、心のどこかでこれでいいんだ、という自分らしからぬ優しい声が聞こえたように感じた。

 控室にもどってから、オレはさっさと服を着て試合会場から逃げた。気がついたら新幹線に乗っていて、地元の京都で下車したものの、自宅には帰りづらくてあのネットカフェに入ったのは全くの偶然だ。そもそもオレはネットカフェに入ったことは一度もなかったのに、何となくうらびれた雰囲気がドアの外からも感じられたので、かえってその時のオレには都合がよかったように思う。有紗がぱっくりと割れたオレの瞼の傷を見事に縫ってくれたとき、この人は一体何者なのだろうか?こんなところにいるはずの人ではないだろう、と言う自分の声を聞いていたような気がする。」

 一気に良平は語り尽くした。同時に有紗はこんなオレに愛想を尽かして、これが永遠の別れになるだろうと覚悟を決めていた。想えば、これが自分の人生で初めての覚悟だったのかも知れないと感じ、良平は情けなくなった。

有紗ならすぐに良平の告白に対して、明確な返答がかえって来るものと思っていたら、彼女が言ったのは、運転を代わるという言葉だけだった。そして、美しいルノーの青が漆黒の闇に溶け込むように有紗は来た道をかなりなスピードで折り返した。    トアロードを真っすぐに海沿いまでルノーは走り抜け、豪奢なホテルで二人は車を降りた。チェックインを済ませ、広い部屋に案内されて夕食はルームサービスでコース料理を頼んだ。良平にはこの部屋がいくらするのか、戸惑った顔をしていたら、有紗が大丈夫よ、と良平の耳もとで囁いた。翌朝有紗のカードですべてが支払われるのだろう。男の甲斐性なんて古臭いという風潮があるにしても、良平には自分の甲斐性のなさを恥じる気持ちがあった。良平は小さく「すまない。」と言ったが、有紗の耳に届いているのかどうか確信はなかった。たとえ聞きとっていても、有紗は聞こえないふりをしたと思う。出会って日が浅いが、良平は有紗という女の本質を理解していた。夕食の間は殆ど必要最低限な会話が交わされただけだった。主に料理に対する互いの感想だったように思う。それでもうまいと感じた夕食を済ませてしばらくの沈黙の後、有紗は口を開いた。有紗の言葉は良平にとって意表を突くものだった。

 「私ね、差別の問題ってね、究極のところ、誰の心にもある、人が存在するための闇の実在だと思うの。差別される側の人たちは、政治的な土俵の上で闘わけね。恵まれたおまえたちになんかに差別の何が分かる?と論難されるという論拠で闘うわけよね。私も自らの意志力で差別の根源を断ち切れる特別な人間ではないと告白した上で、良平さんに伝えたいと思うの。良平さんなら分かってもらえると思うから。

良平さんが在日4世だということは、私にとっては何の抵抗もないことなの。でも、世間体を気にするというか、医者が病院経営をしてある程度の成功を手に入れてしまった父なんかの感性って、自分より上の、何が上なのかは彼らは理解していないけれど、それにしても差別を是とする世界観しか持ち合わせていないのよ。上の人にヘイコラすることは自分がさらに上に行くために必要なことだと割り切っている、というか、そんなふうに思い込んでいるわけね。そりゃあ、例外はあるわ。すばらしいお人柄の方々もいらっしゃるでしょうしね。

 たまたま能力に恵まれて、社会の上層(これは勝手な思い込みよ、勿論)になり上がった人って、殆どがひどい差別者なのよ。表面きって差別することが下世話なことだと思っているから、見た目は極めてお上品。でも、本当に差別を残しておきたいのは、こういう人たちよ。その上、哀しいことに差別される側の人々の精神構造は、社会の上層にいる人々に対する不平等感にとても意識的なのに、むしろ実際には自分たちよりも下層だと感じる人たちに対して差別するわけよ。例えば、すべてではないにしても、在日の人たちは被差別部落の人たちを下に見ているし、逆に被差別部落の人たちは、在日の人を下に見てお互いに自己満足している可能性があるわね。これが差別の構造だと私は思うのよ。国際社会でもそうじゃあない?豊かな国は、貧しい国をバカにしながら搾取して、富める国はますますお金持ちになる。これは個人も社会も同じなんだと思う。差別ってね、大抵は自分よりも下層の人に対して行使されるのではないかしら。私はそれが差別の構造だし、本質だと思うの。上に向かう反抗や抵抗の歴史はごく限られたものじゃあないかしら。」

 良平は有紗の言葉を聞きながら、なんてこの人は賢いのだろうと心底思った。自分の心の中でくすぶっていたことを、こんなにも短い時間にオレに語ってくれたわけだから。

 「有紗、君の言うとおりだよ。自分では君みたいに明確に分析なんて出来なかったけれどね、君がオレにいま言ってくれたことを自分も考えていたのだと思う。オレたちの将来のことを考え、乗り越えるべき壁は高すぎる気がするし、有紗のご両親を不孝してしまうことになるだろうけど、有紗の気持ちさえ揺るがなかったらオレは有紗と二人で乗り切れると思う。有紗はどうなんだろうか?ところで、有紗みたいな人が何であんなネットカフェに辿り着いたのか、オレははっきりとしたことを聞いていない。聞かなくてもいいような気もするが、どちらかと云うと、オレは君のすべてを知りたいんだよ。話せることだけでいいから聞かせてくれないか?」と良平は少年のような素直な気持ちで言った。

 「幼い頃から、両親は私を医者にするために勉強させたの。さっきも言ったように父の思い通りに父と同じ大学の医学部に入ったわ。私ががんばったというより、小学校から鍛え抜かれたわけ、それ専用の塾で。本当は頭がいい、悪いという問題ではないのよ。何に対しても本質的な疑問を持たない人間が入学試験に勝ち抜くだけ。ものすごく頭のいい人ほど途中で離脱していった。彼らからすると、ロボットみたいになっている私たちのような受験生をバカにしていたのだと今更ながら思う。医学部に入ってから、入試バカの医者の息子たちが多いことに気づいて、同じ空気を吸うことすら嫌になってすぐに医学部から哲学部に転部したの。私はただひたすら本を読んだの。自分で選んだ本を。これって、ほんとに新鮮だった。あとは私のマンションで話したとおりなのよ。遊び半分で、自分の体験を10倍くらい誇張して本にして、ある出版社に持ち込んだら、それが出版されることになって、バカ売れして次作を書けと執拗に迫って来る。私にとっては吐しゃ物をもう一度口の中に押し込むようなものよ。耐えられなくて、うらびれたネットカフェに魅かれて、そこに逃げ込んで、良平さんと出会ったの。だから、私のこれからは、良平さんと同様、スタートの切り直しなのよ。

