夕立



「奇妙な夢を見たの」


彼女からの電話はその一言で始まった。



「とても奇妙な夢だった。


…だけれど悪夢じゃなかった。最初は恐ろしかった。けど段々、落ち着いた気持ちになって、今は奇妙な感じだけがあるの。夢で、私はベッドに横になって眠っていたの。眠っている私を、夢を見ている私は上から眺めていた。私は自分の意思で動けなかった。動こうともしなかった。


その時突然、滝のような水の音がして、龍が現れた。頭しか見えなかったけど、それは龍の形をしていたと思う。龍は水の固まりだった。けれど流れていた。龍の中を、魚が泳いでいるのが分かった。寝ていた私も見ていた私も龍にそのまま飲み込まれた。


目を瞑って、また開けると、私はひとりだけになっていた。龍の中を流されながら、恐ろしかったのが徐々になくなった。私はそのうち、自分も段々と溶けて、周りの水と同じになっていると気付いた。怖いより寧ろ清々しいような心地で私は水になった。


水になった私は気が付くとまた自分の部屋にいた。ただの水溜まりの私は、誰かに掬い上げられて、一所に集められた。それから段々気化していって、最後は植物にかかった。それも気化してしまうと、私は雨雲の一部になった。


雨が降って、私も一緒に降った。随分長い時間をかけて、私はばらばらに別の場所に落ちた。窓に当たったのもあれば、アスファルトに落ちたものもあった。アスファルトに落ちた私は、地面から空を見上げて、随分高い所から落ちたはずなのに、近くに感じる雨雲を見た。私は随分長い旅をして、やっと在るべき場所に辿り着いた気がした。


その時私は満たされた気持ちで目を覚ました。……この夢はきっと正夢なんだわ。貴方と話しているうちにそんな気がしてきた。龍に飲み込まれた時の冷たさはよく覚えているから。


……あ。やっぱり正夢だったみたいね。ほんとうに溶けてきたもの。ねぇ、今から来てくれる?」



***



俺が彼女の家に行くと、玄関の鍵は開いていて、彼女が開けたのだとすぐ気付いた。


ドアノブは濡れていた。

俺は自分でもよく分からないまま持ってきてしまったバケツを手に提げて、なんとなく立ちすくんだ。


部屋の真ん中には、水溜まりがあった。

彼女が溶け出してしまったのだと気付いた。


俺は彼女を掬い集めた。バケツの中に彼女が溜まっていくにつれて、床の彼女は少しずつ小さくなっていった。俺は夢中で彼女を掬った。夢を見ているような心地だった。全て集め終わったと思った時、ふいに彼女の声が耳に響いた。


『奇妙な夢を見たの』

『ねぇ、今から来てくれる?』



***



俺は知らない部屋にいた。

知らない場所だった。

なぜこんな場所にいるのだろう。


友達の家でも家族の家でもない。

それどころか、家具のひとつもない殺風景な部屋に、俺は何の用事があるというのだろうか。クーラーもついていないのに、部屋はひんやりしていた。


部屋の真ん中に、水の入ったバケツがひとつあった。


よく分からないバケツを持って、俺は外に出た。なんとなく、この水は捨ててはいけない気がした。こんな水がなんだというのか。なぜ俺は暑い外で、バケツの水が蒸発してしまうのを恐れているのか。ただの水で。


急かされるような気持ちで家に帰った。

すぐにクーラーをつけて、これならすぐ蒸発してしまうこともないだろうとなぜか安心した。なぜか分からないことに苛ついた。

暫くじっとバケツの水を眺めた。


何も分からないで苛々して、こんな水捨ててやろうかと思った。捨てようと思う程、俺は動けなくなった。俺の一部が水を捨てることを咎めた。


水に埃が浮くとまた苛ついて、俺は丁寧に埃を取り除いた。自分の行動する理由が分からなかった。

俺はずっと水を気にかけていた。


そんな風に夏が過ぎていった。

誰かとの約束で日々が埋まっていた気がした。家族でも、友達でもなかった。ただ俺はクーラーの効いた部屋で水を見つめていた。


夢で誰かの声を聞いた気がして目が覚めることが何度かあった。女の声だ。妹の声でも従姉妹の声でもない。知らない人。


ベランダの夏野菜は、ひとりで食べるには多すぎる程実を付けていた。誰かと一緒に食べる約束をしたはずだった。家族だったかもしれない。違うという感じがする。誰か分からないから、結局家族に送ろうと決めた。

ぼんやりした夏だった。


バケツの水は、気付けば最初の半分まで減っていた。


俺はふと思い立って、残りのバケツの水を、ベランダで育てているミニトマトにかけた。

これならいいと思った。


バケツの水がなくなって気がかりがなくなった筈なのに、まだ気分は戻らなかった。

夏が始まった頃から、俺の気分は少し沈んだままだった。


バケツの水を持って帰ってきたのは夏の初め頃だったと思い出した。

気付けば夏もあと少しだ。夏が終わればこの気分もなくなるだろうか。ずっと奇妙な感じがしている。



***



『奇妙な夢を見たの』



目覚めると、雨の音がした。

夕立だ。


俺は床で眠ってしまったらしい。起き上がる気もないまま、雨の音を聞く。

クーラーの静かに動く音と、外のうるさい雨の音を聞きながら、もう一度寝ようかと考えた。


雨の降る前に、洗濯物は取り込んでいた。畳まれずに、部屋の隅に固まっている。

この間までバケツを置いていた場所にふと目をやった。そこは今何も置いていなかった。


薄暗い部屋に横たわったまま、もう暫くは降りそうな雨の音を聞いていた。

雨粒が窓を叩いた音がやけに大きな音に思えて、起き上がって窓の方に目を向けた。ベランダの夏野菜達が雨に打たれて元気そうに見えた。


この夏の間に空いた穴が、雨の音で埋まっていく感じがした。

何かを失ったのだとその時ぼんやり気が付いた。

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