第10話博打の終わり

「せ、瀬美……これは……」

「蝶次郎様。何も問題はございません」


 機械的に瀬美は慄いている蝶次郎に返すけれど、この場にいる者全てが異常を感じていた。

 それは蟷螂も同じだった。博徒として名を馳せた男だが、目の前の現実を信じられずにいる。


「……お前さん。何してやがるんだ?」


 ドスの利いた声を出して蟷螂は瀬美に訊ねる。

 いや、質問というよりも恫喝に近かった。


「決まっております。私はいかさまをしているのです」

「――っ! んなことは分かってんだよ!」


 蟷螂が激怒するのは無理も無かった。

 明らかに瀬美はいかさまをしている。しかしその絡繰が分からない。

 同時に目の前で行なわれていることが信じられなかった。


 現在、四十四回目の賽振りを蟷螂は行なった。

 その出目は三と六である。これ自体には異常は見られない。二つのサイコロを振れば起こり得る数字だ。

 しかし、この場合は起こらないことが問題だった。


「なんで――ピンゾロが出ねえんだよ!」


 蟷螂が怒りを発散するように大声で喚いた。

 その怒声は子分たちを震えさせたが、瀬美だけは冷静だった。

 否、平常のままというのが正しい。


 ピンゾロは三十六分の一の確率だ。出ない確率のほうが高いのは言うまでもない。

 しかし、四十四回行なわれた賽振りにおいて、一度も出ないというのは――控えめに言って異常だった。


 蟷螂は瀬美がいかさまをしない限り、ピンゾロが出ないことはおかしいと分かっていた。何故なら蟷螂は『ピンゾロ』を『今使っているさいころ』で出すことができるからだ。

 相手も触れるサイコロでそんなことが可能なのかと思うが、蟷螂はさいころの特定の数字を上面にすることで自在に出目を操作できる仕掛けを施していた。


 もちろん、瀬美がそれを見抜いてピンゾロを出すこともありえたが、そっちのほうが蟷螂の都合がいい。何故ならば蟷螂が用意したいかさまを行なった時点で、それを指摘すれば蟷螂の勝ちなのだから。さらに言えば、知らない状態でピンゾロを出しても、さいころの仕掛けを明かすことで、瀬美にいかさまの罪を着せることもできる。


 しかし、今の状態は明らかにおかしかった。

 何故、ピンゾロを出さない?

 出目を操作できるのなら総取りすればいい。

 まさか、こちらの意図を読み取っているのか?


「それでは、次は私の番ですね」


 あれこれ考えているうちに、瀬美が素早くさいころを手に取った。

 そしてゆっくりと手の中で転がす。その余裕綽々な態度が蟷螂の神経を逆撫でした。


「こんな屈辱、初めてだ……! この女、どういういかさまをしてやがる……!」

「お、親分……不味いですよ……」


 貸元の一人が青い顔で蟷螂に話しかける。苛立ちが最大になっている蟷螂は「なんだてめえ!」と怒鳴りつけた。


「ひいい!? み、見てください……賭け札が、残り一枚です……」

「な、なんだと!?」


 貸元の示したところに置かれたのは、たった一枚の賭け札。

 これまで大きく賭けていたので、四十四回の勝負の途中で無くなりかけていた。

 対する瀬美は――


「あっちは、結構ありますよ……」


 瀬美は一枚ずつしか賭けてないので、残りはちょうど五十六枚。

 その中から一枚だけ取り出して、瀬美は賭け札を置く。

 それからあっさりとさいころをお椀の中に投げる――出目は六と四だ。


 蟷螂の目には、その六と四の出目が恐ろしく不気味に見えた。

 どうしてピンゾロが出ない? 瀬美の手法とは? 