(14)池内宏子の場合 その㈣

 池内宏子がネットカフェの部屋に入って、数時間が経って辻中のオッサンが隣の部屋に入ったのを確かめて、宏子は薄い壁をドンドンと叩いてみたら、案の定辻中のオッサンからのドンドンのサインがあった。60歳のオッサンなんて、ほんと単純だと宏子は思い、ドアを開けたらそこに辻中が立っていた。爽やかな笑顔のつもりだろうが、年月の垢が彼の笑顔を単なるニタニタ顔に換えてしまっていたのには笑える。宏子には辻中の本当の気持ちが分かるだけにかえって気の毒になった。

 宏子は辻中を自分の部屋に入れた。辻中はなす術なく、モタモタしていたが、宏子が自分の胸に彼を抱き寄せた。一瞬、辻中はビックっと身体を震わせたが、その瞬間、宏子にむしゃぶりついてきたのだった。

ネットカフェに通い出してから、仕事を求めてきた、やる気のない中年女の数人と寝たが、宏子ほど男の性を満たしてくれる女はいないだろうな、と辻中はか細い声で呟いた。宏子は辻中が若い女を抱けて、うれしさのあまり意味のない独り言を言っているのだろうと思ったが、その内実はどうだってよかった。

 辻中はむしろ若い宏子に導かれるようにして、性愛の真相を知らされる想いがしていた。同時にこの若い、むしろ地味な女性が何故性愛の化身のごとき存在に成り代われるのか、辻中には謎が深まるばかりだった。彼女に男根を吸い尽くされ、舐めまわされたとき、辻中は少年のような声を上げた。導かれて、彼は宏子のアナルに挿入したとき、イッキに果てた。

 むしろ弄んでやってもいいかと思って、冴えないオッサンと寝たつもりだったのに、辻中と躰を合わせて、宏子は女の歓びを初めて感じた。大輔くんとのあの執拗なセックスは何だったのか?と、辻中との交わりの只中で宏子は自問せざるを得なかったのである。

 宏子と辻中との想いは、すれ違いながらも、男と女の濃密な交わりの只中で理屈を超えた領域で共有する何ものかを互いに感じ取っていたのである。

 「ねぇ、辻中さん、私のこと、軽薄な女だと思っているでしょう?」と宏子は、自分の心の中で起こった化学反応の本質は何なのかを確かめたい一心で、辻中の心の声を聞きたい余りに、凡庸でありふれた問いかけをしてしまった。

 辻中は宏子の問いかけに答えるように、「正直に言うとね、私の中では池内さんをお茶に誘ったときに、身の程知らずにも君とこうなりたい、と思っていた。年甲斐もなくほんとにずるい人間だということに池内さんと話をするうちに気がついたんだよ。だからね、自分には不似合いなことを恥知らずにも、ベラベラと池内さんに話すハメになった。実はもっと正直に言うと、私の中では、池内さんはカタカナのヒロコになってしまっていて、池内さんとあの雨の日に別れて以来、ずっとヒロコと会いたい、ヒロコはまたここに来るのか?と焦れた気持ちを抱えて過ごしていた。これが私の正直な気持ちなんだ。勿論、冴えないオッサンに君がこんなふうに接してくれるとは、いまはまったく実感が湧かないというのが正直な気持ちだよ。池内さん、君は私のことを哀れに思ってくれたのだろう?」

 「ざっくり言うと、辻中さんの最初の印象は辻中さんが分析したとおりだったと思います。ごめんなさい。ほんとにごめんなさい。謝ります、心から。でもいまは違うんです。辻中さんに抱かれていて、私、ほんとに安心したの。それどころか、セックスって欲情のはけ口くらいに思っていたのに、辻中さんに自分の心を解放してもらったと思っています。辻中さんならお分かりになると思いますが、私の年齢にしては性の経験が豊富な女だと感じられたのではないかしら。でも、私、高校生のとき、大輔くんという同級生と男と女の関係になっただけなんです。私、男の人って、辻中さんと出会う前には一人しか知らないの。大輔くんは、頭もよくて、大人びた少年でした。彼の性的志向は、どこで手に入れたのかは分かりませんが、殆どが無修正のAVもののDVDから得た知識に基づいたものだったと思います。あれは男の側の勝手な妄想を、AV女優を使って創られたものですよね。セックスに関わるありとあらゆる飽くなき性のアクロバティックな実験みたいなものですよね?私は、大輔くんに為されるがままだった。そうしているうちに、ほんとに大輔くんを愛していたのかどうかも分からずに、躰が疼くようになってしまった。勉強は手につかないし、大学受験もうまくいかなかった。大輔くんは、私とは真逆。すいすいと東大に合格してしまった。いまの私は、就職もままならず、ああ人生って、勝者と敗者はこんなに早い段階から決まってしまうんだって、つくづく思っています。何だかすっきりとしました。辻中さんにこれまで自分の心の中に鬱積していたことをすべて言えて、ほんとに心が軽くなりました。それに、恥ずかしいことですが、大輔くんに私は女の性の歓びを開花させられたと思っていたことが、辻中さんとこうなって、それがまったく違っていたことにも気がつきました。」

 二人の告白じみた会話の中にどれほどの真実があるかは分からないにしても、少なくとも、いま、二人はヒロコのネットカフェの狭い部屋で、まともに向き合っていることだけは確かな現実だった。人間の心の中に不純な要素が潜んでいるのは当然のことだろうが、人はたとえウソが混じっていようと言葉を発しながら、心的な化学変化を起こすことも否定し難い真理ではないのか?恐らく辻中と宏子の心の中に芽生えた心境の変化は、打算や利害から、それらを超えた何ものかに昇華していったのではないのだろうか?

 「ありがとう。今日は隣へ帰るね。」と優しく言い置いて、辻中はヒロコの部屋を後にした。辻中は、自分がこれまでの人生の中で如何に誠実さとは無縁の人生を送ってきたかを思い知らされたのである。一晩じっくりと考える必要がある。ヒロコのこれからの人生を、この年老いた自分がどうしたら生き生きとしたものに出来るのかを具体的に考えるときだ、と辻中は思ったのである。

 隣どおしの部屋なのに、これほどヒロコと別れるのがつらいと思える自分が不可思議だった。自分の部屋にもどり、いまの自分の姿を冷静に見つめなおしてみたら、空洞のようなこれまでの人生に報復するために、親が遺してくれた家を売却して得た金で老人介護事務所を安く買いたたいた。しかし、自分の計画が思うようにならない焦燥感でいっぱいの自分に何が出来るのかを、いまこそしっかりと見据えなおしてみなければならない、と心底思うのだった。辻中は生まれて初めて自分の人生そのものと向き合っているのだ、と感じて長い眠れぬ夜を過ごすことになったのである。

