第5話人間らしくあれ

 天道藩は東北地方にあり、今は秋が終わりかけの季節である。

 昼前の時間帯にようやく気温が高くなる。しかし最高気温には達していない。

 肌寒い風と凍れるような体感に身を縮こませる者がほとんどだ。


 気温がそうであるならば、水温はもっと低い。世の中には冷たい水で顔を洗っただけで心臓発作を起こしてしまう事例もある。

 つまり、幼い少女である、町医者の娘のたまは溺れるよりも先に、低体温症や心臓麻痺で亡くなるかもしれないということだ――


「たま姉さん!」


 大きな音を立てて冷たい水面に叩き込まれたたま。

 とん坊は絶叫して下を覗きこむ。

 見るとたまは必死にもがいている。まだ生きている。しかし着物が水を吸って、身動きがとれない。加えて冷たい川の水のせいで体力を奪われる。


「大変だ! 子供が川に落ちたぞ!」


 橋を往来していた通行人の大人が気づいて集まってくる。

 しかし誰一人として川に飛び込んで助けようとはしない。寒い土地柄、泳ぐことが不得意なものが多かったからだ。


「これに捕まれ!」


 だが助けようとする者は多かった。どこからか縄を持ってきて、たまに向けて垂らす――掴めない。凍てつく水に纏わりつかれて、縄を握るどころか、触ることもできずにいた。


「たま姉さん! 今助ける!」

「坊主、やめろ! お前まで溺れる気か!」


 全員、混乱状態になっている。誰か冷静な者がいれば、縄を誰かに結んで大勢で支えてたまを掴んで引っ張り上げるというやり方を思いついただろうが、子供の窮地に動揺していて誰も考えつかない。

 たまの身体がどんどん沈んでいく――


「おい、あれ!?」


 誰かが叫んで指を指す。皆が一斉にその方向を向く。

 物凄い勢いで岸からたまに向かって迫る者がいた。

 この寒い川の中を、まるで魚のように素早く泳ぐ者。


「なんだ、あの女は!?」


 女と分かったのは、たまの元に辿り着いて、彼女を仰向けにして脇に手を通して、ゆっくりと岸へと泳いでからだった。


「たまさん。もう少し頑張って下さい」


 優しく励ましながら、身体に負担をかけず、かといって遅くも無い速度で泳いでいたのは、瀬美だった。たまは歯の根をがたがた鳴らして瀬美の顔を見る。


「布団持って来い!」

「それから医者も!」

「あったけえもんも忘れるな!」


 町人たちが喚いて各々ができることをする。

 瀬美とたまが岸に上る。両手にたまの身体を抱いて、用意された布団を受け取って少女を包む瀬美。


「もう大丈夫です。ご安心ください」

「あ、ああああ……」


 全身の震えが止まらないたま。しかし意識はしっかりとしていた。

 瀬美の肩にも布団がかけられた――かけた中年の女性は不思議に思った。

 どうしてこの人の身体は震えていないのだろうと。


 たまはゆっくりと白湯を飲みながら、命の恩人の瀬美に感謝の言葉を伝えようとした。

 けれど瀬美は布団を纏いつつ、立ち上がった。


「おいあんた、平気なのか!?」

「イエス。私は平気です。だからたまさんの様子を見てあげてください」


 余裕そうにしている瀬美を見て、たまは改めてこの人は何者だろうと思った。

 そしてゆっくりと意識を失った――安心したからだ。



◆◇◆◇



「……なるほどな。そういう訳か」

「イエス。蝶次郎様のご意思に背いて、目立ってしまい、申し訳ございません」


 たまの父親である町医者、源五郎げんごろうの診療所。

 布団から上体を起こした瀬美に事情を聞いた蝶次郎は納得して頷いた。


 あの後、周りの者から医者に行くように薦められて、瀬美は『普通の人間』として診てもらうことになった。既に診察が済み、外傷の無い瀬美は布団で寝るようにと、源五郎に指示されたのだった。


