出会い

 仕事を辞め都市部を離れた私は、知り合いのいない土地で、事務とイラストレーターの仕事をしていた。


 もともと絵を描くのが好きだった私は、かつて前妻に絵で食べていけたらなあ、なとど冗談半分本気半分で言ったことがある。そのとき前妻からは、ちょっと絵が上手いだけで調子に乗らないの、と冷たくたしなめられたものだった。


 前妻にとって絵とは美術誌に掲載されるようなレベルで、一枚あたりが大変な高額で取引され、高級レストランの壁を彩る……そういうものだったのだろう。私もそう思っていた。


 案ずるより産むが安し。最初こそなかなか上手く行かなかったが、そのうちにこの地でこれまでと全く畑違いの事務職にありついた私は、薄給でありながらも前職のような残業地獄にさいなまれることもなく、ほぼいつも定時でアパートに帰ると、就寝までの時間にちょっとした冊子の挿絵やら、地区の火災予防運動やらのポスターづくりなどの依頼を少しずつこなしていた。


 ただの趣味だったものが、少額であれお金を生むということに喜びを覚えた私は、人生でこれほど一生懸命になったことがあっただろうかと思えるほど、イラストに熱中していた。事務職というもう一つの収入源があることで、ある程度心穏やかに趣味と実益を兼ねたこの活動に集中することができたのかもしれない。それに……認めたくはなかったが、未だにくすぶっていた前妻への未練を極力考えぬようにするため、何か没頭できるものが私には必要だったのである。


 人生とは本当にわからぬもので、趣味と実益、そして何より現実逃避のために続けていたイラストの仕事を通じて、私の人生に転機が訪れた。きっかけは同じ町に開業したベーカリーである。


 決してかんばしくない地元経済のなかで、若いながらも苦労を重ねて開業にこぎ着けた事業主。主力商品のメロンパンを包装するにあたり、その包装紙に一つアクセントをつけたかったらしい。そこで彼女は、近所在住でおまけにイラストの単価が最も安かった私に、包装紙にプリントするマスコットの作成を依頼したのだった。


 職場、自宅、ベーカリーの事務職兼彼女の自宅を往復する日々。コンセプトやデサインについて、互いに激論を交わすこと1ヶ月。出来上がったマスコットは、1ヶ月も時間を掛けたとは到底思えぬ、小学生が描いたようなシンプルにデフォルメされたウサギさんの絵であった。ところがこれが大当たり。ベーカリーは連日主婦の方々で行列ができる大盛況。リーズナブルな価格設定と、そもそも彼女が焼き上げたメロンパンが大変美味だったため、あっという間に地区の有名店に上り詰めたのであった。


 彼女の店が繁盛しているのは、残念ながら私が描いたマスコットのおかげではなかった。ひとえに彼女の明朗温厚な人柄と、実際に美味しすぎるパン達のおかげである。それでも私は、何時の間にやら「メロンパンのウサギを描いたおじさん」として子どもたちに認知されることとなった。


 忙殺される彼女に泣きつかれて土日の店番まで務めるようになった私は、マスコットのデサインだけでなく店内の飾り付けや新商品のイラスト付きポップを作成するようになっていた。主婦の方々からは、私達二人は夫婦だと勘違いされるようになっていた。


 私達が名実ともに夫婦となったきっかけは、皮肉にも彼女が、前妻からの手紙を私のアパートで発見したせいであった。


 離婚後すぐに私の実家に届いたその手紙には、知りたくもない間男との馴れ初めが延々と書かれていた。不快な手紙という意味では、昔から人を惹き付けるビジネス文章が巧みだった前妻にしては、随分と不出来な内容であった。


 会社の飲み会で、酔った勢いで不妊の悩みを相談したのが始まりらしい。真面目一筋の人生に疲れた、彼がもたらす快楽にあらがえない、離れられないという内容の後、荷物の処分やらあれこれの手続きやらの話が続き、最後に一言、おまけみたいに「ごめんなさい」とだけ添えられていた。


 実のところ、この前妻からの手紙を読んだのは何年も前であり、どちらかというと一時的に放り出してしまった離婚にまつわる手続きの覚書の一つとして残していたものである。今更いまさらこれを読み返したところで、当時のように心がすさむことなどはないのだが、これまで私の過去に無用な詮索などしなかった彼女が突然がばと私を抱きしめ「わたしはこんなことしないよ?」と涙ながらに慰めてくれた。


 不覚にも一回り近く年下の女性に心ほだされた私は、まだこれほどに未練があったのかと自分でも驚くほどに涙をこぼした。大量の涙と鼻水で彼女の服を汚してしまった私は、お詫びに大量の宅配ピザとワインをおごるはめになり、そのまま私のアパートで二人して添い寝をすることになったのであった。

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