 宏子は、いま就活をさぼって、四条大宮の冴えない、どこにでもありそうなネットカフェにいる自分のことを冷静に見つめなおしていた。世間体ばかりを気にする母親とその価値観を満たすだけの堅実な?会社に長年勤めている父親のことを無下に否定しないまでも、自分がこのネットカフェに来るまでに味わった就職面接でのセクハラまがいの屈辱や、毎夜重い足取りで帰宅しながら、お互いの顔色を伺っているだけの家族に、そもそも人間の絆などあったのだろうか?と深い疑問に宏子は襲われた。「人間の絆」という小説を少年少女文学全集で小学生の頃に読んだ記憶があるけれど、あれはサマセット・モームの似非らごとに過ぎなかったのだろうか?この世界は生きる価値があるのだろうか?生き続ける意味があるのだろうか?と根源的な自問を敢えて自分に投げかけた。宏子の最も苦手だったことが今夜ほど自分にとっての必須の課題だったことに気づいたことがなかった。宏子も眠れぬ夜を過ごすことになった。いや、もっと正確に言うと、眠れぬ夜こそがいまの自分にとって考えるべきことがある証左なのだ、と思い知ったのである。これでいいんだわ、と宏子は自分の呟きの声を聞いた。

 宏子のこれまでの価値観の一つは、生活するのに何不自由もない環境は、父親がそれなりの学歴を持ち、この不安定な世界においても、少なくとも現段階では仕事上の危機感を抱かずに過ごせること。豪邸とは云えないまでも、京都市内の一等地に100坪程度の土地付き一戸建ての家が建っていること。兄夫婦が、同じ敷地内に家を建て、生活設計上、かなり安心感のある生き方をしていること。私はそんな環境の中で育ったけれど、ほんとに幸福感を実感出来ていたのかしらん?就活がうまくいかず、いまは家族の中ではみ出し者同然の身だけど、それ以前はどうだったのだろう?大輔くんにはすっかり性のはけ口として利用されたといまにして思うけれど、私も大輔くんの性の欲動と同じものを女として持っていたわけで、大学受験に失敗して思いもしなかった女子大に入ってしまったことは悔しかったけれど、ほんとに私はそう感じていたのかしら?大輔くんは第一志望の東大法学部に現役合格して、すでに一流企業の内定も決まっているのに、私はいまだに就職先さえ見つからない状態。でも、これがこのネットカフェに来る前の、言い知れぬ私の劣等感だったと思っていたけれど、ついさっき冴えないオッサンだと思っていた辻中さんに気の毒だから抱かせてあげようと思ってセックスしたら、これまで経験したことのない暖かい気持ちになれた。別に自分の置かれてきた環境と比べて、ここよりはよりましだというような優越感とは無縁の、人と人との絆のようなものを感じたのはどうにも否定し難い。果たして、私はいまに至るまで人生の本当の姿を見る前に人間の真実を見る目を塞がれてきた気がする。少なくともはっきりと言えることは、私は、父親の口癖だった、人生における勝者でなければ生まれてきた意味がない、というつまらない概念をいまは自信を持って否定出来るのだ、と確信を持ったのである。人生における勝ち負けなんてどこで線を引くの?それこそが自己満の最たるものではないの?心の中に湧き上がってきたことを目の前のパソコンのメモ帳アプリに走り書きをしていたら、いつの間にか池内宏子は眠りの中に落ちてしまった。

(15)平戸良平と瑞樹有紗の場合 その㈢

 良平は有紗の話を聞いて、頭の中の靄がはれた気がした。同時に自分が果たすべきことからもう逃げまい、と決意した。

 「有紗、オレ、東京に行くよ。会長に会って、謝って今回の騒動の決着をつける。記者会見も受ける。叩かれて恥をかくことが必要なんだ。いつまでも逃げてばかりはいられない。」

 良平の言葉を予想していたと言わんばかりに、有紗はすぐに返答した。

 「良平さんなら、そう言うと思っていた。でもね、良平さんは、きちっと後始末をしたら、私から去るわ。あなたは、自分が私を不幸にすると結論づけてしまう人だと思うからなの。良平さんにはつらい思いをさせるかも知れないけれど、ほんとは、私、良平さんにはケジメなんてつけてほしくない。逃げ続けてほしい。犯罪者に逃げろと言ってはいないわ。良平さんのような非凡な才能を持った人がこの世界の価値意識から逃走するのもひとつの哲学よ。私はカッコいいと思う。どこかのスポーツ紙に嗅ぎつけられたら、その時にあなたの率直な気持ちを伝えればいい。たぶん、世間は当分情けない野郎だなんて心ないことを言うと思うけれど、それもしばらくの間よ。良平さんには、世の中の常識とされていることから逃走した体験を、これからの人生の出発点にしてほしいと心から願っている。あなたの人生観を変えなくちゃあ。ずっと前に浅田彰というお坊ちゃん哲学者が、フランスの現代哲学を「逃走論」と云う本で紹介したことがあるの。浅田は「逃走論」というポストモダン、要するにフランス哲学の最新の情報提供しようと試みたんだと思う。そこで紹介されたいろんな哲学者は、現代の権力を批判しながらも、どこかでみんな安全弁を自分の論説の中に用意しているの。こういうの、バカみたいとも思ったけれど、いまの世の中、哲学者も含めて逃げることを怖れては生きていけないと私は確信したわけ。世の中から叩かれたら逃げる。逃げたら叩かれる。これの繰り返しの中で世間はお腹満腹になるわけなのよ。明らかな犯罪行為は別にして、こんなバカみたいな世間様に振り回されるだけ損だと私は思う。だから静かに二人で身を潜めましょう。私、当面食べるために医学部へ転部もし直すし、出版社にも乞われる間は本を書く。親の病院なんて引き継ぐつもりは毛頭ないから、勤務医でいい。勤務医だって大学の出身派閥を鼻にかけるバカがいるけれど、そんなの気にしない。お給料さえもらえれば、しっかりと仕事はするわ。」

 「有紗は立派だよ。でもオレはどうしたらいい?ただ逃げるだけかい?そんなオレを君は好きでいてくれるのかい?」

 「少なくともいまは、良平さんはじっくりと考える時期よ。そんなに自分がなすべきことを発見するのに時間はかからないと私は思う。多分、良平さんの個性から云うと、いつもこれでいいのか?と思いながら焦ると思うけれど、むしろ自分の中の焦燥感と闘ってほしい。逃走に伴う闘いよ。それをしっかりとやってほしい。そしてじっくりとやってほしい。その間はお金のことは心配しないで!私がキャバクラにもどることはないし、幸いマンションはあるし、これまでの蓄えも少しはある。本の印税もこれから書く数冊は当てに出来るから。良平さんが自分自身と闘っている間、私もこれまでの人生のあり方を変えるために闘うのよ。浅田彰のようなお坊ちゃん学者の浅い哲学紹介で逃走の本質を伝えた気分を二人で覆してやるのよ。私たちの逃走の過程で、そしてその結果で、私たちが幸福になることを証明してやるのよ。どうですか?良平さん?」

