第9話ピンゾロ博打
天道藩で最も勢力が大きく、藩内のやくざ者への影響力が強い蟷螂一家の親分、蟷螂が右腕を賭けろと言い出したのは、明かしてしまえばただの脅しである。沈着冷静な者でも自分の肉体の一部を差し出せと言われたら動揺する。その心の隙を突くために、彼は言い出したのだ。
おそらく女――瀬美は勝負を受けるだろうと蟷螂は考えた。それは見栄や欲ではなく、彼女自身が勝てると思っているからだとも推察している。だからこそ、彼の提案する『勝負』の布石として瀬美を揺らがせる必要があった。
「どうだ? お前さん、自分のそっちの兄ちゃんの右腕、賭ける気があるか?」
蟷螂は真剣な表情のまま瀬美に問う。
相手に自分の余裕を見せたりするのなら笑ったほうが効果的だが、敢えて険しい表情をすることでこちらの覚悟を示す。それによって重圧をかけるのだ。
「そうですね。私と蝶次郎様の右腕ではなく、別のものでしたら、賭けてもいいですよ」
だが意外にも瀬美は蟷螂の提案に待ったをかけた。
思わぬ反応に蟷螂は「なんだ、臆したのか?」と首を傾げる。先ほどから青い顔をしている蝶次郎と違い、瀬美は右腕を賭けることを躊躇しないと思っていた。
「万が一にも、蝶次郎様にご迷惑をかけることはできませんから」
「はん。じゃあ何を賭けるつもりなんだ?」
「私自身を賭けます」
これこそ想定しなかったので、蟷螂は度肝を抜かれた。
ざわめく蟷螂の子分たちとその場にいた客たち。
蝶次郎も「な、何を言っているんだ!?」と驚愕している。
「言葉どおりです。私を賭けます。死ねと言われれば死にますし、どんな命令も受け入れます」
「そんな馬鹿なことを――」
「待て……瀬美さんよ、それは本気で言っているのか?」
蟷螂は慎重に聞き返した。丁半博打で十連勝できるほどの女を自由に扱えるのは、大変魅力的だった。上手く使えば天道藩どころか東北、あるいは日の本のやくざ者を従えられることも可能だ。それに使えないと分かれば女郎屋に売り飛ばせばいい。正直、右腕など貰ったところで処分に困るだけだ。先ほども言ったが、右腕云々は脅しにすぎない。
「イエス。あなたが賛同してくださればそれで勝負いたしましょう」
「ああ。俺に異論はない」
「ならばさっそく、勝負を始めましょう」
機械的に応じる瀬美に対し、蝶次郎は「瀬美、やめろ!」と喚いた。
今にも倒れそうなくらい顔色が悪い彼に対し、瀬美は「ご安心ください」と返す。
「私は決して、負けませんから」
「そういう問題じゃ――」
「兄ちゃん、黙りな。こっからは俺と瀬美さんの勝負なんだからよ」
鋭い視線を蝶次郎に向けて、それから瀬美に「覚悟はできているようだな」と念を押した。瀬美を手に入れられるかもしれないのは大変魅力的であったが、そのことで目が眩むということは、蟷螂に限ってありえなかった。
「じゃあ勝負の内容を言うぜ――これから行なうのは『ピンゾロ博打』だ」
蟷螂は貸元に目配せして、ちんちろりんで使うお椀を持ってこさせた。
そこに二つのサイコロを添えて「遊び方は簡単だ」と説明を始める。
「順番で椀の中にサイコロを振って、ピンゾロを出すって単純な遊びなんだが、サイコロを振る際、金を賭けてもらう。最低でも一両、最高で五両だ」
「なんだと!? そんな高額な……」
蝶次郎が唖然とする中、貸元が賭け札を持ってきた。今、蝶次郎と瀬美が持っている賭け札よりさらに高級だと思わせる、白に朱で模様が書いてある豪華なもの。
「今、お前たちは一万二百四十枚の札を持っている。つまり、百両ほど持っていることになる。だからこの札百枚を取り替えよう。端数は換金してやる」
「この遊戯の進め方と勝利条件はなんでしょうか?」
瀬美の質問に蟷螂は「さっきも言ったが、二個のサイコロの目が一……ピンゾロにすることだ」と言う。