 様々なことが頭を巡るが、賭ける札が一枚だけという現実は変えられない。


 次の賽振りでピンゾロが出なければ、蟷螂の負けが決定する。

 このピンゾロ博打の勝利条件は相手が賭けられなくなったら負け――まさに絶体絶命の窮地である。


 震える手で蟷螂はさいころを二つ、手に取る。

 もし、ここでピンゾロを出せなかったら――五百両支払うことになる。せっかく大きくなった蟷螂一家が破産してしまうほどの額。


「…………」

「いかがなさいましたか? さいころを振ってください」


 機械的に促す瀬美。

 三十六分の三十五の確率で、蟷螂は全てを失う――


「な、なあ瀬美さんよ。ここは一つ、相談があるんだが」

「ノー。私にはありません」

「ここは一つ、引き分けにしてくれねえか? 金は二百両払うから……」

「ノー。蝶次郎様に必要なのは、五百両です」

「お、お前、ここから逃げられると……」

「ノー。脅しには屈しません。早く振ってください」


 付け入る隙を与えず、瀬美は蟷螂を退ける。

 蟷螂はもはや、こう言うしかなかった。


「た、頼む。せめて慈悲を――」

「ノー。これは真剣勝負です」


 瀬美はあくまでも機械的に、蟷螂を静かに追い詰める――


「振らずに負けを認めるか、振って負けるか。どちらを選びますか?」

「――もういいよ。瀬美」


 瀬美と蟷螂の勝負に待ったをかけたのは、蝶次郎だった。

 血の気の引いた顔だが、瀬美の肩を掴んで、決死の思いで言う。


「もうこれぐらいでいい。蟷螂殿の提案を受けようじゃないか」

「蝶次郎様。それでは橋の修繕が叶いませんよ?」


 蝶次郎自身、このまま五百両を得られると思っていた。

 余計なことを言わなければ、当然そうなるだろう。

 しかし、蝶次郎は静かに言う。


「こんなやり方で、橋を修繕しても喜ぶ者はいない。俺も橋を見るたびに後ろめたさを感じてしまう。それにやくざ者とはいえ他人を破産させたと聞いたら、たまが悲しむ」


 瀬美は三つ挙げられた理由をそれぞれ考えて、蝶次郎とたまの精神が危うくなるのはよろしくないと判断した。


「イエス。了解しました。では、蟷螂殿。引き分けとしましょう」

「あ、ああ。願っても無いことだ……」


 瀬美には金銭欲というものはない。だから蝶次郎の命令にすんなりと従った。

 蝶次郎のほうはと言うと、当たり前だが欲はある。

 しかし、ずるい方法で大金を奪うというやり方は、武士としてあるまじき行為だと思ってしまった。


 姉のさなぎの教えにあったかどうかは蝶次郎にも判然としなかったが、あったことは明白である。そうでなければ、蝶次郎は止めたりしなかっただろう。


「なあ、お前さんたち。さっき橋がどうだとか言っていたよな?」


 勝負が終わり、弛緩した空気が漂う中、蟷螂が蝶次郎たちに質問した。

 それに答えたのは蝶次郎だった。ほっとした表情のまま「ああ、燭中橋だ」と言う。


「つい二日前に、子供が落ちてしまったんだ。だから改修しようと資金を集めていたんだ」

「お前さん、武士だろう? 上役に相談しないのか?」

「有り体に言えば、金が無い」


 蟷螂はなるほどなと腕組みをした。天道藩当主の蛾虫の噂はよく知られるところだった。

 加えて蟷螂は蝶次郎のことを見直した。初めは女の力で大金を得ようとする情けない男だと思っていたが、きちんと武士らしい考え方を持つ男だと再評価した。窮地を救ってもらったことを抜きにしても、協力してやりたい気持ちが芽生えてきた。


「なら俺たちが人足を集めて橋を改修してやる」


 蟷螂の口から出たのは彼自身意外と思う言葉だった。

 蝶次郎は思わず「本当か!?」と訊ね返す。


「ああ。これでも天道藩の大工に顔が利くんだ。生業がそうだからな」

「そうか。しかしタダというわけにもいかない。今得た二百両をその代金としてくれ」


 この提案には流石の蟷螂も驚いた。

 せっかく得た二百両を返すというのだから。


「お前さん、正気か!?」

「正気だ。よく考えてみろ。初めから橋の改修を五百両で頼むつもりだったんだ。それが二百両で済むんなら、安くなったものだろう?」


 蝶次郎は「瀬美。それでいいな?」と確認を取った。

 瀬美は「蝶次郎様のお心のままに」と頷いた。


「蟷螂殿、頼みましたよ」

「……今日は驚くことが多すぎるな」


 冷や汗をかきながら、蟷螂は蝶次郎に約束した。


「任せてくれ。必ず燭中橋を改修する。お前さんの男気に感謝するぜ」

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