 「オレには有紗のような知識も明晰な分析力もないが、君が言ってることの意味は理解出来る。君はオレに分かりやすいように、オレ自身の問題として逃走の意義を語ってくれたからね。オレが抱え続けてきた硬い個性の殻を壊すためのチャンスをくれているのも理解出来るよ。有紗、分かったよ。しばらくは君の世話になる。君の言うようにオレ自身が変わることを君とのこれからを創るために自身に課すよ。生活のことはしばらくは横に置いて、考えることに費やすが、必ず自分が出来ることを発見してみせる。こういうとき、少しは育ちの悪さが役には立つ。だからね、有紗、オレが焦り始めて気づきもないまま生活の手段を見つけようとしたときは、きちんと指摘してほしいんだ。まあ、こういうことを言えるようになったのは、君に出会うまでは絶対になかったことだけど。

で、これはいままでの話とまったく無関係なことなんだけど、オレたちと同時期にネットカフェに現れた若い女性と、かなりくたびれたおっちゃんがいただろう?何だかあの二人のことは気にかかる。このまま有紗の言うとおりに新たな出発を初めてもいいと思うけど、この気分だけ自分なりに解消したいと思うんだが、どうだろうか?余計なお世話なんてやいている場合じゃないのだろうか?出来ることなら、もう一度あのネットカフェにもどってあの二人のことが知りたい、というか見極めたいんだよ。この世の中、人間どうしの関わりなんてある程度のところまでで、それ以上深入りすると拗れるだけだ、ということなんだろうけど、オレはそんなのは嫌なんだよ。見ず知らずに近い、あんなおっちゃんに関わるなんて馬鹿に思えるかも知れないけど、オレはそういう生き方をこれからもしていきたいんだ。」

 「分かった!女にも二言はない!しっかりと受け止めました。良平さんの言うとおりにしましょう!」

 二人は互いに唇を求めあうように躰を寄せ合った。こうして二人の濃密な性の饗宴は朝まで続くのだった。

(16)辻中潤一の場合 その㈤

 あくる日の朝早く、ヒロコと顔を合わせるのも照れる気分があり、こっそりとネットカフェを後にした。当然のことだが、自分が手に入れた介護福祉事務所を新たなビジネスとして経営ベースに乗せるために妥当な能力の人材を雇い入れたいし、この北区を我が小さきビジネスが拡大する起点にすることが何よりのプライオリティだ、と辻中は自分に言い聞かせた。後ろ髪を引かれる想いでヒロコを残してネットカフェを後にしたのである。

 目的地に到着するやいなや、辻中は窓を開け放ち、早朝の冷たい空気を事務所全体に招き入れようとしていた、そのさなかに一人の男が訪ねてきた。男は、辻中より少なくとも10歳は年老いているように見えた。

 「どなた様ですか?」と辻中はありふれた問いかけをその男の顔をしげしげと眺めながら口にしていた。

 「私?私、木中と申しまして、この事務所の持ち主です。実はね、三年前にこの事務所を閉めましてね、昔風に言いますと、隠居の身ですわ。今日、伺いましたのは、1週間くらい前になりますか、ここのご近所の方が左京区の現在の私の住まいまで電話をくれまして、木中さん、誰かに頼んで介護福祉事務所を再開しようとしているのか?ということでしてね、電話の主に詳しく聞いてみますと、ここに人が頻繁に出入りしているとのことで、びっくりしまして伺った次第です。これは一体どうなっているのでしょうか?そして、そもそもあなたはどなたですか?」とその男はまったりとした口調で言った。

 「私は辻中と申しまして、こちらの事務所の所有者です。この事務所を改装しまして、食材を厳選し、健康食として通用する新しい持ち帰り弁当屋を始めようと頑張っているというわけです。」辻中は、この来訪者に負けじと強い語調で答えた。 「事務所の前のオーナーと、不動産屋とが立ち会った上で、この事務所を先日買い取ったばかりですよ。私は、ここを再興させようと必死なんですよ。」

 「辻中さんていいましたか?あなた、騙されたんだわ。売買契約書や土地家屋の権利書をお持ちでしょうけど、それはにせもの。念のためにと思って、今日本物の関係書類を持って来ました。あなたの渡された書類と私のと比べて見れば分かると思いますよ。理解出来なければ、司法書士とか弁護士とかを呼んでどちらが本物か、見極めてもらえればわかりますよ。」

 木中の言葉を聞きながら、辻中は自分が騙されたのだと咄嗟に理解した。いまにして思えば、稚拙な値引き交渉をしたときの、偽の持ち主と不動産業者の絶妙な受け入れ方!自分にあんなに交渉力があると勝手に思ってしまったのは、彼らの絶妙な演技のたまものだったのか!あの時以来、オレはこれまでの負け組の人生が一挙に勝者のそれになることだけを夢見て、斬新な持ち帰り弁当屋の経営の青写真を創り、具体的に従業員の募集をし、面接までしてきたのだ。その間、私を経営者と錯誤した何人かの中高年の女たちと親密になることだって出来た。たとえ短期間であったにせよ、自分のこれまでの人生にはまったくなかったことだらけだった。オレは人生の末路でいい夢を見させてもらったのか?いや、なんだかんだ言ったところでオレに勝ち目はない。いまとなっては、オレはナケナシの親のちっぽけな財産まで失くしてしまったどうしようもない男だ。人生を諦めると同時に、オレと云う人間に諦めをつけるべきときが来たのだ、と辻中は心の深いところで諒解した。自己の存在の全てが腑に落ちたのだった。

 辻中は木中という男と別れてから、遅い昼食をとり、早とちりの夢を抱かせてくれた町並みをゆっくりと歩いた。どこの豪邸も殆どが長い間に傷んだ細かな箇所をあるがままに露呈させていた。人生と同じなんだな、と辻中は呟き、自分のようなうだつの上がらない人生を生きてきた人間の傷みは、見るも無残に人の目に晒されることになる。しかし、まずまずの成功体験を持ち、この高級住宅地に居を構えた人々だって、長い年月のうちに年老いて、それは住居の傷みに象徴的に現れているように静かに朽ちていくのだ。この人たちこそ、昨今のキャッチフレーズとして定着した感のある「豊かな老後」のリアルな姿だろうが、やはり、人の老いはどのようにつくろっても、それは衰退、衰微と同義語なのだ。これが死を待つ、かつて豊かだった人々の成れの果てだろうか?それにしても自分にそんなことが言える立場か!と自嘲ぎみに心の裡に去来する想いを打ち消した。