「出なければ、賭けた金は積み立てられる。そしてどちらか一方がピンゾロを出したら、今までの金は全てそいつのものになる」
ピンゾロになる確率は三十六分の一である。起こりにくいものではなく、むしろ発生しやすい部類である。いきなり一回目で出てしまう可能性もあった。
「それから先攻の前に後攻が金を賭けるという決まりがある。そうしないとなかなか終わらないからな」
「理解しました」
「勝利条件は相手の札が無くなること。つまりこれ以上賭けられなくなったら負けだ」
「あなたの賭け札はどれだけありますか?」
瀬美の問いに蟷螂は「ふふふ。同じ百枚だよ」と不敵に笑った。
「だが安心しろ。俺が負けたらお前たちに五百両支払う。お前さんが自身を賭けたのと釣り合うと思うが、どうだ?」
「私に異存はありません。それで結構です」
「よし。それじゃあさっそく――」
「その前に、追加の条件を提案させてください」
瀬美の提案に怪訝な顔の蟷螂。
すぐさま「追加の条件?」と聞き返す。
「イエス。まずサイコロは私とあなただけしか触らないようにすること。今この時点においてです」
瀬美の言葉に蟷螂は頷いた。それは彼も望むところだったからだ。ありえないと思うが、蝶次郎がいかさまをするかもしれないし、貸元の誰かが金で寝返って瀬美側に着く、あるいては着いている可能性があるかもしれないからだ。
「そしてもう一つ。私はこの勝負でいかさまをします」
「……堂々と言うじゃねえか」
「そのいかさまを見破ることができたのなら、勝負の途中でもあなたの勝ちで構いません」
この提案の意図は分からなかった蟷螂。いかさまをすると言う利点が見当たらない。黙ってすればいいことなのに、どうしてわざわざ言うのか。考えられるのは、先ほど右腕を賭けると提案したのと同じで動揺を誘うことだが……
「分かった。その条件も飲もう」
「では勝負を始めましょう。先攻後攻の決め方は?」
「お前さんが決めていい」
豪気なことを言う蟷螂だったが、このピンゾロという勝負においては先攻後攻は関係なかった。
瀬美は「先攻で参ります」と言う。そんな彼女に蝶次郎は「もう止められないのか?」と最後の確認をした。
「イエス。しかしご安心ください。私は必ず勝ちます」
「…………」
蝶次郎は今すぐ逃げ出したい気持ちで一杯だった。
けれど姉のさなぎの教えや瀬美を一人にしてはいけないという思いから、なんとかこの場にいる。周りからの重圧が凄まじいが、どうにか踏み止まっている。
「……分かったよ。もう何も言わない」
「ありがとうございます、蝶次郎様」
そんな二人のやりとりを奇妙に思いながら、蟷螂は「ほら、さっさと賭けて振れよ」と促した。
二つのサイコロを手に取った瀬美は、しばらく手の中で転がした。
そして蟷螂が賭け札を三枚置いたのを見て、一枚だけ自分の賭け札を置く。
「あん? いきなり五枚賭けじゃねえんだな」
「イエス。そっちのほうが効率良いので」
意味不明なことを言いながら瀬美はサイコロを振った。
お椀の中で回転する二つの立方体は、やがて静止した。
出た目は――五と六だった。
「まあいきなりは出ないわな」
「そのようですね」
四枚の賭け札が脇に置かれて、次に後攻の蟷螂は二枚賭けてからサイコロを振る。
結果は二と四だった。周りから少し溜息のようなものが出る。
このピンゾロ博打はいかに総取りできるかが肝となっている。賭けている金が少ないときにピンゾロを出してしまうのは損であるし、逆に持ち金が少ないときに賭け金が多ければ逆転できる。いかにして自分の都合が良いときにピンゾロ出すのかが重要なのだ。
――そう誰もが考えている。蝶次郎も周りのやくざ者や客も、そしてこの博打を考案した蟷螂自身も。
ただ一つだけ例外なのは、瀬美一人。
彼女だけは全員の思考の外を思い描いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます