水底に沈んだ恋の水死体・終
ちい子先輩の大切なもの。死ぬ原因になってしまったものでもあるそれは想い人からの贈り物であり、お揃いだとも言っていた。
(なら、ならこれを持っていけば―――)
なんにも確信なんかないけど、きっといい方向に事が進むような気がした。
「ちょ、はや……ぜえ」
「先生おっそいです!」
「三十路二歳に全力疾走はむり……」
「いいから早く走ってください!」
気持ちだけが先に行ってしまって心臓がどきどき脈打つ。なんだか最近、いつも走っている気がするんだけども。
「は、はぁ、着いた!!」
ぜいぜいあがる息を整える。先生が座り込んでバテているが、そんなの
「届け、届け――」
お話した三日のあいだ、ずっと座っていた場所。そして彼女が泡となって消えた場所にミサンガを沈める。
どうか届いてほしい。これは彼女の捜し物ではないけれど、それと同等の価値のあるものだ。どうかどうか、彼女がこれで彼岸に渡れますように。
「あ」
水に晒されたミサンガは鯉の姿にかわり、水底に溶けるように潜っていった。
『ありがとう』
後ろからふわり、風がベールのように降ってきた。それは前へ優しく移動し彼方へ登っていく。
「……」
「ぜえ、ぜえ、雀部? どうした」
「いま、ありがとうって……」
「そんなの聞こえ――」
――ピリリ、ピリリ
白衣のポケットから古い電子音が鳴り響く。このご時世にガラパゴスケータイを使っているとは驚きだ。
先生はケータイを耳にあてしばらく、怠そうな目をまん丸にしてこちらを見る。
ちらりと見えた画面の向こうの名前表記をみて、この件の終焉を悟った。
「病院から……覚が目を醒ましたって」
※※※
ミンミンミンミン。あっちの木にもこっちの木にも蝉がくっついて、ブザーよろしくいのちを叫び続けている。流石に十五年も聞いていると五月蝿いだとか鬱陶しいだとかの感情もわかない。
「なにを黄昏れてるんです?」
となりにひんやりとした気配がやってくる。だあれも来ない五階奥の廊下の窓まえ。こんな辺境の地にくる人物なんて一人しかいない。
「別に黄昏れてはないですけど……」
おずおずと隣に視線を移動させる。珍しいもんだ。いつもは私から話しかけに行っていたように思うが……なんだかようやく猫が懐いたみたいな妙な感覚をおぼえた。
(――というか、近ッ!!!!)
メル先輩は私の左腕に自身の右腕をピッタリとくっつけていた。開いた窓枠はけして広いわけではないため、腕だけでなく左側がぜんぶ先輩に触れている。エ、近すぎくない?
「あ、の……なんか近くないですか?」
「別に普通でしょう」
「ア、ソッスカ」
窓向こうに視線を戻す。お隣さんは体はひんやりしてるくせに視線だけは熱した鉄のごとくあつい。めっちゃ見てくる。一体どうしたというんだこの人は。落ちてたものでも食べたのか? それとも頭うった?