 さぁ、こうなったらパチンコでもしていつものように散々負けてから、四条大宮近辺の安い定食屋にでも入って飯をたらふく喰らい、ナイト8時間の時刻になったら、ネットカフェに戻ろう。もう二度と相手にしてくれないにしても、もしヒロコが来ていたら彼女の膝の上で泣いている自分の姿を夢想した。

(17)平戸良平と瑞樹有紗 その㈣

 メリケン波止場の先端にいくつも建っているホテルの中でも最も豪奢なホテルを昼近くのチェックアウト直前に出て、良平は青のルノーを自分の身体の一部のように心地よく走らせていた。こいつには手に馴染んできたボクシンググローブのような一体感がある。不思議な車だ。目指すところは、例のネットカフェだ。とはいえ、ゆっくりと帰ろう。時間潰しに瀬戸内海を見るのもよし、だ。大して美しくもない海だが、有紗に聞いたように須磨浦公園からロープウェイに乗って、山頂から海を眺めるのがいいのかも知れない。ともかく、いまは須磨浦公園に行こうと思う。ナイト8時間を狙ってやって来るのが、オレが気になっているあのおっちゃんだ。その時刻を狙って京都に着ければいい。

 ルノーを須磨浦公園の駐車場に止め、そこからロープウェイに乗って山頂に辿り着いた。山頂は遊園地と呼ぶにはあまりにも質素な遊具しかない狭い空間だった。良平と有紗は雨風で痛んだ背もたれつきのベンチに腰を降ろし、山頂から下界を眺めた。瀬戸内海の海面は太陽のひかりを浴びて、銀色のアルミホールを敷き詰めたようにギラギラとした照り返しで眩しいくらいに光り輝いていた。有紗の様子を盗み見るように横眼で眺めると、濃いブルーのサングラスで表情は読み取れなかったが、深い呼吸を繰り返していた。目を閉じているのかも知れないが、目を細めて山頂の空気を躰全体で感じ取っているようにも見えた。

 良平は、人が時として風景に捉われるのはどういう理由なのだろうか?という疑問に唐突に突き当たった。有紗とあのネットカフェで出会い、良平の心に刻み込まれた有紗との絆なしには、人間と風景の関わりなどに興味を抱くことなど生涯なかった、と確信を持って言える。人は好むと好まざるとに関わらず、この世界に母親の胎内から投げ出された瞬間に、自分と世界の間に横たわる「風景」を見ているのではないか?勿論それは原初的に感じ取るものであって、視界に入るものではむしろない、と良平には似合わぬ幻想に捉われていた。だからこそ、いまこの山頂で目にしている風景が心的現象のありようによって、見る人によって、まるで異なったものにさえ見えているのではないか?隣にいる有紗は果たしていまどんな「風景」を見ているのだろうか?良平は怖さを孕んだ好奇心で、つい、有紗に自分の心のありのままを言葉にしそうになって、何とか耐え抜いた。

 「ねぇ、良平さん、山の空気って澄み切っているし、ほんとに素敵ね。でも、思い出したように私の心にすっと冷気が走る瞬間もあって、それがおもしろいときもあるんだけれど、今日はね、さっき黙っていたときにその冷気を感じてあまりいい気持ちがしなかったの。それは良平さんの他者に対する心意気が自分の裡にはなかった後ろめたさのような気がするの。良平さんさえよければ、そろそろ京都に帰りましょうか?そして、良平さんの心にひっかかっているお二人と会う努力をしてみましょうよ。」

 良平に異論はなかった。有紗の手をとりロープウェイで地上に降り立ち、駐車場まで二人は無言のまま早足に歩いた。良平はルノーのエンジンの心地よい響きを感じながら車を一路、京都に向けて走らせた。良平が有紗の腿にそっと手を乗せたら、有紗は良平の腿から下肢にかけて愛撫するように長く繊細な指を走らせた。良平はこれまで以上にルノーを自由に操った。高速道路をすべるようにルノーのエンジンの限界すれすれの速度で走り抜けた。

 京都に着くと休む間もなく、有紗のマンションの駐車場にルノーを置き、そのまま二人はタクシーに乗り、四条大宮の、かのネットカフェに向かった。ナイト8時間で入れる時刻になっていた。とりあえず二人は、朝食を食べるだけの小さすぎるカフェラウンジに向かった。有紗と良平が目にしたものは、想像もしていなかったという意味で、新鮮な光景であった。

 うなだれた例のおっちゃんの萎れた肩を、良平には人生にすでに絶望してしまったかのように見えた女子大学生ふうの彼女がしっかりと力を込めてさすっているではないか。良平はこの光景をどう理解したらよいのか戸惑っていた。その一方で、有紗は、どこまで真剣なものかは分からないにしても、二人の間には男女の関係があり、男女の関係でしか築けない人と人との絆のようなもので二人は結ばれたのだ、と認識していた。有紗と良平は二人のテーブルと一つ離れたテーブルに座り、有紗が察したことを良平に呟くように語って聞かせた。一瞬良平はおかしな表情を浮かべたが、有紗の言うことをすべて理解したというように、うん、うん、と頷いた。お節介かも知れないが、良平は敢えて二人の間に割って入る決心をして、有紗の方を見ると彼女は微笑んでくれた。二人は手に手をとって、まだ名も知らない、おっちゃんと大学生ふうの女性の方に歩んで行った。

(18)はじまりのとき その㈠

 平戸良平は堰を切ったように語り始めた。生意気なことを覚悟で言います。何故かお二人には自分の考えを知ってもらいたいという気持ちを打ち消せなかったものですから。お気に障るかも知れませんが、しばらくご辛抱くださいね。僕が言いたいのは次のようなことなのです。「そもそも、血縁とは何なのか?他人とそうでない人間の区別は血が繋がっているかどうか、で大抵は判断しますよね。でも、生意気に聞こえるかも知れませんが、世の中、血縁関係を徹底的に断ち切られた人間も含めて、血の関係性よりもずっと濃密な人と人との関係性に僕はこだわっているのです。そもそも血縁関係と云うものが人間関係の根本的な存在様式の基礎になっているのは一体どうしたものか、と思うのです。血の繋がりさえあれば、疎遠になっている場合だって、いつかは分かり合えるなんて云う根拠のない妄信すら抱く世の中ではありませんか?僕は血縁関係をすべて否定しているのではないのです。ただ、信じられる関係性が本質的に血縁関係にある、という蒙昧な思い込みを凌駕しないことには、僕たちは本当に幸せになれないと思っているだけです。あなた方お二人がどういう関係なのかは分かりませんが、僕と有紗が、彼女は向こうのテーブルに座っている女性ですけど、知り合って時間が殆ど経過していないのに、生まれてからずっと続いている血縁関係など無意味だったと思えるほど、近しくなりました。これは奇跡ですか?そうは思えません。有紗のような女性に出会えたのは、数理的にも殆どあり得ない確率の出来事でしょう。数学の不得意な僕にだってそれくらいは分かります。何故だか、僕にはお二人のことが心のどこかに居座ってしまって、ご迷惑とは知りながらお近づきになりたいと思ってしまったのです。いかがでしょうか?もしよかったら4人でお話だけでもしませんか?」と良平は一気に語った。自分がこれほど能弁だったとは知らなかったと思えるくらいに。

