第1話 転校生

 時刻、午前7時半頃。

 ふらふらとした足取りで校内の廊下を歩く。


 6月だというのに、通学路は日照り続きで蒸し暑い。登校するのが嫌になるが、最近では『天気など関係ない』と無理やり自分を納得させている。

 実際、関係ないのだ。晴れようと曇ろうと、僕の視界に飛び込んでくるのは空の様子ではなく、他人の糸の様子なのだから。


 僕だけに見える糸の操り人形として行動することで、僕は何とか正気を保てている状態にある。

 感情が元から死んでいる人形ではなく、奇人と罵られた人間として学校なぞ行こうものなら、僕はすぐさま発狂してしまうだろう。


 あぁ、帰りたい。

 学校に来たばかりだけれど。


 ……いや、違う。どこにもいたくない。


 家にも居場所なんて無いのだから、どこか遠くへ行って自由に暮らせれば、などと、時たま夢を見てしまう。


 しかし、所詮は夢物語。

 そして、無慈悲にもここは現実だ。


 僕が吐き散らしているのは、ただのタラレバに過ぎない。


 結局、僕はただ目の前にある不条理な現実に憂いを感じながら、糸に操られる他ないのである。


 そんなことを考え、ため息をつきながら教室の引き戸を開けた。


 そのまま、目の前にある自分の席につく。

 廊下側の1番後ろの席。


 無駄に教室全体が見渡せるせいで、クラスメイトが所持している幾数の糸が直接僕の視界に飛び込んでくる。正直な話、この席は嫌いだ。


 しかしそれでも僕は前を向かないといけない。

 なぜなら……。


(ギギィ……ギリギリギリ――)


 僕の頭についた糸が、前を向いて、愛想良くはにかんでいろと命令するからだ。


(ギシッ、ギギ……)


 分かった分かった。見ればいいんだろ。

 僕の幻覚のくせに急かすなよ。


 頭にかかった強い力に身を委ねながら、渋々顔を上げる。


 2年1組。総勢32名という小規模なクラスではあるが、活発な運動部員が多いということもあって朝の教室は賑やかそのもの。

 その中でもダントツで賑やかなのがいるが……あれ? どこいった――?


「おーはーよ! 紘! 辛気臭い顔してんなぁ」


「うぉっ?!」


 探しているうち、後ろから軽く肩を叩かれる。


 振り向くと、賑やかな声の主がこちらに満面の笑みを向けていた。どうして朝っぱらからそんなに笑えるのか、僕にはさっぱり分からないが。


 クラスのムードメーカーで、僕の友達(ということになっている人間)。坂上翔さかがみしょうだ。


「……おはよう。そんな顔してた?」


「してたしてた! 徹ゲーしたときの俺みたいだったぞ!」


 翔の芝居がかったユーモラスな自嘲にクスリと笑いを演じながら、話題の転換を試みる。浮かない顔をしていた理由について追求されると面倒だ。


「翔は徹ゲーしてもテンション高いだろ? 会話は噛み合ってなかったけどな」


「……えっ?」


「え?」


 ……しまった。何か間違えたか?

 一瞬のうちに不安と後悔が頭を掠めるが、帰ってきたのは翔の恥ずかしそうな笑顔と、思わぬ言葉だった。


「俺、脳死だったのかぁ」


「……自覚無かったのか?」


「おう、ちゃんと話せてると思ってたわ。あ、ホームルーム始まるから! じゃな!」


 僕は、笑い混じりに駆けていく翔に聞こえないよう「びっくりさせるんじゃねぇよ……」と悪態をつくのだった。


***


 ホームルームの鐘が鳴る。


 教卓についた担任の女教師が、パチンと手を叩いて話し始めた。


「はい! 皆さんお待ちかねでしょうから、さっさと紹介しちゃいましょう! 前々からお話していた転校生がクラスにいらっしゃいました!」


 ……ん? 転校生?


 あぁ、そういえば。

 すっかり忘れていた。


 別のクラスいた男子グループが、うちのクラスに美人の女子生徒が転校してくるだとか、そんなことを話していたような気がする。


 我ながら人に関心が無さすぎるな……まぁ、仮に僕と女子転校生が接点を持ったとして、何か特別な事が起こるわけでも無い。


 良くも悪くも、いつも通りだろうな。


「織田倉さん、入ってきて下さい〜」


 頬杖をつき、ぼうっとした視線を担任から転校生に移した……そのとき。

 僕は瞬間的に、世界が止まったような、突然、異次元に放り込まれたような感覚を覚えた。


 教室に入ってきた女子生徒の姿が……。

 糸に、吊られていない。


 古典的な文学少女を思わせる2つの三つ編み。

 目が痛くなるような真新しいブラウス。

 その袖から覗く、透き通るような色白の肌。


 そのどこにも、糸は見当たらなかった。


 そんな衝撃にぽかんと口を開けた僕の顔を傍から見ることができたなら、さぞかし愉快だったと思う。


織田倉結衣おだくらゆいです。よろしくお願いします」


 彼女は、僕のアホづらに気づくこともなく、淡々とした口調で挨拶をしている。端正な顔立ちに合う、凛とした声だ。


 まったく……どうしたことだろう。


 続いている彼女の自己紹介すら聞き入れられない程、僕の気分は高揚していた。

 糸が無いという事実、そして、彼女の真っ直ぐな姿勢に。


 僕の何かが変わるのだと。

 そう、予感した。

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