第26話さなぎの悲しみ

 蛾虫はさなぎのことが本当に好きだった。

 初めから、好きだったのかもしれない。

 幼い時に亡くなった母に似ている女性だと感じた。自分よりも四つ年上だったから、余計に思ったのかもしれない。


 出会ったのは夏だった。蝉の鳴き声で『二十年前の物の怪』を思い出すので、その季節の間、蛾虫はずっと城に引きこもる。それは今も変わらない。冬は冬で、『二十年前の物の怪』が父と妹を殺した時期だったので、無気力で憂鬱になる。


 光原家は代々、天道家の正室や側室の面倒を見てきた。十五となり元服もした蛾虫がいつまでも娶らないのはいかがなものかと、当主である光原蛍雪は考えていた。


 そこで思いついたのが、嫁探しである。家臣たちに娘を紹介するようにと命じたのだ。無論、家格の低い武家は対象外だった。だから青葉家の娘、さなぎが呼ばれることが無いはずだったけど、担当の者の手違いで書状が届いてしまった。


 勘定奉行の青葉鎌三郎を輩出したとはいえ、その当主が亡くなり評判の悪い嫡男が継ぐ予定の武家など見向きもされないはずだったのに――


 平伏していたさなぎが顔を上げたとき、憂鬱だった心に爽やかな風が通ったのを蛾虫は感じた。鼓動が高鳴ってさなぎの瞳が自身のものと合うと、たとえようもない幸福感で満たされたのだった。


 さなぎのほうも頬を赤くした。その頃の蛾虫は不摂生な生活ではなく、若くして亡くなった先代とよく似た端正な顔をしていた。今でも先代に似ているが、当時は美少年だったのだ。