もはや逃げ出したくてたまらなくなってきた頃、隣からの静かな声が鼓膜を震わせる。
「満足いく結果が得られましたか」
慈愛のこもった声だった。恥ずかしくなるぐらいの声だった。調子が狂ってしまいそうになりながら、なんとか私も声を出す。
「ま、満足のいく結果になりました」
彼女は三途の川を渡り、細田くんは目を醒まし、部活動はまた再開を果たした。全ては事件が起きる前の状態へと舞いもどり、普通を謳歌するにたる風景を取り戻したのである。
「細田くん、溺れた時のこと何も覚えてないって言ってたそうです」
彼の目覚めたあとに発した第一声が『なんで病院にいんの?』であったそう。プールサイドで言った水底に死体うんぬんのことまで、きれいサッパリ覚えていなかった。
「でも、でもね。綺麗なお姉さんがごめんねって。ありがとうって言って男の人と歩いていく夢を見たそうです」
きっともう、あのプールには何も沈んではいないのだろう。水のように手のひらから溢れてしまった恋は、立ち登った泡とともに天へ帰ったのだ。
「細田先生から話を聞いたあと、めちゃくちゃ泣きました。今年でいちばん泣いたかも」
「本当、泣き虫な人だ。毎回なにがしかでべえべえベソかくじゃないですか」
「いやいや、だってあんなん泣くでしょう」
死んでなお一人を愛した彼女と、結婚して子供ができても、亡くなった想い人を大切にしてきた細田くんのお爺さん。
二人の恋は愛になる前に片方の死で終わりを告げたが、想いはずっと心の内側に仕舞ってあったのだ。手紙を残していたのがその証拠。
「想い続けるのは大変です。好きな人が死んでしまったらきっと、苦しくて忘れてしまいたくなるんでしょう。忘れたほうが楽なんです。それなのにその選択をしなかった。私はあの二人のこと、少し羨ましいと思います」
「―――」
空の雲をぼんやり眺めながら気持ちを溢した。その眺めていた雲は突如としてものすごい勢いで右に流れ、世界は二転三転と様々な景色へと変わっていく。いや違う、私がぐるぐる回っているだけだ。
「アナタは恋人が欲しいんですか?」
「わ」
「病める時も健やかなる時も支え合いたいと」
「ちょ」
「想い想われる存在が欲しいと?」
グルングルン、社交ダンスみたいなポーズをとらされながら答えのない問答を繰り返される。いや、答えを言わせてもらえてないのだから問答ではない。こんなのは尋問だった。
いったい何なのだと彼を咎めようと試しみたが、それはあえなく失敗に終わった。なぜなら、私が彼の表情に見惚れて閉口してしまったから。
「メルせんぱ」
「アナタは――つづらさんは……ボクが死んだら悲しいですか。忘れてしまいたいですか」
彼の青白磁色の瞳は、初めて出会ったあの日から変わらず冬のように冷たい色なのに、春のように温かかった。
私は知っている。この温度の意味を。気持ちを。熱を。だっておんなじものをつい最近見たのだから。
「アナタがここへやってきた日。ボクは最初、連れてってやろうと思ってたんです」
「連れてくって……どこに?」
私の問に先輩は答えない。その代わり、腰にまわった腕に力が込められ、抱きしめられる。
「ずっと変わらない日々。眺めるだけの毎日。誰にも姿が視認されることは無い。さっさと消えたかった。消えてしまいたかった。でも、そんな中アナタが現れた」
「アナタはまるで当然みたいにここに来た。大した用もないくせに、毎日毎日遠いこの場所にわざわざ足を運んで、僕に逢いに来た」
「どうせこいつもいつかボクを嫌になる。だから、その前に道連れにしてやろうとしたんだ。なのに……あんな、あんな顔で笑うから、アナタが心の欠片をボクなんかにも配るから!!」
メル先輩の心の叫びが私の体を貫く。なんの話をしているのかは解らないけど、でも、彼がいま悲しみの感情で泣きそうなのではないことは解る。
「つづらさん……ボクは、アナタを見てると、訳もなく自分の存在が許されたような気分になる。自分にも価値があるのだと、生きていていいのだと思えてくるんです」
強く抱きしめられた手は解かれ、顔に優しく触れられる。私が何か言おうと口を開いたときだった。
「好きです」
顔が近づいて、遂に距離は
こんな時にも彼の体温は冷たく、白銀の冬にできた氷の如く凍てついていた。
「ねえ、ボク、アナタが来るまでずっと……ずっと待ってますから」
目の前が、だんだん霞んでくる。体の全部が怠くて重い。まるで疲労し過ぎたときみたいな……。
「きっと逢いに来て。はやくボクを見つけて下さいね」
目の前で柔く微笑んだ顔の先輩の顔を最後に、私の意識は落ちていく。
その日から、メル先輩は私の前に姿を現さなくなった。
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