 辻中潤一と池内宏子は顔を見合わせていたが、先に口を開いたのは辻中だった。「ありがとう。こんな惨めな私に、そして到底まともな関係に見えない私たち二人に対して、そんな思い入れをしていただけること自体に感謝いたします。それだけおっしゃっていただいているのですから、自己紹介といいますか、私の過去と現状とをお伝えしなければ申し訳ありませんね。ここにいる就活中の女性については、自分の現況を語るのかどうかは彼女の意思に任せたいと思います。とりあえずは私からお話させていただいていいでしょうか?」と語ってから、辻中は自分のつまらなさすぎるサラリーマン生活と、自分の容姿にも問題があったにせよ、何より自分の精神が狭隘だったがゆえに、これまで一度も結婚した経験がなく、真面目なサラリーマン生活で得た賃金の殆どをつまらないギャンブルに費やしてしまったこと、その借金の返済に退職金の殆どを当てたこと、両親の建てたどうということもない一戸建て住宅の売却金を新規事業の立ち上げに使おうとしたら、あっさり詐欺に合っていまは文無し状態だ、ということを時折言葉を詰まらせながら語り終えた。私が何とかここに帰って来たのは、実は一目私の中のヒロコに会えさえしたら、首でもくくってやろうと思っていました。辻中は止めどなく流れて来る涙を拭うこともなく、このように話し終えたのである。

 池内宏子は辻中の話を黙って聞いていたが、自分が辻中に語ったことの全容を、良平と有紗に詳細に語った。辻中との躰の関係については敢えてぼかしたつもりだったが、良平にも有紗にも事の真相は伝わっていた。

 四人が顔を合わせてから1時間以上は経過しただろうか、長い間の沈黙を破ったのは有紗だった。有紗は良平に話すように自分の想いを二人に語ったのである。

 「これはあくまで私の勝手な提案といいますか、これからどうしていくのかという漠然とした想いですので、こちらにいる良平さんも初めて私から聞く話です。そもそも私は、お二人の問題だから敢えて関わるのは失礼ではないだろうか、と思っていたのです。ですが、いまは良平さんと同じ考え方のもとに私なりの今後の構想みたいなものをお話させていただきます。

私は、京都市内の開業医のひとり娘です。細かいことは省きますが、私は父に反抗して、すぐに同じ大学の医学部から文学部の哲学科に編入し、哲学とは無縁の低次元のエロスの駄文を出版社に持ち込んだらこれがヒットして、いまは小説家兼エッセイストということになっています。でも、書き続けるということが私の願いではないと分かったのです。なので、私は医学部に再編入するつもりです。そして当面は勤務医になり、良平さんがこれからなすべきことをサポートしていきます。後は良平さんがお二人にどのようなことを話すのかによりますが、私は良平さんが決めたことについていくだけです。」

 有紗の話を引き取って、良平は言った。「僕は、人生から逃げた男です。世界タイトルマッチに負けたから逃げたのではありません。僕は幼い頃から周囲から怖れられていましたけれど、実はむしろ僕の方が喧嘩の相手のことが常に怖かった。その場から逃れるために、たまたまパンチを繰り出したら相手が倒れたまでで、ずっとそうやって来ただけです。周囲の同級生たちは僕を勝手に番長扱いして、怖いもの知らずの良平というあだ名さえついたほどです。しかし、これだけははっきりとしています。向かって来る敵の殺気だった目を僕は一度もまともに見たことがありません。理由は至極単純でした。ただただ怖かったからです。怒りや憎しみに満ちた視線の奥には深い闇がありました。僕は相手の目は見なかったけれど、自分に向けられたパンチ以上の強さで、打ち返し、相手を倒すことが出来ました。僕がパンチを出せば、確実に相手の顔面に当たりました。顔面は出来るだけ避けていても、そうなることが殆どでした。自分では足蹴りやボディを狙うのですが、早く喧嘩を終わらせたいという理由で顔面に鋭いパンチを当てたことが多かったと思います。そうすると相手の深い憎悪に満ちた目を見なくてはならないわけです。実に皮肉ことです。

親には焼き肉屋を継げと言い渡されて、それが嫌で東京に逃げました。僕の人生は逃避の連続です。たまたま目に入ったボクシングジムに入門して、すぐにプロテストに受かりました。その後は負けなしでしたので、すぐに世界タイトルマッチの挑戦者のチャンスを得ました。それまでの練習や試合で、ジムの会長から相手の視線から目を逸らすなと徹底的に訓練されました。しかし、世界タイトルマッチ当日のチャンピオンの視線の奥に、長く忘れていた人間の怒りや憎しみ、さらに付け加えると、この試合に負ければ確実に食い扶持を失くすという、悲壮な決意や執念を見せつけられてしまいました。その瞬間私の中から戦意のカケラさえ消え失せました。後はマスコミで報道された通りの、サンドバック状態のまま、私はマットの上に無様に打ちのめされました。恥ずかしくてなりませんでした。試合に負けたこと以上に自分の中の恐怖心に打ち負かされたことに耐えきれなかったのです。試合後は、誰にも告げずに新幹線に飛び乗り京都で降りて、実家の前まで行きました。でも、肉の焼け焦げる臭いを嗅ぐといろんな想いが込み上げ、吐き気がして、タクシーに乗り込み、ここに辿り着きました。

 これがあなた方と出会った簡単ないきさつです。有紗にもまだ中途半端な話しかしていないことですが、僕はやはり東京に一旦帰り、記者会見をして引退の表明をして来なければならない、と思っています。もうこれ以上、逃げるだけの人生から足を洗います。逃避からの人生を終わらせるためには、逆説的なようですが、逃避の宣言からは逃げることは出来ない、ということに気づいたのです。そして、有紗とみなさんのお知恵を借りてこれからの生き方を探って行けたらどんなにいいだろうか?と思っているのです。どうでしょうか?はじめに有紗の答えを聞きたいのだけれど。どうかな?有紗?」

