ボンソワールな雪の夜に。

魚羅塚 朔太郎

第1話「Préface」

「──鬱病うつびょうですね」


 院長は続ける。


「今はお仕事をお休みすることをお勧めします。診断書を書きましょうか」

「…………はい?」

「あまり深く考えずに、一度ゆっくり心身ともに休めてください」


 ――お大事にしてください。


 ポカンとしながら、僕は病院の受付をあとにした。握られた診断書には、最低三ヶ月間の休職を命じる旨と、院長のサインが記されている。


「これ、主任に見せなきゃダメだよな……」


 *


五百瀬いもせくん、ちょっと会議室いいかしら」


 いつもせわしなくしている主任が、今日は特別やさしい声音で僕を手招きしている。嫌な予感しかしない。 

 会議室のドアを閉め、主任は諭すように口を開いた。


「うん……あなた、しばらくは自宅で療養なさい。とりあえず、会社のことは何も気にしなくていいわ。何かあればいつでも私に連絡をしていいから」


 優しいトーンで続く言葉を上の空で聞き流しながら、どうしてこうなってしまったのか、僕はぼんやりと考えていた。


 五百瀬いもせ 太朗たろう 独身24歳、営業部チーフ。

 営業成績優秀。無遅刻無欠勤。社長賞他受賞経験多数。今回の企画の営業成績が奮えば、営業部から企画部へのキャリアアップはほぼ確実。部下からの信頼も厚く、期待の星と評される若手トップ営業マン。


――の、はずだった。


 ことの発端は、毎年全社員が受ける最新のストレス診断テストにある。どうも僕だけの結果が平均の基準値より大幅に高かったらしく、『これは異常値である』との判断で精神科の受診を勧められたのが、悲劇の始まりだった。


「精神科って言っても、軽い気持ちで受けてきていいから。テストの結果が悪かった人は皆受ける決まりなのよ。結果だけあとで私に教えてね」


 主任にそう言われたので渋々受診してみたところ『鬱病』との診断がくだってしまい、素直に診断書を渡したらこんなことになってしまった、というわけだ。

 

 時代も時代、労基の厳しい目を気にする自称ホワイト企業の弊社は、僕の休職を拒むどころか三ヶ月の休職は当然の決定事項として、驚くほどスムーズに引き継ぎ処理がなされていった。

 

 これの何が問題かって、これまで一心不乱に昇進を目指してきた仕事人間の僕にとって、このタイミングでの休職は全く喜ばしいことではなかった。

 

 元来営業職は、休めば休むだけ成績も離され、自分が積み重ねてきた大量の顧客も三ヶ月もの休職となれば、一時的とはいえ全てを周りに引き継がなくてはならない。復帰できたとて、復帰前と同じ状況に『はい、元通り』となるはずもなく。


 何より一番の問題は、『五百瀬はメンタル面に不安あり』との烙印を裏で押され、僕がこれまでずっと目標として掲げていた企画部への昇進が、恐らく今回の件で白紙になったであろうことだった。


 ──結論、診断書なんか馬鹿正直に渡すんじゃなかった。


 身支度をすませ、主任や同僚にぺこりと頭を垂れる。


「五百瀬くん、今はゆっくり休みなさいね」

「ありがとうございます、主任もご無理せず……」


 会社のエレベーターを降り、最寄りの駅へと歩きだす。街はまだ、平日の喧騒で賑わっていた。


「こんな時間に帰るの、ひさしぶりだな」


 ぽつりと呟きながら、改札を抜けて電車に乗る。こんな時間だからか、席はガラガラだ。僕は乱雑に座席へ座ると、誰もいないのを確認してから深いため息をついた。


「ま、きつい営業だったから……」


 実際、無理をしていたから心身に影響が出たのには違いない。主任も僕の身を案じてくれたからこそ、きっと受診を勧めてくれたのだ。


「もうちょっとで届きそうだったのになー」


 メンタル管理のできなかった自分が悪いんだ。仕方がない。また頑張ればいいじゃないか。


「しばらく休んでまた一から……」


 ──また一からやり直して……。


「………………くそっ」


 ガン、と手すりを乱暴に叩く。


「…………っ」


 赤くなった手の甲を眺めていたら、だんだんと視界が滲んでいくのが分かる。僕は長く伸びた前髪をいじる振りをして、熱くなった目頭を必死で隠そうとした。

 この車両には僕以外、誰も乗っていないというのに。


 *

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