旧コンピュータ室の寂しがり・終
――づら――い、おい!!
「は……あ、うあ」
「お前、大丈夫か?」
「ああ、うん……だいじょうぶ」
「んな顔色で言われても説得力ねーっつの」
声をかけられてようやく現実へ戻る。
先生の最後に言った言葉から、脳が勝手に行ったこともない屋上を思い浮かべ、そこから下へ落ちていく先輩の虚像を思い浮かべていた。何度も、何度も、何度も。
「話を聞くの、やめるか?」
「いえ、話してください。ちゃんと聞きます。聞きたいんです、知りたいんです」
「なんだってここまで……いや、いいだろう。最後まで話すよ」
私のこの執念にも似た情動に、先生ももう面白半分に聞いているわけではない事を理解してくれたんだろう。悪夢みたいな話の続きを、震える手を握りしめ『飛び降りたってのは正確な表現じゃない』と前置きしてから語りを再開する。
「その日、俺は妙に生徒に絡まれていてな。散々色んな理由で引き止められて、いつも行く時間よりだいぶ遅くなってから部室に着いたんだ。ちょうど、今みたいに夕日の光が眩しかった――その光を、一瞬だけ遮るものが通った」
ああ、メル先輩か。ぼんやりそのように思う。聞きたくない。聞きたくない。でも、目を逸らしたくない。
「下では校庭に残ってた生徒や職員室の開いた窓から先生方の騒がしい声が聞こえていた。そんな中、俺は下には降りずに屋上へ一目散に駆けた。嫌な予感がしたんだ。いつもは偽善者だの言って俺を毛嫌いしてた生徒たちが、その日に限って積極的に俺に話しかけてきたのも。その生徒の中にいつもいた彼女がいなかったのも、全部が嫌な現実を
寒気がする。先生のその時の不安が時を超えてこちらにまで伝わってくるようだ。彼女とは、きっとメル先輩を虐めていた女子生徒のことであろう。
「幸い俺は五階にいたから屋上にすぐついた。案の定ドアは開け放たれていて、その先で数人は地面に座り込み、一人は下を見ていた。全員、海尋を虐めていた奴らだった」
「……つき、落とされたんですか。あの人は。その人たちに」
先生は目を閉じて顔を俯かせる。
何も言わずとも、それは既に肯定しているも同じであった。
「殆どの奴らはやってないだの、あいつが勝手に飛び降りただの言ってたけどな。一人だけ、海尋のことを好きだった女子生徒が自白したんだ」
『あたしが好きだって言ったのに受け入れないから。あたしの思い通りにならないなら、あんなやつ生きてる価値もない。あいつがいるとあたしが生きるのが辛いから、消えてもらおうと思った』
「あの台詞は一言一句違わず覚えてるよ」
先生は自嘲気味に笑った。話を聞いている面々は何も言うことができない。
……解らなかった。理解できなかった。怒りがつま先から頭のてっぺんまで登って、そのまんまになった。
なんだそれ、なんだその理屈は。とんだ逆恨みじゃないか。そんなくだらない理由のために、そんな自己中心的な考えであの人を屋上から突き落としたのか?