 「私は大賛成よ。何より良平さんが逃げることを恥だと考えなくなったことがうれしい。だって、お二人にも聞いてほしいのですがそもそも逃げることってそんなにいけないことなのでしょうか?そりゃあ、法的に悪質なことを正当化するための逃避はいけないでしょう。そうではなくて、よく私たちが日常生活の中で、『逃げずに困難に立ち向かえ!』という、ありふれた常識そのものに対して疑いを持つべきだと思うのです。『逃げない』ということは、決して美徳ではないですし、逆に違う角度から見た人生観からすると、逃げなければならない状況の見極めが出来てこそ、生きる意味の本質が視えてくるものです。『逃げること』が他人から見て、卑怯だとか情けないというマイナスの評価をいっとき受けようと、そんなことはどうだっていいと思えるかどうかが大切です。少なくとも私はそう理解しています。むしろ逃走の機会を逸したために自分と自分に関わる人たちの人生をダメにしてしまうことの罪深さを考えることがこれからの人生を生き抜くことの核心ではないのでしょうか?どうですか、そうは思いませんか?辻中さん、池内さん。」と有紗は少し高揚した感情を自分で抑えきれずに語り終えたのだが、冷静に伝えるべき二人にそのように映ったのかどうかは定かではなかった。有紗は説教臭く聞こえないことだけを願った。有紗が雄弁に語れたのは、良平が東京へ一旦帰っても必ず自分のもとにもどって来てくれると確信出来たからに他ならない。

(19)はじまりのとき その㈡

 辻中は、特に有紗という女性の発言を聞きながら、反発を覚えるどころか、むしろ自分に彼女の言うような思想のカケラでもあったなら、自分の人生は、こんな末路を迎えていなかったと心底思うのだった。不条理なことが起これば起こるほど、それらに対して出来もしない抗いをし続けてきたように思う。勿論、それは自分がそう感じているだけで、周りから見るとただ乗り越えるべき障壁の前で佇んでいるようにしか感じられなかった、と思う。両親からも、友人たちからも、仕事の同僚たちからも、そして誰より自分自身が自らの立ち位置を錯誤していたのだと思うのだった。つまらない詐欺に引っかかったのも、実際は困難でも何でもないものに立ち向かおうとして、どんどん真実から遠ざかっていったのだろう。この結末こそがオレの人生そのものではないか!と嘆息するのが精一杯だった。辻中はどっと疲れが出るのを感じていた。フラッとして倒れ掛かった辻中の腕をしっかりと支えたのは、池内宏子だった。二人の寄り添う姿は客観的には親子そのものに見えた。

 「実は良平さんの方が、辻中さんのことを心配していて、最初良平さんから辻中さんに対する想いを聞かされたときには、私はただ良平さんのやりたいことをすればいい、というくらいの考えだったのです。でも、いまは、辻中さんと池内さん、お二人にお話しするうちに、徐々に私自身の今後に対する考えも不思議なことに定まってきたわけです。具体的には良平さんさえよければ、もっと詳細にお話するつもりです。どうですか?良平さん、あなたにはすでに話したことが大半ですが、少し話を拡大させることがあってもいいですか?」と言う有紗に向かって良平は静かに頷いた。

 「先ほどお話したことの繰り返しにはなりますが、私の父親は京都市内でかなり成功している中規模総合病院を経営して、自分のことを辣腕家と信じて疑わない人です。こんな人間が人の命に関わる仕事をしているかと思うと、お恥ずかしい限りです。父に対する嫌悪感の方が強くて、すぐに文学部の哲学科に編入しました。いまに至るまでの経緯は長くなるので略しますが、結論から言いますと私は医学部に再編入して医師になります。最終的に食べていくためです。

 最終的に、と言ったのはあの父なら私が医学部に再編入したことを知れば、何の疑いもなく自分の言うことが娘に理解されたと思うでしょう。父の単純さは、頭脳の構造が単純だからではありません。もし、単純さがあるとすれば、彼の傲慢さゆえに、世の中は自分の思い通りになると確信していることが、単純さの根っ子なのです。父は製薬会社からお金を引き出す術に長けた人間ですし、出身大学の付属病院にも患者を送り出し、人脈づくりに励んでいるような、医師というよりもあくどい経営者です。だからこそ、私が今後はそういう人間に反抗するというよりも付け入る手段をとるつもりです。必要悪という認識でそうするのです。

良平さんと私、良平さんが気にとめているお二人の生きる術を実現するのは綺麗ごとでは済まされないところまで来ていますからね。ともかくお金が必要です。だから悪徳で儲けた父から今後出来るだけお金を引き出すことを考えて実行します。父の病院なんて潰れても医学界にとって何の痛手でもありませんから、病院が倒産してもどうということはありません。その時の備えのために私は、勤務医として救急医療の腕を磨くつもりです。ですから、いま具体的にお聞きしたいのは、良平さんも、お二人も漠然とでもいいですから、近々何をして生きていきたいのかということです。言葉を飾る必要はないですから。意識して綺麗ごとを排して話し合えたら、と思います。」

 良平が口を開いた。「僕のボクサーとしてのはじまりは、幼い頃、在日であるがゆえにイジメられたことです。僕は当時身体が小さかったし、やられっぱなしでした。でも、小学校高学年の頃から背が伸びだして、それとともに力も強くなって、これまでイジメられてきた奴らに思い切って殴り返してみたら、あっけなく相手は泣き出したのです。その日以降の僕は、喧嘩が恐ろしく強い良平というレッテルが貼られ、実際負けなしでした。たとえ相手の強いパンチを喰らっても、絶対に堪えてもいないフリをして、隙を見て相手により強いパンチを何度も何度も打ち返すのです。そうすれば喧嘩に負けることは絶対にありません。少なくともそう思っていました。

中三の夏休み前に、ある同級生が喧嘩を売ってきたのでやってみたら、意外にもろい。あっけなく自分の身体の下に組み伏せました。そいつは僕の身体の下になって完全に喧嘩には負けているのに、凄まじいほどの憎しみの視線を僕から絶対に離さなかったのです。僕はその目の奥底に潜む暗い憎悪の感情が心底怖くなってしまった。もうこれは敵わないとおもいました。それ以来、僕は喧嘩には勝っても、喧嘩相手もそうですが、誰に対しても恐怖心を拭えなくなってしまいました。人の目をまともに見ることが出来ない。人の目の奥から憎しみや怨念の兆しが見え隠れすると、もう僕は恐怖心で身体も動かなくなってしまうようになってしまいました。それが僕の弱さだと思って、自分の中の弱さを克服するために東京のボクシングジムに入門し、大抵の対戦相手に対しては自分の中の弱さを悟られることもなく、幸運にも世界タイトルマッチのチャンスを手に入れたのです。多分チャンピオンと僕との単純なボクサーとしての能力を比較すれば、圧倒的に勝利は僕に有利なはずでした。しかし、チャンピオンの目は僕が彼にダウンされる寸前から劇的に変化したのです。それは僕が最も怖れていたものでした。僕は相手の顔をまともに見ることが出来なくなり、相手のパンチを避けることすら出来なくなりました。チャンピオンのパンチがまともに僕の顔面にヒットし続けました。当然のように僕は無様にマットの上でのたうちまわり、痛みと恐怖心の虜となり立つことさえ出来ないまま、惨敗しました。その後のことは皆さんがボクシングに関心があれば、マスコミに最もひどい報道の仕方をされていることをご存じだと思います。それが、いまの僕のあるがままの姿です。」

