行頭

 行頭というのは、もうなんか凄い色々な使い方があるのです。そりゃベストを探そうとすれば混乱に至るというものだ。特に私のような改行好きは、たいてい行頭にある種のムダなフェチズムがある。


 意外と忘れられているが、文章を読むというのは、句点がくるまでの文章をおぼえておかなければいけないという意味である。覚えておくための手がかりは数えだしたらキリがないが、人間の記憶の構造上、最初と最後、次いで中間の順に覚えやすくなっている。フタコブラクダの背中のような感じだ。


 つまり、最初に入った情報が背景となり、最後に出された情報は前景として残る。


 分からん。たぶん、そうじゃないか、という話だ。だから、場面を変えた直後の情景描写は時間と場所を伝える文章から始めることが多い。


 まだ地球が丸かった頃、東京都内のフラスコ専門店『スワンネック』で、私は衝撃の出会いをした。


 時間と場所を背景に、驚くような事態があったと伝え、行を変える。次の行頭にくるのは、また新たに記憶に残る文章である。ここで何を置くべきか分からなくなる。


 コントみたいなものだ。設定は終わった。前フリもした。何をもってきても間違いではない。擬音でもいいし、シンプルな文章でもいい。あるいは逆に、


 ――それはともかく。 


 と状態を浮遊させるのもありかもしれない。何を書くのも自由だが、書いた内容が強調されて……なんて書いているが、実際のところ、どうなのだろうか。私は強調になると思っているが、読んでいる方はどうか。分からん。常に迷っておる。


 また、前に書いたように、行頭にまつわる諸問題として、ページ跨ぎがある。私の執筆環境だと四十二文字×三十四行となり、本にたとえると、中央の十七~十八行目はページを跨ぐ。もちろん、三十四行の次は次ページ一行目だ。


 印刷した後の読み味を考えて書いているので、せめて三十四行後のページ跨ぎだけは避けようとなる。なんでそうしたいのか自分でも分からない。印刷したとき見栄えがいいように思えるが、それ以上の意味がない。なのに、どうしてもそうしたくなってしまって、ときには語彙を駆使して文章量を変えてしまう。


 同じようなことをする作家に京極夏彦がいるが、先生の場合は『いつでも読み止められるように』という読者への寛大すぎる配慮からだそうな。しかも先生の場合は文庫化に際して調整までいれるという。すごい(一方的な)シンパシーをかんじる。

 

 でも私の場合、自分がそうしたいからなんだよなぁ。

 

 実は私、『テレるふたり』というラブコメを書いたことがあり、それを公募に投稿する際、面白いだろうと思って、一話三ページの全四十話くらいに仕立て直したことがあったりする(このバージョンはこっちに下ろしてない)。一次で落ちた。それはまあ予想済みであった。問題は落ちた理由である。


 どうもページ構成に拘りすぎて内容が疎かになっていた気がしなくもない。


 バカじゃん。え? バカじゃん。

 内容が行頭愛とページ構成愛に殺されてしまっては、本末転倒である。なんでそうなっちゃうのかまったく分からん。それだけならまだしも、今回は技術的な話を一切できていない気がする。最悪である。


 これはいよいよネタ切れということで、奴と対峙せねばならんのかもしれん。

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