思い返せば、メル先輩はいつも他人に対して否定的なきらいがあった。特に、恋をした女子に対してはことさら嫌悪を隠しもしない。
ぜんぶぜんぶ、彼の言動に現れていたのだ。この、最低最悪な出来事のことが。きっとトラウマだったのだろう。
「理事長はこの事を重く受け止めた。いじめの加害者たちは警察に引き渡したし、屋上は使用禁止にして二度と生徒が立ち入らないよう施錠。そして放課後、生徒を監督する、必ず目の届く範囲に置くという目的の為に『部活には必ず入らなければならない』という校則を作ったんだ」
「エあの校則ってそれが原因だったの!?」
「知らなかった……」
二人が驚きに声をあげる。
「部活動に全生徒を時間いっぱいまで押し込めておけば、放課後は部活をするか勉強するかの二択しかなくなる。理事長は、もう二度とこんな事が起きないよう徹底して生徒を管理する事に方針を定めた。細田先生はこの事件から三年後に来たから知らなかったんですね」
「ええ。こんな事があったなんて俺は全然知りませんでした……っておいおい」
「うわ」
「雀部……」
三人がダバダバと涙を流す私にただひたすらティッシュを渡してきた。
もう感情が限界だったのだ。まだ先輩を普通の人間だと思っていた頃に過ごした日々のことを、次々と思い出したから。
彼は最後に言っていた。ずっと変わらない日々、眺めるだけの毎日。誰にも姿が認識されることはないと。
私が来るまで五年という月日が経っている。その間あの人はたった独りぼっちでいたのだ。その事がどれだけ寂しいことか、孤独なことか。私にはその気持ちを推し量ることができない。彼の空虚な五年間を思うと、泣かずにはいられなかった。
「……雀部が入部届を持ってきたときは驚いたんだ。映画研究倶楽部は今は理事長ぐらいしか存在を知らなかったし、雀部に教えた覚えは無かったし。しかも、海尋の自分から名乗ってた名前を口に出すもんだから」
メルというのはフランスでの名前であり、海を表す単語である。メル先輩の日本での名前は海であり、父親がフランス人のためこの名前を名乗っていたのだという。
「雀部は、海尋に会ったのか? 会って、話をしたのか?」
「はい……」
「そうか……そうかぁ」
和先生は安心したみたく言葉をはいた。なんだか吹っ切れたような、憂いを取っ払ったような様子だ。
「最期だもんな。最期くらい、誰かと一緒にいたかったのかもなぁ」
「は……?」
最期という言葉に唖然とした。
さいご、最期……最後じゃなくて?
「え、その先輩ってまだ生きてんの?」
「ああ、一応な。五階からは落ちたが下が木の植え込みだったから……だが、あいつは……あんまり言いたくはないんだが、その、植物状態で……病院でずっと寝てるんだ」
「……」
「理事長の奥さんがだいぶ参ってて、そろそろ次に進んだほうが良いかという話が――」
皆の言葉がだんだんと遠くなってゆく。
しょくぶつ……次に進む。次に進むのは理事長さんと先輩のお母さんだろう。先輩は最期。死亡宣告という言葉があったっけな。
「どこ」
「ん、何がだ雀部」
「メル先輩の病院……どこですか!!」
「うわうるさ」
「はやく!! どこの病院!?」
「な、
聞いた瞬間、私は
走れ、走れ、太陽が沈むより前に。
息切れも動悸も汗も全く気にはならない。
先程、先生ははっきり『最期』と言った。
ここまで聞いちゃ普通は『もうだめだ』だとか『諦めるしかないか』などとマイナス思考になることだろう。せめて死に際には立ち会いたいとか思うんだろう。
そんなのはっきり言ってクソ食らえだ。私とあの先輩の間に、そんなよくあるラブロマンス小説ばりのシリアスは必要ない。
「先輩は、生きることを諦めちゃいないんだ」
今日一日、ずっとずっと頭の片隅に先輩との会話を思い出していた。使い古された映写機みたく、ぶち壊れたように何回も再生される景色。声。瞬く銀色。冬の代名詞みたいな、人類悪の擬人化みたいなあの人は、私にたくさんのメッセージを残した。
「これから死のうって人が、生きていていいと思えてくるとか、逢いに来いとか、後輩の女の子に好きだなんて、言わないだろ……っ!!」