「……不思議なものだ」


 しばらく見つめ合い、互いに言い知れない感情に支配された後、口を開いたのは蛾虫だった。


「まるで、初めて会ったとは思えない」

「……私も同じ気持ちです」

「そなたは、とても美しい」


 さなぎは口元を歪ませた。

 いつも無表情だったため、笑うことが慣れていないせいだった。

 それでも蛾虫には十分だった。


「どうか、私の嫁になってほしい」


 自然と出た婚姻の申し込み。

 さなぎは「しばし、お待ちください」と頭を下げた。


「一年ほど、時をください」

「それは、どういうことだ?」

「私には、手のかかる弟がいます。その弟が一人前の立派な武士にしなければならないのです」


 頭を上げたさなぎは不器用な笑みを浮かべた。


「一年で必ず、弟を青葉家の当主に相応しい者にします。そして一年が過ぎても、殿が心変わりしなければ、喜んでお受けいたします」


 蛾虫は快諾した。

 さなぎの条件を迷いなく飲んだ。

 彼女のためなら、何でもしようと思ってしまった。


 時折、二人はお忍びで会うことになった。

 夏が苦手な蛾虫でも、さなぎと会えると思うと元気になった。

 父と妹を亡くした冬の時期でも、さなぎの笑顔を見ると心躍った。


 蛾虫は恋しいほど、さなぎに恋して。

 蛾虫は愛しいほど、さなぎを愛した。

 その気持ちは次第に大きくなっていった。


 さなぎのほうも蛾虫のことを受け入れていた。

 弟のことが一番に気にかかるのは当然だったけど、蛾虫に惹かれていくのを止められなかった。


 二人の気持ちは通じ合っていた――それなのに。


「蛾虫様……うなじのそれは……」

「うん? ああ、痣だ」


 二人が知り合って、もうすぐ一年となろうとする春。

 蛾虫が城の庭で剣術の稽古に励んでいた。

 上の着物をはだけて、木刀を振っていた。城を背にしていたので、さなぎが来たことに気づかなかった。


 振り返って、さなぎが蒼白な顔で口元を押さえているのを見た。

 蛾虫は嬉しさを前面に出して、さなぎの来訪を喜ぼうとして、様子がおかしいことに気づく。


「どうしたんだ? うん? この痣、気持ち悪いか?」


 まるで八本足の蜘蛛のような形をしているので、彼自身好きではなかった。


「……今日は帰ります」

「うん? 何か用事があるのか?」

「その前に、蛾虫様、一つ……訊ねてもよろしいですか?」


 顔色の悪いさなぎ。

 まるで吐き気を催しているような。

 それに耐えて、さなぎは問う。


「私のことを――今でも愛していますか?」


 この場には蛾虫の他に誰もいない。さなぎと会うときはいつも人払いしていた。

 しかし、二人きりとはいえ、気恥ずかしいものがある。


「な、何を突然……」

「お答えください」


 蛾虫はさなぎの表情が険しいことに違和感を覚えた。

 愛を確かめ合う雰囲気でもない。


「……愛している」

「…………」

「一人の男として、そなたを愛している」


 さなぎはこの頃ようやく慣れた、素直な笑みを見せた。

 蛾虫が最も好きな、さなぎの表情だった。


「ありがとうございます。私も、愛しております」


 さなぎはそのまま、足早に去ってしまった。

 蛾虫は恥ずかしがっていたのだと解釈したが、今となっては違う見解を出していた。


 最後の表情と言葉は、蛾虫に覚えてほしかったのだろう。

 最後の会話が美しいものであるように。

 蛾虫に忘れないでもらいたかったのだろう。


 それから数日後、さなぎは死んだ。

 紅蓮の炎で屋敷ごと焼かれて死んだ。

 以来、蛾虫は不摂生な生活を送り、藩政をないがしろにするようになる。


 もしもあのとき、さなぎを黙って見送らなければ、何かが変わっていたのかもしれない。

 そう考えなかった日は、さなぎを失ってから過ぎた八年間、一度も無かった――



◆◇◆◇



「私は、貴様のことを憎んでいる」


 全てを話し終えて、蛾虫は不倶戴天の仇のように、呆然自失となっている蝶次郎を睨む。

 皮肉にも初めて蛾虫が蝶次郎を家臣ではなく、一人の人間として見た瞬間でもあった。


「もしも、貴様が一廉の武士であったなら、さなぎは私の正室となり、思い煩う生活をしなくて済んだかもしれん」


 原因は蝶次郎にあると決めつけている口調。

 そうでないと気が狂ってしまうような語気。


「……俺に、原因がある、のですか」

「それ以外に理由があるのなら説明しろ。私は全てを話した」

「もし、俺に原因があるのなら、どうすれば良いのですか」


 この期に及んで蝶次郎らしい情けないことを言う。

 蛾虫は「呆れた奴だ」と蔑んだ眼差しを向ける。


「切腹しろとでも言えばいいのか? ふん、それはできぬ。軟弱者とはいえ、貴様はさなぎの弟だ。殺したくない」

「…………」

「しかしだ。憎い貴様を絶望させることぐらいはできる」


 蛾虫は奢侈な着物の懐から、蝶次郎が書いた嘆願書を取り出して――破った。

 価値の無いように、無価値であるように。

 まるで姉のさなぎみたいな無表情で、散り散りにしてしまった。


「コドク町の者共に恩赦は出さぬ」

「そ、そんな――」

「例の燭中橋の改築も止めさせる。あれは私の許可を得ていないからな」


 蛾虫は立ち上がり、下座に座っている蝶次郎に近づき、耳元で囁く。


「貴様は殺さない。今まで通り、怠惰に暮らせ。姉の教えに苦しみ続けろ」

「…………」

「じっくりと、貴様を追い詰める。もし自害したら、貴様と関わってきた者全て殺す」


 言い捨てて、蛾虫は上座に戻る。

 それまで黙っていた光原が見計らったように手を叩く。

 数人の家臣が中に入り、蝶次郎の肩に手をかける。


「話は済んだ。その者を下がらせろ」

「……自分で、歩けます」


 立たせようとする家臣たちを制して、蝶次郎は謁見の間から去った。

 主君の前から逃げ出した。



◆◇◆◇



「蝶次郎様、お帰りなさいませ。今日はお早いですね」


 夕暮れ時、長屋に逃げ戻った蝶次郎を出迎えたのは瀬美だった。

 機械的に「まだお食事の用意はできておりません」と頭を下げた。


「もう少し、お待ちいただけますか」

「……ああ。待つよ」


 蝶次郎の様子がおかしいことは、瀬美にも判断できたが、何も言わず黙って夕飯の支度をする。

 部屋の中心にやや乱暴に座って、刀を置いて、深くため息をつく。


「瀬美。ちょっとこっち来てくれ」

「イエス、了解しました」


 瀬美は手を止めて蝶次郎の正面に座った。


「お前は、俺の死因を調べに来たんだよな」

「イエス。そのとおりです」

「今、俺が自害したら――お前の役目は終わるのか?」


 瀬美は動揺することなく「論理的にはそうですね」と答えた。


「しかしその場合、自害の理由を知らねばなりません」

「……まあ、そのとおりだな」

「自害の理由を教えてもらえますか?」


 蝶次郎は力なく笑った。


「結局、お前は絡繰なんだな」

「イエス。絡繰です」

「普通なら、自害を止めるとか、してくれるだろう……」


 瀬美は首を傾げた。


「蝶次郎様は止めてほしいのですか?」

「――ああそうだよ! さっきから止めてほしいって言ってんだよ!」


 怒鳴ったのは蝶次郎が限界を超えたからだ。

 怒りに任せて喚き散らす。


「なんでだよ! どうしてこうなったんだよ! いつからおかしくなったんだ? もうどうしようもねえのに、せっかくどうにかなりそうだったのに、全部おしまいになっちまった!」


 瀬美は何も事情を知らない。

 蝶次郎の怒りを機械的に見つめていた。


「なあ、瀬美。俺はどうしたら良かったんだ? 怠惰に暮らしていれば良かったのか? 変わらずにいれば、良かったのか……? そうすりゃ、知らなくていいことや知りたくないことを知らずに済んだのか? もう疲れたよ……」


 頭を抱えて支離滅裂なことを繰り返す蝶次郎。

 そんな彼に瀬美は「お疲れになっているようですね」と言った。


「お休みになられたほうがいいですね」

「――この、絡繰が!」


 蝶次郎は瀬美に――


「人の心が分からない絡繰ごときが、偉そうに――」


 そこまで言って、蝶次郎は止めた。

 これでは、さなぎのときと一緒だと気づいた。


「イエス。私は人の心が分かりません」


 さして傷ついた様子もなく、瀬美は蝶次郎の手を取った。


「体温は正常だと分かります。けれど、温もりは分かりません」

「…………」

「心音がかなり高鳴っています。けれど、本音は分かりません」

「…………」

「蝶次郎様は泣いています。けれど、私はいっさい泣けません」

「…………」


 瀬美は蝶次郎の頭を引き寄せて――胸に抱いた。


「温もりも心音もありません。一緒に泣くこともできません。でも、どうか理解してください」

「なにを、だ……」

「命の大切さを。私にはない、生命の尊さを」


 蝶次郎は自分が情けなくなって。

 瀬美の胸に抱かれながら、子供のように泣いた。

 瀬美は無言で蝶次郎の背中を一定の速度で撫で続けた。

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