香港の魔女

藍依青糸

第1話

 香港。

 ネオンひしめく観光地から、それほど離れていない場所。何もかもがごった返す、どこか煙たくほの暗い街の一角で。

 1階に寂れた食堂を持つ、薄汚れたビルの2.5階。


 そこに、小さな占い屋があった。


 日も沈みかけた頃、看板も無いその店に、息を切らせて飛び込んできたのはカバンひとつ持った若い女だった。薄く開いていた深い紅色の扉にぶつかるように室内に入り、縋るように扉を閉めて酷く震えながら座り込む。歯の根が合わないまま、祈るように目を閉じた。


「.......わお。日本人リーベンレン.......」


 背後からかかった鈴を転がしたような声に、震える女は息をとめた。心臓は破れそうで、頬をつたうのは冷や汗なのか涙なのか、もはや分からない。


「いっくーん! お客さーん! 早く来てー!」


「はぁ? 待て、俺は今メシを」


「ちょー特急でやって!」


「くそっ」


 美しい声に答えるように、奥の方から若い男の声がした。

 どこか間の抜けた会話は、全て日本語だった。

 震える女が、ゆっくりと、部屋の奥を振り返れば。


「やほー! シュエ.......ユキちゃんの占いにようこそー! とりますわろ? 日本人とかちょーテンション上がる! ねね、渋谷原宿好き? アタシはちょー大好きっ!」


 光を反射するまっすぐに長い黒髪を、黒いレースのリボンでツインテールにした見た目は17、18歳ほどの少女。

 小さな顔に対し大きすぎるぱっちりとした二重の黒い瞳に、雪のように白い肌に浮く、真っ赤な口紅を乗せた小さな唇。黒いフリルのついた長袖のブラウスは、肩の部分だけカットされ、素肌が見えるようなデザインだった。

 部屋の中央に置かれた立派な木製机に肘をつき、黒いネイルが施された両手に小さな顎を乗せてにこりと微笑むのは、この占い屋の主人、ユキだ。


「え、あ、え.......?」


 思わぬところで聞いた母国語に、答えを返せないでいる白いTシャツ姿の女、石川みゆきは日本の大学生だった。みゆきは長期休みを利用し、1人香港に旅行に来ていたのだった。


「ねね、今日は日本の地雷系女子イメージなんだけど、どお? ユキはミニスカとか制服とかも好きなんだけど、こういうフリフリ系も可愛くない?」


「え.......は、はい」


「あはっ! やったぁ! 日本人に可愛いって言われちゃったぁ! インスタあげよおーっと!」


「はしゃぐな」


 突然、奥の方から両手に白いティーポットとカップを持ってやってきたのは、黒いチャイナ服に黒いメガネの若い男。20代前半だろうか、前髪と重そうな黒縁メガネの下の表情は恐ろしいほどの無表情だが、よく見ればそれなりに整った顔をしていた。

 男は少し長めの髪も、ハッキリとした眉も、切れ長の瞳も、靴さえも黒かった。


「だっていっくん全然褒めてくれないじゃーん。日本人なのにゴスロリ知らなかったし、渋谷原宿行ったことないしー」


 ユキが頬を膨らませながら、男がジャスミンティーを注いだカップを手に取った。ユキを無視し2つ目のカップにも茶を注ぎ終えた男は、どこからか持ってきたパイプ椅子にみゆきを座らせ、にこりともせず口を開いた。