――逢いたい。先輩にただ逢いたかった。
思えば、これまでの経緯はもはや運命なのではと考えてしまうほどによくできていた。私がクレヨンに取り憑かれて部活に入るのを渋ったのも、部活のメモを見つけたのも、彼のいる部活に入ったのも。
全てはメル先輩と出会うために起きたのではないかと思うレベルの出来事だ。
きっと私は、あのメモを手に取った時からあの人に魅入られていたのだろう。
走って走って、病院のエントランスまで来る。いちど後ろを振り返れば和先生と成瀬、遠くに細田先生がヘロヘロになって追ってきていた。
「先生面会手続き!」
「ちょっと待て、細田先生が――」
「先生走るの遅い!」
細田先生よりこっちが先だと言って和先生をぐいぐい引っ張り、面会手続きをしてもらう。部屋番号を聞いた途端、手続きが終了するよりも前に歩き出す。成瀬や細田先生の回復を待ってる暇などとうに無い。
階段からいちばん遠い、いちばん奥の海の見える部屋。そこが先輩の眠る病室だった。
ドアに手をかけてひと呼吸ぶんだけ置き、ゆっくりと引く。室内の窓から差すオレンジ色が、私の目を焼く。
「あ……せ、んぱい、先輩!」
目の前のベッドに横たわるメル先輩を見とめて駆け寄る。記憶の中の先輩とちがって痩せほそり、少しだけ大人びた顔つきをしているけど。でも、そこにいるのは確かにメル先輩だった。
――ああ、生きてる。
横にだらんと置かれた先輩の手を両手で包むように握れば、彼から暖かな熱が自身の手に移る。それは紛れもない生者の手であり、彼はしっかり息をしているのだと思わせるには十分な熱だった。
「メル先輩。見つけました、逢いに来ました」
じわじわと血の通った温かさが増し、そこに存在する、確かに生きているという証拠を残す。
「……っ」
「!!」
握った手は微かに力がこもり、銀色に縁取られた瞼は微かに震え出す。
隠された青白磁色の瞳がゆっくりと開き、私を捉えた。柔らかな光を灯すそれは、これまたとびきり柔らかく細まった。
「お……そい"で、すよ」
掠れた声。耳によく馴染んだそれは、部室でいつも聞いていたもので……もう、限界だった。
「お、起きて開口いちばん、それですか? 仕方ないじゃないですか……っひう、うわああああああああん!!」
そもそも先輩がちゃんと生きてることとか、どこの病院に行けばいいのかとか、言えばすぐ迎えに行けたのだとかとか。言いたいことも文句もたくさんあった。けれど、生きてる先輩を見てどうでもよくなってしまった。感情大爆発である。
「雀部! なに、ご……と、」
「これは……」
「うわ大号泣」
遅れてやってきた三人が先輩に縋りついて泣くのをドン引きしている気配がする。もうなんだっていい。どうだっていい。メル先輩が生きてて温かい。それだけの事実が自分がどうとか考えてる余裕もないぐらい、嬉しくてたまらなかった。
「海尋が……五年ぶりに起きて……い、医者!!」
「ちょ、ナースコール押せばいいでしょ……行っちまった。成瀬、自販機で水買ってきなさい。俺は理事長に電話かけてくる」
「りょーかい」
各々が病室から去っていく。たぶん細田先生が気を利かせてくれたんだろう。私はいちど深呼吸をしてから改めて、メル先輩に向き直る。
「メル先輩」
「は……い"」
「私、ちゃんと逢いに来ました」
「は、い」
「迎えに来ました」
「ん」
「……」
いちどだけキュッとくちびるを噛んでから引き結んだそれを解き、今まで悩みに悩んだ台詞をようやっと伝えた。
「恋愛なんか柄じゃないし、すきとか、まだよく分からないけれど……私は先輩とは離れ難いと思ってるんです。だから、お、おお友達から、はじめません、か!!」
たぶん、いま私の顔は真っ赤でトマトみたいになっていることだろう。羞恥に焼かれて死にそうだった。
でもメル先輩があんまりにも嬉しそうな、愛おしそうな顔をするもんだから。
――マ、いいかと水に流すことにした。
かくして、私は幽霊であった「海尋メル先輩」の存在を消し、本来の「海尋海先輩」を取り戻したのだった。
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