 池内宏子は、辻中に話したことをそのまま話すことが自分の使命であるかのように4人の中で語り尽くした。そして、自分はかなり恵まれた環境のもとで育ったのだと思い続けてきたが、それすら一面的な見方に過ぎず、自分がいかに家族の中で孤立した存在であったのかを余すことなく語った。そして、自分が置かれた生活環境というフリンジを剥ぎ取ると、一体自分に何が残るのかに想いを馳せ、その結論として少なくともいまの自分には、自分とは何か?という自問すら出来ない人間であることに気づいたのだと告白したのである。就活の面接官が特段優れた洞察力を持っているとは思わないけれど、そんな人たちにすら自分の心の空洞を見抜かれてしまう、情けない自分がこれまでの自画像だとしっかりとした口調で宏子は述べた。その様子はまるで朴訥な若き哲学者のように見えた。

 ここに集った4人ともに、これまでの生き方を告白していると同時に、それらの内実はすべてこれから先の人生をどう生きるべきか?という濃密な哲学的な告知のごときものに自然になったのは不可思議な偶然と言うべきだろうか。あるいは、訪れるべき必然だったのだろうか。

(20)黎明のはじまり

 ネットカフェという閉ざされた空間であっても、ところどころにある小窓から澄み渡った朝日が差し込んで来る。4人は夜を徹して話したのである。とはいえ、お互いの話は互いに親和性を求めるように絡み合い、縺れ合って、飽くことなく続いたのである。4人の告白は、それぞれがまるで違う内実であるのに、家族という名の絆の危うさや脆さを白日のもとに晒すと同時に、自分と他者との関係性がどれほど大切で、かつどれほど危ういものか、そして何より自分自身の存在を確立することの重要性について確かめ合ったのである。たぶん、一人一人が自分の存在について、自分の言葉で整理出来た貴重な時間ではなかっただろうか。

 昼前になって、4人はネットカフェを出た。4人がそれぞれに行く末の脆さを自覚しながら、それでも未来を視なければならない、と感じながらの精神的巣立ちだったと一人一人が感じていた。良平は有紗と、そして辻中はヒロコと手を握り合って、四条大宮駅から河原町に向かって歩き出した。4人は無言だったが、お互いに言葉はもはや必要とはしていなかった。河原町通りを長く歩いて高島屋の前まで来て、4人はお互いの携帯番号を交換して、別れることにした。良平と有紗、そして辻中とヒロコは、別々の方向へと歩を進めた。

         (エピローグあるいはプロローグ)

 6年後、小さな葬儀会場に、良平と有紗は夫婦として二人手をとって座っていた。池内宏子は辻中とはじめた小さな輸入雑貨の店のオーナーとして数店舗を展開し、夫の辻中の遺影に向かって静かな笑みを投げかけながら席についていた。辻中は屈託のない笑顔を絶やさず、ここ2年、肺がんによる体調不良をものともせず、仕事をし続け、臨終の間際で見せた幼い子どものような満足した表情を浮かべて、宏子と良平と有紗に投げかけて旅立ったのである。ビジネスをはじめるにあたっての資金は、宏子の実家と有紗の父の遺産からの拠出金でまかなった。宏子はいまやしっかり者の経営者になり、辻中は自分亡きあとの心配などはしなくてよかったのだろう、と良平は思った。彼は幸せな最晩年を過ごし、少しばかりの成功体験を得て旅立ったのだ。人生は、長く生きるだけが能ではないな、と良平は自分を辻中の生き方に重ねて思うのだった。

 良平は焼肉チェーン店を数店舗経営していた。肉の質の良さは、両親が力を貸してくれたお陰で、信頼出来る食肉の仕入れ先の確保が出来たからこそ始めたビジネスだった。大手チェーンの大量仕入れとは違う良質な食肉の仕入れの仕組みを確立して、安くてうまい焼肉屋の経営者として、堅実な店舗経営をしていたのである。有紗は自分との結婚後も父親が亡くなってから病院を閉院し、緊急医療の現場で頑張っている。大枚の遺産の一部を辻中や良平のいまのビジネスの立ち上げにつぎ込んだが、大半の現金は銀行預金に据え置いている。恐らく漠然とした大きなビジネスの構想が浮かびつつあるだろうと思う。有紗の健在だった頃の父親の大反対に遭いながらの自分たちの結婚に対して、有紗は冷静沈着に事を進めていった。有紗の父親が時を置かずに亡くなってからは、受け継いだ大きすぎる遺産からビジネスの立ち上げ資金に充ててくれたのは有紗であり、宏子さんであった。「大した女たちだな、そうでしょう?辻中さん」、と辻中の遺影に向かって良平はそっと微笑みかけるのだった。良平は、有紗がかつて語ってくれた『逃走』の哲学的意味を忘れてはいない。オレたちは生きることを諦めはしないし、同時にただ無意味に生を永らえることもしないが、抗って、抗って、抗いぬいて、それでも乗り切れなければ乗り切れない対象から逃げればいいのだ。そして逃げたその瞬間から次の抗いの場を創ればいいのだ、と改めて自分に言い聞かせた。そして、癌を患った辻中さんも肉体的には辛かっただろうが、いま彼の遺影の中の笑みはいかに彼の最晩年の生きざまが幸福だったかを証明していると良平には思えた。自分もあんなふうに有紗と生き、そして、今後もこれまでと同様に、宏子さんのサポートもしっかりとしていこうと決意した。生に言葉どおりのリアリティがあるとすれば、自らは決して選べない血縁よりもさらに高次元の、『自=他』に関わるホンモノの絆の物語を現実に創る勇気がなければダメだ、と良平が思った瞬時に、自然と自分が微笑んでいることに気づいた。そして、辻中の遺影を目を細めて眺めている有紗の横顔をそれとなく眺めながら、辻中と有紗と宏子に、アリガトウ!と小さく呟いた。

                    完

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失意の果てにこそ・・・ @yasnagano

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