第7話優先事項

「あらやだ! 聞いたわよ瀬美さん! たまちゃんのこと助けたって!」

「街中の噂になっているわ! 泳ぎが達者なのね!」

「聞いたとき、思わず味噌汁噴き出しちゃったわよ!」


 翌朝、どこから聞きつけたのか分からないが、蝶次郎の家の前にいたおもんとおしろとおちょうが口やかましく言ってきたのを、瀬美は冷静かつ機械的に「大したことはしていません」と応じた。


「私はそれが正しいと思い、実行しただけです」

「それでも凄いわよ! おばちゃん、感動したわ!」

「美人には裏があると思っていたけど、そんなことなかったのね!」

「あなたが近所にいるのは誇らしいわ!」


 これがこの時代の女性なのかと瀬美は静かに思考した。未来では喋るよりも文字のやり取りが多かった。だから騒がしいという現象を目の当たりにしたのは初めてだった。


「なんだ。やかましいな。そんなに大騒ぎすることではないだろう」

「青葉様! 瀬美さん、本当に従姉妹なのですか?」

「何か隠していることあるんじゃないですか?」

「別に誰にも言わないですよ。こっそり私たちに教えてください!」


 耳の穴をほじりながら家の外へ出てきた蝶次郎に三人の妙齢の女性が口々と質問をする。

 少しだけ辟易しながら「瀬美は従姉妹で隠していることもない」と蝶次郎は答えた。


「それにお前たちに喋ったら、午前の間に町全体に広まっちまう」

「あらやだ。そんな下品な真似しませんよ!」

「そうよ。私たちのこと、なんだと思っているんですか?」

「流石に失礼ですよ!」

「お喋り好きの町人の奥方たちだと思っている。それよりどいてくれ。勤めに遅れてしまう」


 三人を押しのけて、蝶次郎は瀬美に「行ってくる」と短く言う。

 瀬美は深く頭を下げて「行ってらっしゃいませ、蝶次郎様」と応じた。


「瀬美さんは、青葉様のことをどう思っているの?」


 蝶次郎の姿が見えなくなってから、おもんが問い詰めてきた。

 おしろとおちょうも興味深そうに答えを待っている。

 瀬美はあくまでも機械的に答えた。


「蝶次郎様はご立派な方だと思います」

「ええっ!? 本気で言っているの?」

「勘定方でも有名な怠け者だと聞いているわ」

「後、飲んだくれでもあるし……」

「今、なんとおっしゃいました?」


 おちょうの言葉に、瀬美が素早く反応した。

 怒られるかもとどきどきしたおちょうは「えっと、その……」と口ごもった。


「青葉様は、毎晩お酒を浴びるように飲むって……」

「それはいけませんね。一日か二日、飲まない日を作らなければ」


 瀬美にとって、蝶次郎の健康は優先事項の一つだった。

 もちろん、彼の生命を守るためである。

 それに比べれば、彼への悪口など関心が無い。ゆえに咎めることもない。


「貴重な情報、ありがとうございます」

「あ、どうも……」


 三人は瀬美のことを少し変な人かもと思ったが、同時に蝶次郎へ特別な思いを抱いていると勘違いしてしまった。これで蝶次郎と瀬美の関係が町中に広がることが確定した。



◆◇◆◇



「燭中橋の普請が延期になるって、どういうことですか?」


 姫虫城の勘定方が集まる部屋で、蝶次郎は自身に宛がわれた帳簿を手に、上役の吉瀬鍬之介に問い質した。


「この件についてだが、銭が不足していてな。今年中には改築できぬとのことだ」

「そんな。昨日、たま――子供が落ちたんですよ。手すりに寄りかかっただけで。きっと橋板も悪くなっているに決まっています」


 同僚たちは昨日から蝶次郎が真面目になっていることに驚きつつも算盤を黙って弾いていた。

 鍬之介も顔を渋くしながら「殿が年末に鷹狩りがしたいと仰せになった」と事情を明かした。


「そのせいで予算が無い。だから延期となった」

「……殿は燭中橋のことを知っているのですか?」

「おそらく知らんが、知っても気にしないお方だ。それはおぬしも分かっているだろう」


 ぎりりと歯軋りして、蝶次郎は「もし橋が崩れて落ちたらどうなります?」と足掻くように言葉を紡ぐ。