いつきと言います。チャイナ服この格好ですが、日本人です。俺も主人も日本語は問題ないので、心配なさらず」


「はいはい! いっくんにチャイナ服あげたのはユキだよ! 白もあげたのに黒ばっかり着るの、勿体なくない? 差し色にアクセもあげたのに全然つけてくれないしぃー」


「お客さん、お名前は?」


「いっくんガン無視とかつらたんっ!」


 笑顔でえんえんと泣き真似をするユキ。それに目もやらず、樹は腰を折りみゆきの顔をのぞき込んだ。


「書くもの、お持ちしますか」


「えっ。あ、あの、大丈夫です! 私、石川みゆきと言います!」


 思わず名乗ってしまって、みゆきはしまったと顔を歪めた。


「みゆきちゃん、ちょー可愛い名前! じゃあサクッ占っちゃおっか!」


「あっ、あのっ! 私、占いに来たんじゃなくて.......! 間違えて入ってしまったんです! ごめんなさいっ!」


 席を立って深く頭を下げたみゆきに、ユキはにかりと笑っいかけ、両手の人差し指と中指を立てた。


「だいじょーぶいっ! 占いの帰りは、いっくんがホテルまで送ってあげるから! みゆきちゃん、ここら辺には悪ーい人がいっぱいだから、売られたくなかったら1人で出歩いちゃダメだよ? 可愛い女の子は人気だからね」


 みゆきは驚きのあまり動けないでいた。

 この店に駆け込んでしまったのは、ガラの悪い男に絡まれ追いかけられたからだ。初め1人だったみゆきを追いかける男は、逃げているうちに3人、5人と増え、動転してしまって目に入ったこのビルに逃げ込んだのだ。

 まだ説明もしていない事情を言い当てられ、みゆきは新たな悪寒すら感じていた。


「ほらほらみゆきちゃん、座って座って! 何占いがいい? 西洋のもあるから、好きなの選んでいいよ!」


「.......あ、あの、お金、払います。なので.......」


 帰らせてくれ、と言う言葉は震える喉の奥に消えた。

 大きな目をさらに見開いて、信じられないとでも言いたげなユキは。


「えっ.......みゆきちゃん、恋占いやってかないの?」


「.......はい」


「えぇーっ! だって恋だよ恋愛だよ!? 彼ピできるか知りたくない!?」


「お帰りですか」


 扉の方に歩いて行き、ノブに手をかけた樹。随分あっさり帰らせてくれることに驚くみゆきとは対象的に、ユキは机に頬をつけながら、不貞腐れたようにルーンの刻まれた石をつついていた。


「.......血液型占いでもいーよ? ね、ね? みゆきちゃん、恋バナしよおよ.......」


「しつこいぞ。いい加減にしろ」


 深い紅色の扉を開けた樹が、迷惑そうに部屋の中に声をかける。


「だってお客さんなんて久しぶりだからぁー! しかも女の子だよ? 日本人の! いっくんも話したいでしょー?」


「お客さんじゃなかったんだ。主人はもう風呂入って寝ろ」


「今日のメイクちょーいい感じだからまだお風呂入りたくないの! ね、まつ毛ちょーいい感じじゃない?」


 呆れたようにため息をついた樹が、そっとみゆきの肩に手をやって部屋の外に出した。

 それから、なんでもないようにビルの階段を下がって行く。


「あっ、あのっ! 私、私お邪魔してしまって! お金もはらってないのに、送っていただくなんて!」


「主人の言いつけですので」


 チャイナ服の樹は、スタスタと嫌に暗い通りを歩いた。みゆきと一定の距離を保ちながら、無表情で時折重そうな黒縁メガネを押し上げて。

 路地を曲がった瞬間、5人の男に囲まれても表情一つ変えなかった。


「アロー、ジャパニーズガール。又见面了また会ったね


 サングラスを押し上げながら、半袖のシャツから刺青が覗く男が口を開いた。

 みゆきが息を飲んだ瞬間。


 重い、銃声が響いた。


「ぐあっ!!」


 腕を押さえ倒れ込んだサングラスの男の顎先を、先程鉛玉を吐き出した銃を片手に樹が蹴りあげる。そのまま倒れた男の腰に手を入れ拳銃を取り上げ、周りの4人の男達を見回した。

 この間、約3秒。


「.......」


 メガネの奥で目線をあげた樹の掌底が1人の顎を打ち抜いたのと、もう1人の胸の中心を蹴り飛ばしたのは同じ動作の中だった。それから大きく一歩だけ踏み込み、残り2人が背中を向けるのと同時に片足を高く上げ1人の後頭部に踵を落とし、足をついた瞬間もう1人のこめかみを拳で振り抜いた。