 一方、蝶次郎は騒ぎのことをお節介な女たち、おもんとおしろとおちょうから聞いた。彼女たちは家の前で待っていて喚いていた。

 蝶次郎はたまの無事を聞いて安堵したものの、矢継ぎ早に瀬美のことを聞いてくる彼女たちを見て、何らかの説明をしなければならないなと思った。


 そして現在、瀬美から事の経緯を聞き終えたところだった。


「謝ることじゃない。お前がいなければたまは死んでいたかもしれなかった」

「イエス。八割の確率で亡くなったでしょう」

「……礼を言おう。ありがとうな」


 蝶次郎が頭を下げると、瀬美は不思議そうに首を傾げた。


「どうして礼を述べるのですか?」

「どうしてって。知り合いの子供を助けられたんだ。礼を言うのが当然じゃないか」

「ノー。人命を救助するのは当然の行ないです」


 瀬美は「大昔、ロボットには三つの原則がありました」と語り出す。


「人間の身を守ること。人間の命令に従うこと。そして自己を防衛することです」

「つまりそれに従っただけなのか?」

「ノー。今はその原則に従うロボットはいません」

「じゃあなんで助けたんだ?」

「私にプログラミングされているのは、人間らしく生きることです」


 ロボットが人間らしく生きる。幕末に生きる蝶次郎はピンと来なかったし、絡繰が人として生きるのは無理ではないかと思った。

 しかし瀬美の言葉で悲しい思いをする。


「もしも私が人間ならば、たまを助けたと思います。だから行動しました」


 蝶次郎は三人の女たちから、瀬美がたまを救助したときの状況を聞かされていた。

 誰一人、川に飛び込んだりしなかったと。

 それは自分の命を優先する人間らしい行動だ。


 けれど瀬美は人間ではないから、冷たい川の中に飛び込めた。

 絡繰だったからこそ、人間にはできない行動ができた。

 人間じゃないからできる、人間らしい行ないという矛盾。


 蝶次郎は瀬美に同情を覚えた。同時に絡繰に人間らしくあれと指示した者を冷酷な鬼のようだと思った。


「どうかいたしましたか?」

「……いや。とにかく、たまは助かったんだ。それでいい」


 蝶次郎が無理矢理自分を納得させた直後、がらりと襖が開いた。

 そこには青い顔をした源五郎がいた。相変わらず口ひげが濃いなと蝶次郎は思った。


「源五郎殿。たまはどうだ? 元気――」

「あんた、人間じゃないな」


 たまの容態を訊こうとした蝶次郎の機先を制するように源五郎は問う。

 蝶次郎は「な、何を言っているんだ?」ととぼけようとしたが、源五郎は険しい顔でさらに問う。


「脈が無い人間などいるものか。それに川に飛び込んだのに体温が正常だ」

「…………」


 確信している口調と瞳に蝶次郎は何も言えなくなってしまった。

 沈黙している瀬美に対し源五郎は「人間ではないとしたら」と続ける。


「物の怪なのか?」

「ノー。物の怪ではありません」

「では何者だ?」


 蝶次郎は頭を悩ませたが、次の瀬美が冷静に言う。


「蝶次郎様。私はこの方の口を封じることができます」

「なっ――」

「ご命令があれば、即座にできます」


 場が緊張感に包まれる。

 淡々と自分の殺害を口に出されて、源五郎は動揺する。

 蝶次郎は「やめろ」と瀬美を叱った。


「さっき、人間の身を守るって原則、言わなかったか?」

「それに従う者もいないとも言いました」

「ああ、そうだった……源五郎殿、落ち着いて聞いてほしい」


 源五郎は冷や汗をかきながら「な、なんだ?」と問い返す。

 蝶次郎は背筋を正して言う。


「この者は物の怪ではないが、人間でも無い」

「……で、では、何者だ?」

「すまん。それは言えない。だが人に危害は加えないと誓う」

「それを信じろと?」

「ああ。信じてくれ」


 源五郎は自分を落ち着かせるため、ゆっくりと深呼吸をした。

 それから蝶次郎の目を見た。

 覚悟を決めた目だった。


「……分かった。あなたを信じよう」

「すまないな、源五郎殿」

「いえ。娘の命を助けてくれた恩人への態度ではなかった。こちらこそ、申し訳ない」


 源五郎が深く頭を下げて詫びたのを見て、瀬美は彼の殺害をやめた――いや、元々するつもりはなかった。

 この場でああ言えば、きっと蝶次郎は止めて、源五郎は黙るだろうと計算していたのだ。

 人間らしくあれと命令されても、瀬美はロボットだった。

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