第15話鍋を食べよう
夕暮れ時。天道藩の城下町が夕陽に照らされて真っ赤に染まる。
瀬美たちは七伏川から戻っていた。コドク町の住人に遭遇することなく帰れたことは幸運なことだったが、当人たちはそれに気づいていない。たまやとん坊はまた行こうとさえ考えていた。
「お。瀬美じゃないか。それにたまととん坊も。タダシを連れてどこに行っていたんだ?」
三人と一匹が仲良く歩いて燭中橋近くを通りかかったとき、後ろから包みを持った蝶次郎が声をかけた。たまが嬉しそうに「蝶次郎さん!」と駆け寄る。とん坊はにこにこと微笑ましく見ていた。
「たま。動けるようになったんだな。良かった。どこに遊びに行っていたんだ?」
「えっとね。七伏川の河原で遊んだの!」
「七伏川……あそこはコドク町に近いから行くなと言われたんじゃないのか?」
蝶次郎もコドク町のことは十分に分かっていた。というより、天道藩の武士ならばコドク町ができた経緯を知っている。
しかし蝶次郎の口調は怒るものではなく、やんわりと注意を促したものだったので、たまは「ごめんなさい」と軽く謝った。
「ま、瀬美がいれば安心だと思うが。あんまり近づくなよ?」
「はあい。分かったわ」
「それから瀬美。二人の面倒を見てくれてありがとうな」
たまの頭を一撫でしてから、瀬美に近づく蝶次郎。
瀬美は折り目正しくお辞儀してから「大したことはしておりません」と言う。
「私のほうこそ、楽しませていただきました」
「……そうか。それなら良かった」
絡繰に楽しむという感情があることに驚きを禁じえなかった蝶次郎。しかしたまやとん坊がいる前では言及しなかった。
タダシがわんと吼えながら、蝶次郎の包みに注目する。
「やはり犬は鼻が利く。さっき蟷螂親分とばったり会ってな。ほれ、鮭を貰った」
蝶次郎が包みを開けると、そこには立派な鮭がある。メスらしく腹がでっぷりと大きい。
たまととん坊が歓声を上げると「どうだ。お前たちも食うか?」と蝶次郎が提案してきた。
「瀬美に鍋でも作ってもらおう。今日はごちそうだ」
「いいの!? やったあ!」
「おら、いっぱい食べていい?」
「食え食え。食って大きくなれ」
子供たちがはしゃぐ中、蝶次郎は瀬美に「鍋作れるよな?」と小声で訊ねた。
「イエス。作ることは可能です。材料を買う必要がありますが」
「ついでに蟷螂親分から八百文返してもらったんだ。これで揃えてくれ」
八百文とは賭けの種銭である。蟷螂はうっかり忘れていたと律儀に蝶次郎に返したのだった。蝶次郎自身、忘れていたのでやくざ者にしては性根が真っ直ぐだなと改めて思った。
「かしこまりました。それでは言って参ります」
「おう。その間にたまととん坊の家に寄るから。子供たちを預かるって」
「あー! また子供扱いする!」
たまがほっぺをぷくっと膨らませると、蝶次郎が苦笑しながら指で頬を突っつく。
「子供だろう? 大人ぶるのはまだ早いぜ」
「わ、私だって、立派な女になるもん! 十年後ぐらいに!」
「そうかそうか。十年後が楽しみだな」
「やっぱり、馬鹿にしている!」
たまが両腕をぐるぐるさせて抗議する。とん坊は「たま姉さん、子供っぽいよそれ」と指摘した。
「とん坊! 少し黙りなさい!」
「はいはい。それじゃ、蝶次郎さん、行こうよ。おら早く鮭食べたい」
「おう。そんじゃ瀬美、頼んだぜ」
「イエス。お任せください」
たまととん坊を連れてそれぞれの家に向かう蝶次郎を見送って、瀬美は擦り寄るタダシに言う。
「行きますよ、タダシ。珍しく蝶次郎様が食されるものを指定しましたから」
◆◇◆◇
ぐつぐつと煮えている鍋から具材を掬って各々の小皿に入れる瀬美。
三人と一匹は喜んで食事にありついた。
「すっごい美味いよ! こんなの食べたこと無い!」
「美味しい……」
「美味いなあ。ほれ、二人とも、もっと食え。食わないと俺が食うぞ」
三人は美味しさに感動しながら夢中になって食べている。