 地面に倒れ伏した5人の男を、樹は一瞥もせずに1つの銃をしまいながらみゆきの元に歩いてきた。


「大丈夫でしたか」


「ひっ」


「.......すみません。1人銃を持っていたので、早く処理した方が良いと思いました。ここはこれみたいな香港マフィアがうろついていますから、早く行きましょう。怖がらせて、すみません」


 泣き出したみゆきに頭を下げ、樹は遠くに奪った拳銃を投げ捨てた。頭を上げてからは、表情を変えないまま重そうな黒縁メガネのツルを指でなぞった。


「.......ホテルまで、送ります」


 みゆきは結局、ホテルの前で頭を下げる樹に何も言えぬまま部屋に帰った。次の日の帰りの飛行機でも、どこか浮ついた気持ちのままだった。



 ◆◇◆◇



「あっ! いっくんお帰り! どうだった、久しぶりの日本人! 懐かしトークできた?」


「.......怖がらせた。銃を撃ったんだ」


 深い紅色の扉を開けて入ってきた樹を見て、ユキはあらぁ、と眉を寄せた。フリルのついた黒いミニスカをゆらし、リボンのついた靴を鳴らして樹の前にやってきた。


「ご飯食べよ、いっくん。アタシいっくんの、アッツアツ回鍋肉食べたいな」


「もう冷めてるぞ」


「あっためて! アタシ火傷するくらいアツアツじゃないと嫌なの! あと食べきれないくらい沢山盛ってね!」


「食いきれないなら盛るなよな.......」


 部屋の奥のキッチンで、樹がコンロに火を入れた。指でメガネを作りながら、ユキが鍋の中をのぞき込む。


「みゆきちゃん、だから占いしてけば良かったのにー。マフィアの下っ端に会うなんて、ついてなさすぎ! いっくんがついてってあげなきゃ帰れなかったね! あはっ!」


 口に手を当てて、楽しそうに笑うユキ。その目は、まるで三日月のように歪んでいた。


「主人は悪い魔女だな。占ったら、あの子の大切な物を貰っていくんだろ」


「だって、占いだもん。オマケで右肩に憑いてたやつも取ってあげるつもりだったし、目玉ぐらいは貰ってくよ。アタシ、日本人の瞳って大好き」


 樹の頬に手をやり、黒いメガネの奥の瞳を、頬を上気させうっとり眺めるユキ。


「.......右肩に憑いてたものってなんだ?」


「中国産だけど、日本の専門家なら何とかするからだいじょーぶいっ! お持ち帰りありがとーごさいまーす!」


 表情一つ変えずに樹が皿に料理を山盛りにすれば、ユキは笑顔のまま跳ねるように机に向かって席に着いた。樹はその前に料理を置いて、カップに茶を注ぐ。


「きゃーっ! ちょー美味しそーっ! ねね、写真撮っていい?」


「これの何を写真に撮りたいんだよ。いつものメシだろ」


 樹は出しっぱなしのパイプ椅子に腰掛けて、ビニール袋にパンパンに詰まった真っ白な何かのひとつを掴んだ。手のひらには少しだけ収まらないほどの大きさの白く柔らかいパンのようなそれを、樹は無表情で口にする。


「うわぁ.......ドン引きー。いっくん、マントウそのまま食べるのやめなよ。それおかずと一緒に食べるものだってば。ひもじいよー」


「うるせえ。俺はこれが好きなんだ」


「だって、それ肉まんの中身無しだよ? 皮だけだよ? ひもじー」


「それが好きなんだ」


「himojiー!」


 ストラップがジャラジャラとついたスマホで写真を撮りながら、ユキは楽しそうに笑った。



「いっくん、君の明日はラッキーデーだよ。アタシの占いはね、600年ハズレなし! つまり絶対ハズレないの!」



 香港の、古い魔女の話。

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