「あの橋を利用している町人は多いです。大勢の者が往来しているときに、橋が崩れ落ちたら、亡くなる者がどれだけいると思いますか?」

「……そんな仮定の話をしても仕方あるまい」


 話はそれまでとばかりに鍬之介は蝶次郎から目を離した。

 納得できない蝶次郎はその場に立ち尽くしている。


「何を突っ立っておるか。おぬしが駄々をこねてもどうにもなるまい。今日の勤めを果たせ」


 人の生き死にが懸かっているのに、何が今日の勤めだと思ったが、口にすることなく蝶次郎は自分に宛がわれた仕事をし始めた。

 無論、やる気も無くいつもよりも遅い時間に仕事は終わったが、今日ばかりは鍬之介も彼を叱ることはなかった。


 勤めが終わった蝶次郎は、真っ直ぐ家に帰らず、かといって酒場で飲むこともなく、酒瓶を持って、燭中橋のところへ向かっていた。

 酒を瓶から直接飲みつつ、町人が渡る様子を見ていた。遠くからでも、歩くたびにぎしぎしと音を立てているのが分かり、これでは長くないなと彼は思った。


「蝶次郎様。そこに居ましたか」


 後ろから話しかけたのは瀬美だった。

 言っていた刻限を過ぎても帰ってこない蝶次郎を探していた――彼女に搭載されているセンサーを使えば容易いことだった。


「瀬美か。少し話を聞いてくれないか」

「イエス。聞かせていただきます」

「この橋、老朽化が酷くて落ちそうなんだ」

「そのようですね。長く見積もっても三ヶ月が限度でしょう」

「でも普請はしないんだってさ。殿が別のことに銭を使うから」


 遊びと言わずに別のことと曖昧に言ったのは、主君への配慮ではなく、口にしてしまったら怒りが増すからだった。

 瀬美は蝶次郎の言葉を待った。


「……今も往来している町人たちがいる。いつ落ちるか分からない橋の上を知らずに歩いている。それがどんだけ恐ろしいか」

「蝶次郎様はいかがなさりたいのですか?」

「決まっている。この橋を改築したい。でも、銭も無ければ人足も集められない。どうすればいいのか、まるで分からん」


 蝶次郎は酒を飲みつつ「気分の悪い酒だ」と吐き捨てた。

 現実から目を逸らして、酔い潰れたいのに、何故かしらふのままでいる。


「瀬美。お前ならどうする?」

「お答えできません」

「……どうしてだ?」

「私の役目は、蝶次郎様を守ることです」


 機械的に応じる瀬美に馬鹿な質問してしまったなと自嘲気味に笑う蝶次郎。

 けれど――


「しかし、蝶次郎様の精神健康上の問題がこの橋にあるのなら、解決しなければなりません」


 瀬美の言葉に蝶次郎は振り返った。

 彼女はあくまでも、無表情のままだった。


「この橋を改築しましょう」

「お、おい。そんなこと、お前できるのか……?」

「ノー。私一人では無理でしょう」

「じゃあどうやって……」

「銭、つまり金銭があればできると思われます」


 瀬美は逆に蝶次郎に訊ねた。


「具体的な金額をおっしゃってくださればご用意いたします」

「そ、そうだな。五百両あれば十分だと思うが……どうやって用意するつもりだ?」

「この町には賭場がありますね」


 蝶次郎は目を丸くして「まさか、賭場で稼ぐのか!?」と驚いた。

 まさか瀬美が真っ当な手段ではない方法を口にするとは思わなかったからだ。


「ええ。この時代でしたら簡単に稼げます」

「し、しかし……」

「ですが、今日はとりあえず家に帰りましょう」

「あ、ああ……どうして今日は駄目なんだ?」

「この時代の賭け事について情報不足です。明日までにきちんと学んでおきます。また蝶次郎様は深酒をしております。これでは思考がまとまらないでしょう」

「そ、そうだな」

「それともう一つ、理由がございます」


 瀬美はそれが全てに優先されるとばかりな口調で静かに言う。


「用意した晩ご飯が冷めてしまいます。家にお早く帰りましょう」

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