この時代にはない、味噌仕立ての鍋を作った瀬美は「喜んでいただき嬉しく思います」と機械的に答えた。
「これ、なんていう鍋なの?」
「土鍋です」
「いや、そうじゃなくて。料理の名前」
「石狩鍋ですね。蝦夷地の料理です」
たまは「瀬美さんって、蝦夷地生まれなの?」と質問した。別に素性を聞き出そうとしたわけではなく、純粋な疑問である。
瀬美は「ノー。違います」と端的に答えた。
「じゃあなんで石狩鍋を知っているの?」
「調理法を知っているだけです。実際に蝦夷地に訪れたことはありません」
「へえ。そうなんだ」
誰に習ったんだろうと、たまは不思議に思ったけど、とん坊が鍋から大きな鮭の切り身を取り出そうとしたのを見て「とん坊! 野菜も食べなさい!」と叫んだ。そのせいで疑問は吹き飛んでしまった。
「ええ? おら鮭食べたい!」
「野菜、全然食べてないじゃない! それに私も鮭食べたいのよ!」
「たま姉さんが食べたいだけじゃんか!」
「こらこら。喧嘩するなよ。タダシを見習え。ほれ、しっぽをあんなに嬉しそうに振っている」
「流石に、犬と比べられたくないなあ……」
タダシの犬皿に盛られた鍋の具材はあっという間に無くなりそうになっている。
こんなに美味しいものを食べたことが無いみたいに貪っていた。
「そういえば、タダシの飼い主見つけたのか?」
「ノー。今日は見つけられませんでした」
「俺はこのまま飼い続けても構わないぞ」
蝶次郎はタダシに愛着を持ち始めたらしい。
それに瀬美が甲斐甲斐しく世話をしているのを見て、心から飼ってもいいと思った。
瀬美はじっとタダシを見つめると、ゆっくりと首を振った。
「ノー。きちんとした飼い主を探しましょう」
「どうして? 瀬美さんはタダシのこと好きじゃないの?」
たまが純真無垢な目で瀬美を見る。
瀬美は「犬を飼うというのは、最後まで責任を持つということです」と答えた。
「その責任を、私は果たせそうにないのです」
「それって……」
「瀬美姉さん、どっか行っちゃうの?」
たまととん坊が不安そうに瀬美の瞳を覗きこむ。たまは泣きそうになっていた。タダシも雰囲気を感じ取ったのか、くううんと不安そうに鳴いた。
「こら。瀬美を困らせるな。瀬美は責任感が強いから、そういう言い方になったんだ」
蝶次郎の助け舟に瀬美は「そうです」と乗った。
子供たちは納得しなかったけど、なんとなくこれ以上聞くのは駄目だと、各々思ったらしく、それ以上聞かなかった。
「瀬美。そろそろ雑炊を作ってくれ。きっと美味しいはずだ」
「イエス。かしこまりました」
「あれ? 瀬美さん食べないの?」
「私は、後ほど食べます」
一度落ち込んだ雰囲気だったが、絶品の雑炊が登場したことで、蝶次郎と子供たちは再び盛り上がった。これ以上ないというくらい、美味しい晩ご飯だったのだ。
ごちそうさまの後、蝶次郎と子供たちはしばらく将棋などで遊んでいたが、夜が深くなると子供たちは眠ってしまった。
蝶次郎は瀬美に「明日、少し付き合ってくれ」と静かに言った。
「イエス。何に付き合えばいいのでしょうか?」
「母と姉の墓参りだ。命日なんだよ」
「かしこまりました。何か用意するものはございますか?」
「特に無い。というより、準備はできている」
蝶次郎がいつになく上機嫌に見えていたのは、鮭を貰ったからではなく、そうでもないと墓参りに行けないからだ。少しでも気分を上げないと憂鬱な心に支配される。
「明日は城には行かない。上役に言って非番にしてもらった」
「では、朝から墓地に向かうのですね」
蝶次郎はゆっくりと頷いた。そして顔を傾ける。その横顔がいつになく淋しげに見えた瀬美は蝶次郎に「大丈夫ですよ」と言う。
「頼りないと思いますが、明日は私もいますので」
思わぬ瀬美の気遣いに蝶次郎の胸が熱くなった。
「……ああ、そうだな」
そう答えるのが、やっとだった。
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