夏の終わり
スエコウ
消える
妻と離婚してから、10年が過ぎた。
未練がましいが、今でもたまに彼女が夢に出てくることがある。長く艷やかな黒髪を後ろにまとめ上げた、きりっと引き締まった美貌。縁無しの眼鏡を掛け、いつもピンと背を伸ばして仕事をこなす姿は社内の羨望の的。そのくせ実は、家事はからっきし。炊事洗濯は私の専業だった。だが私に不満などあるはずもなかった。むしろ誰も知らない彼女のだらしない一面を知っていることを誇りにさえ思っていた。自慢の妻だった。
全裸で、汗まみれになって見知らぬ若い男に跨り、腰を振りたてる妻。吹き上げる汗に曇った眼鏡が斜めにずれて、うっとりとと蕩けきった瞳を男に向ける姿が、妙に生々しかった。
艷やかな黒髪を掴みあげられ、尻を激しく殴打される。窒息するほどに首を絞められ、黒黒とした巨大な男の物が妻の喉の奥深くにねじ込まれる。
人を人とも思わぬ所業だった。男は妻をまるで玩具のように弄び続ける。
衝撃だったのは、妻がそんな男の酷いふるまいを、狂喜して受け入れていたことだった。これまで見たこともない、だらしのない表情で男に奉仕し、自ら涙ながらに男の物を懇願する。
長く激しい交わりの後、妻にねじ込まれていた男の物が引きずり出される。同時に妻は歓喜の絶叫を上げ、汗にまみれた身体を投げ出して失神した。
その不貞動画を目撃したあと、何日も放心状態で過ごした私の様子に、妻は全く気づくことはなかった。そしてある日の会社の昼休み、近くの喫茶店に呼び出された私は、妻から自身の懐妊を告げられたのである。
頬を朱に染めて嬉しそうに微笑む妻と、あの映像の中で嬌態を晒し、間男の子を私に育てさせるなどという企みを笑顔で話し合う妻が、同一人物とは到底信じ難かった。
妻の表情が、不意に固くなったように見えた。視界がぼやけてよく見えなかったのだ。私は自分でも知れず、はらはらと涙を流していたらしい。
「離婚いたしましょう」私は言った。自分でも驚くほどに口調は落ち着いていた。珍妙な日本語ではあったし、顔は涙に濡れそぼっていたはずである。それでも、そのような挙動をよそに、私の心はそれほど取り乱していなかった。心が死んでいたと言う方が正しかったのかも知れない。
「あなたの望むような夫になれず、申し訳ありませんでした」
当てこすりを言ったつもりはなかった。ただただ己の不甲斐なさ情けなさから出た言葉。だがその一言で、妻は私が全て知っていることを悟ったようだった。あのときの妻の顔は、今でも夢に……悪夢として見るほどだ。
驚愕するでもなく、悲しみに暮れるでもなく、蝋人形のように無表情のまま、妻の顔は凍りついていた。まるでそれこそが彼女の本性で、実は私はこれまで、よくできた機械じかけのからくり人形と生活していたのでは無いかと錯覚する程であった。
その固く冷たい美貌に、悲しみや怒りよりも恐怖を覚えた私は、逃げるようにその場を立ち去ると、その足で会社に辞表を提出し、妻と共に暮らした家には二度と戻らなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます